4-8 のらりくらり

『どうでもいいが、掘り出すのは手伝わんぞ。面倒臭い』


 ラヴロは欠伸をしながらそんなことを言った。


「なんで今そういうことを言うんだ。誰もそんなこと言ってないだろう?!」

『だが、やるとなったらお前は我を使うだろう?』

「……真名を使って?」


 モーネが不安そうにラヴロを見上げた。


『そうならどんなに楽か。我が名を預けたというのに、そいつはおくびにも出さん。そのくせあれをしろこれをしろと煩いのだ』


 シェスティンの膝の上に半分体重を預けていたモーネは、それを聞いてころころと笑い出した。


「なんだ。『孤高の竜』は誰にも従わないと思ってたのに」

『そうだ』

「そうって……」


 モーネは笑い続ける。


「あー。やだ。お腹痛い。私も結構な夢見てるけど、あなたも『同類』ね」

「間違いなく同類だろう? それとも、色で差があるとかあるのか?」


 きょとんとシェスティンが聞くので、モーネは今度は彼女の膝からずり落ちてお腹を抱えて笑った。渋い顔をしているラヴロも彼女に拍車をかける。


「も、だめ。やだ。『孤高の竜』のイメージが」


 ひーひー言ってるモーネを呆れ顔で見下ろしながらラヴロは呟いた。


『あやつがどんな風に我を言っていたのか知らぬが、碌でもない事には変わりなさそうだな』

「まあ、ラヴロも出会った頃よりは丸くなってるぞ。あの頃は確かにもっとピリピリしてて、怖い竜だった」

『今も変わらぬ。何度でもお前を殺すぞ』


 ぐいと寄せられ、睨みつける琥珀の瞳を間近に、シェスティンはその鼻面に手を添え、そっと頬を寄せた。


「それでも、もう怖くはないんだ」


 地面に転がっていたモーネの頬がほんのり色づいているのは、笑い過ぎたからか。


「……『孤高の竜』少しだけ、同情するわ」

『うるさい。同情される謂れはない』


 ぷいと顔を逸らしたラヴロにモーネはまた少し笑った。


『で? 猫みたいなアレがどうしたと?』


 はたとシェスティンが表情を引き締める。


「そうだった。スヴァットが来てないか? 妖精に誘い出されて、お前の所に行くと言ってたんだ」

『妖精とは、また面倒臭いのと関わってるな』

「会うと思ってなかったんだ。でも『妖精の森』に行かなくちゃいけなくて。そんなに奥には入ってなかったんだが……」


 ふん。と竜は目を眇めた。


『知らんな。来ても叩き出すが』

「え……まさか、本当に?」

『知らんと言ってる。あれの気配なら近くにいればわかる』

「妖精にからかわれた……? いや、スヴァットもおいで、と」

は本当にあの猫もどきか? 妖精性悪どもの言うことなどに耳を貸すな』

「でも、確かにサークルには囚われて……」


 顔色を失くしてシェスティンは立ち上がった。


「探してくる。モーネを頼む」

『なにっ!? 頼まれんぞ。知らんからな! シェス!』


 足早に立ち去るシェスティンの耳には、もう何も届いていなかった。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 『大陸の傷コンティネントソール』の底を流れる川沿いを、シェスティンは『妖精の輪フェアリーサークル』がないか、くまなく探し歩いた。

 雪解け水で少し水量の増した川の、水を被って滑りそうな岩を伝って対岸に渡る。見落としの無いように丁寧に見ているつもりだったが、結局それらしいものは一つも見つからなかった。

