第5章 Life is what you make it.

5-1 変わらぬもの

 壁が開いた後は、またしんと静まり返っていた。シェスティンは恐る恐る部屋の中へと歩を進める。

 少し埃っぽくはあったものの、床に描かれた丸い模様も、壁でほんのりと灯っている明かりも、まるで時間を感じさせないものだった。ぐるりと見渡しても壁や天井に罅ひとつ無い。ここに父王が立っていれば、今までの事は長い長い夢だったのだと言われても納得してしまいそうだった。


 丸い模様の奥には祭壇のようなものが設けられていて、その前に一振の剣が無造作に落ちている。部屋の中はがらんとしていて他に物がないので、それは一点の染みのようにやけに目につくのだった。

 少し離れたシェスティンから見ても、刀身には錆が浮いているようで、どこかで見たことがあるというのは記憶違いなどではないのだろう。ただ、それがまだ形を留めている、ということに違和感を拭えなくて、シェスティンは近づくことも出来ずにその場に棒立ちになっていた。


『シェスティ』


 祭壇の向こう、影の濃いところから声がして、その影がゆっくりと凝り固まっていく。足音もしないのは猫特有のものか、それとも……


「その名で呼ぶな」

『じゃあ、僕の王女様』

「それも、却下だ。ワタシはもう王女じゃない」

『んん? じゃあ、この国の正当な後継者として、女王様?』

「民のいない国など、国ではない」


 黒猫はくすくすと笑いながら、シェスティンの周りを回った。


『なんだ。来ないと思ったら『孤高の竜』に知恵を付けられちゃった? いいよ。『スヴァット』が呼んであげる。お帰り『シェス』』

「……帰ってきたわけじゃない」


 黒猫はシェスティンの前で足を止め、きちんとお座りをして彼女を見上げ、少し首を傾げた。

 その仕種は確かにスヴァットのもので、もし彼にとどめを刺さなければいけないとしても、それが自分に出来るのかシェスティンには自信がなかった。アルフの時のように何か決定的なことでもない限り……恐らくは無理なのだろう。

 青の瞳も黒の瞳も、今は普通の猫のように見える。その腹に血のこびりついた傷跡さえなければ。


『どっちでもいいよ。君が来たことが大事なんだ』


 そう言うとスヴァットは踵を返し、落ちている剣のもとへ向かう。その場で振り向くと、にっこりと笑った。


『懐かしいだろ? この剣から始まった』

「いいや。その剣で終わらせたんだ。国も……アルフも」

『長く会えない間に、ずいぶん悲観的になったんだね?』


 わざとらしく驚いた顔を作った黒猫に、シェスティンは奥歯を噛みしめて言葉を飲み込む。話をするな。そう言ったラヴロのことがよく分かった。相手は隙あらば揺さぶりをかけてくる。まともに相手にしてはいけないのだ。


「それが『始まりの剣』だという保証は?」

『間違いないよ? 僕が――俺が? あれ? うん。たぶん、そう、設定したんだから。うっかりウシガエルになった時はもうダメかと思ったんだけど、ちゃんと会えてよかったよ。あんなに不意打ちで『処女おとめ接吻キス』を奪いに行くとは思わなかったから、危うく時の回収に巻き込まれるところだったし……その辺は彼の運の良さにも感謝かな』

「……あの時の、落石」

『うん。僕なら時の回収は起きないから、君がうっかり『スヴァット』にキスでもしようとしたら変わってやろうと思ってたんだけど、流石にそこは君も警戒してたんだね。竜にも、猫にもしなかった』

「ワタシが迂闊に口づけを落とした相手は、それがどこだろうと、挨拶だったとしても、女だろうと子供だろうと必ず巻き込まれた。警戒するのは当然だ」

『さすが! 僕の王女様! 竜は回収されててもよかったんだけどねぇ』


 ひょいと肩を竦めて、黒猫は溜息を吐いた。


『まあ、いいや。さあ、これを持って、シェス』

「何をさせる気だ」

『やだなぁ。呪いを解くんだろう? 枯草の下から探し出してここまで運ぶのはこの体じゃ結構大変だったんだよ? ちょっとの距離運んでくれたっていいだろう?』

「……運ぶ? どこに」


 黒猫は黙って目の前の円形の模様の中央まで移動した。


『ここに』


 黒い瞳が、シェスティンをじっと捉えている。

 シェスティンは錆の浮いた剣を見て、それからもう一度黒猫を見た。そこは、時紡ぎの立っていた場所。あの時は周囲で模様が浮かんでは消えていたが、今は光ってもいなければ模様らしきものも見えなかった。


「そこに持っていくだけで、呪いは解けるのか?」

『そんなに簡単じゃない。でも、そこにあるだけでは何にもならないのは確かだよ』


 黒猫はわざとらしく、青い瞳の方をシェスティンに向けた。

 ゆっくりとシェスティンは剣に近付く。その前に屈み込んでも、まだ彼女は手を出せないでいた。今までスヴァットが解呪のための物をどうしてきたのか、頭を過ぎる。

 『竜の鱗』も『人魚の涙』もおそらく『四つ葉のクローバー』も、彼は飲み込んできた。これも、そうするのだろうか。あの小さな体で。それとも何か不思議な力が働くというのか。


 言い訳のようにスヴァットを心配しつつ、何も言わないものの、急かすようなその視線をシェスティンは諦めの気持ちで受け止めた。

 柄を握り持ち上げる。崩れやしないかと慎重になったが、全くの杞憂だった。自分の首に突き立てたのも、アルフの胸に突き立てたのも、ついさっきだったかのような錯覚に囚われる。


『……シェス』


 動きを止めてしまっていたのだろう。スヴァットが……いや、黒猫が? 彼女を呼ぶ声に意識が引き戻された。

 シェティンは頭をひとつ振って剣を片手に黒猫の元へ歩み寄る。できるだけ、平静を装って。


「これでいいのか?」

『うん。ちょっと、床に突き立てるようにしてよ』


 シェスティンは言われた通りにストンと剣をその場に落として柄尻を支えた。

 カツン、と固い音が、がらんとした部屋に妙な反響をしながら広がっていく。嫌な予感に彼女が身を固くした刹那、足元からまばゆい光が立ち上った。思わず目を瞑ってしまった彼女の口から、舌打ちが零れ出る。

 彼女が腕で目元を庇いながら、薄く瞼を持ち上げると、文字のような、模様のようなものが光を放ちながらいくつも浮かび上がり、黒猫とシェスティンの周りを渦巻いていた。模様が増えるにつれ、光量も増す。耐えられなくなって再び固く目を閉じた時、一際明るい光が彼女を突き抜けていった。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 痛みを覚えるほどの光はほんの一瞬で通り過ぎ、シェスティンの耳にカラカラと何かが回る音が微かに聞こえてきた。

 そっと目を開けると、足元には先程まで立っていた円よりもずっと小振りな――人ひとりが立って少し余裕のあるくらいの――円が見える。黒猫はすでに円の中にはいない。


『――来たよ!』


 黒猫の声にシェスティンはびくりと顔を上げる。

 他に誰か――

 薄明るいくらいに光量の抑えられた空間に、四角い窓がいくつも浮かんでいた。最初に目に飛び込んできたそれに彼女は目を奪われる。


 どこかで見た景色。つい最近までシェスティンが滞在していた『人魚の街』だと分かるまでそう時間はかからなかった。『人魚の街』に戻ってきたのかと、隣の窓に目をやって、シェスティンは息を呑んだ。そこには全く違う景色が広がっていた。東の一番大きな国の工場とその内部が見えていて、忙しなく動き回る人々が何やら黒くて煙突の付いた見慣れないものを作っている。


 上の方に開いている窓にはあの城下町、その隣はどこか田舎の風景。『妖精の森』も『大陸の傷コンティネントソール』もシェスティンが立ち寄った湖周辺の小さな街も……一つ一つの窓にはめ込まれた絵のようにそこにあった。


 絵ではないと分かるのは、そこに居る人や動物が動き、木々が風で揺れるから。次々と不思議な窓に視線を移していって、彼女が最後に目を止めたのは、薄明るい空間で四角い窓を見上げている少女が見えている窓。心臓が徐々に鼓動のスピードを上げる。シェスティンがゆっくりと右手を上げると、窓の中の少女も同じように右手を上げた。

 その足元に、黒猫が寄ってくる。


『どこでも見られるよ。気になるなら、あの薬師だって』


 ばっと黒猫を見下ろして、シェスティンは息を詰めていたことに気が付いた。ゆっくりと呼吸を再開させる。喉がひりついて、張り付いてしまいそうになっていた。


は固定されてて変えられないんだ。ほら、こっちにすれば……』


 くい、と前脚を空中で動かしたものの、特に変化らしきものはなかった。黒猫は顔を顰める。


『猫じゃダメか……』


 黒猫とちょうど反対側、辛うじてシェスティンの目の端に映り込むところで、何かがひらりと動いた。

 とたんに、窓のひとつが降りてきて、シェスティンと黒猫の目の前で大きさを変える。少し横長になったその窓にトーレが映し出された。自室で、机に向かっている。専門書を幾つか積んで、あちこちにメモを挟んで……ふと、視線に気付いたように顔を上げた。手を伸ばせば触れられそうな距離。


 シェスティンはその窓から無理矢理意識を引き剥がした。

 確かめなければと、心が警鐘を鳴らしている。

 目の端に動いたものを確かめたくなくて、でも確かめずにはいられない。

 振り返った先には、黒ずくめの虚ろな瞳の時紡ぎが、あの頃とほとんど変わらぬ姿でそこに立っていた。

 シェスティンは思わず二、三歩後退さる。彼の視線はついてきたが、それだけだった。


「……生きて……」


 掠れて、上手く発声できていなかったが、彼には聞こえているはずの音量だった。何の反応も示さず、じっとシェスティンを見る瞳に徐々に違和感を覚え始める。反応は黒猫から返ってきた。


『そっちは仕事用。もう維持管理くらいで、それも自己修復入れたから必要もないはずなんだけど……あれ? どうして僕を作ったんだっけ?』


 時紡ぎはしきりに首を捻る黒猫に視線を移して、それから静かに踵を返して空間の奥の方へと向かって行った。

 黒猫がつられたように後をついて行く。


「おいっ、どこへ……」

『シェスもおいで』


 振り向きもしない黒猫に若干イラつきながらも、シェスティンはまだ手の中にある剣の重さに気が付いた。


「……呪いは? 解けるんじゃないのか?」

『それも、彼が知ってるはずなんだよ。僕はあちこち抜けてる』


 ふっと、黒い姿が見えなくなって、慌ててシェスティンは彼らの後を追った。黒猫は足を止めて彼女を待っている。


「彼が知ってるって? だって、なんだか様子が……」

『だから、そこまで僕は解らない。僕は最後の解呪アイテムと君をここに連れてきて彼に会わせることがメインで……うん。そう。そうだった』

「……え?」


 言うだけ言うと黒猫は壁に吸い込まれていった。ひらりと黒猫が潜った所が揺れる。

 よく見ると、壁と同色の布がかかっているだけで、それを潜って行ったから時紡ぎが消えたように見えたのだ。

 ここまで来て戻ることも出来ない。シェスティンは意を決してその布を潜っていった。




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