 森の方が可能性が高いだろうかと、彼女は陽が傾き始めてシルエットになりつつある崖の上の木々に目を向ける。

 夜では効率が悪い。気温も下がってきた。昼の日差しは暖かくなってきたが、春はまだ先のようだ。溜息を吐きつつ、彼女は一度戻ることにした。


 松明を手に洞窟の奥へと進む。

 暗くて数歩先も覚束ないが、体が道を覚えているようだ。ぼんやりと考え事をしながらでもシェスティンは一定の速さで進んで行けた。

 進むにつれて奥から何かを煮込む匂いが漂ってきて、モーネが何か作っているのだろうかと少し心配になる。自然と歩みは早くなっていた。


 開けた空間に出る手前の小さな泉のある場所を通りかかった時、ぱしゃりと水音がした。反射的にシェスティンが松明を向けると、波紋が二重ふたえ三重みえと水面に広がっていく。

 この泉で飛び跳ねるような生き物を見た記憶はない。

 シェスティンは泉に近付いて慎重に水の中を覗き込んだ。


 雨が降れば簡単に溢れて辺りを濡らす、一度溜まって、またすぐにどこかに流れ出ていくような小さなもの。深さだってそれほどない。動く物を見つけられなくて、シェスティンは天井を見上げた。

 岩の欠片でも落ちてきたのかもしれない。

 立ち上がり、背を向けたシェスティンの耳元で声がした。


『きたね』


 そわりとうなじの毛がそそり立つ。

 振り返ると泉の中心部に円が出来ている。何かと目を凝らせば、水中から細かい泡がふつふつと湧き上がって、それが円を描いているのだった。

 やがて円を埋め尽くすような数の泡と共に黒猫がせり上がってくる。黒々とした瞳は炎を映して光るのに、青の瞳は光も飲み込んで沈んでいるかのように見えた。

 次々と浮かんでくる泡に支えられるように黒猫の全身が露わになると、彼はにっこりと笑った。


「……スヴァ……ット?」


 駆け寄って抱き上げたい。

 そう思っているはずなのに、シェスティンは動けなかった。嫌な予感が離れない。


『待ってた。ずっと』


 黒猫は泡の円から前脚を踏み出す。大した距離ではないが、それは当たり前のように水の上を歩いてきた。その足先が水面に触れるたび、小さな波紋が広がる。

 黒猫は岸に手をかけ、ひょいと身軽に乗り上げた。水の中から出てきたというのに、その身体には水滴ひとつ付いていない。

 どうしてか、シェスティンは黒猫が近づくたび一歩、また一歩と後退さっていた。


『君が来たがらないから、たくさん考えたんだ……考えたのは、僕じゃない気もするけど……まぁ、きっと問題無い。ね?』


 黒い瞳が弧を描く。

 引いた足が何かに当たり、もう下がれないのだと彼女が気付いた時、ねぐらのある方から黒っぽいものが視界いっぱいに飛びこんできた。


『……ふん。いくつか解けたようだが、お陰で本性も顔を出したのか?』

「ラヴロ……」


 竜の姿に正気を取り戻して、シェスティンはラヴロの躰に隠されて見えなくなった黒猫が見える位置まで体を移動させる。黒猫から目を離したくなかったのだ。


『本性?』


 黒猫はゆったりと首を傾げる。


『よく解らないな。彼と僕は違う。今までは僕が眠っていて、今は彼が眠ってる。それだけ』

「じゃあ、スヴァットを起こしてくれ。彼と話したい」


 シェスティンの言葉に黒猫は喉の奥で可笑しそうに笑った。


『『スヴァット』は彼であり、僕だ。君が付けた、素敵な名前。君は『スヴァット』と話してる。そうだろ?』

「屁理屈を言わないで、青い目の彼を返せ!」

『返すも返さないも……僕たちは離れられない。呪いを解くまでは。『始まりの剣』を手に入れるまでは』

「それを持って来ればいいのか!? それが、」


 黒猫に詰め寄ろうとしたシェスティンを、ラヴロの羽が押し留めた。


『シェス、聞くな。何か分からないものと話すな』


 シェスティンははっとする。スヴァットは月明かりがないと話せない。ここは洞窟内部。何故、彼は話せる?

 くつくつと黒猫が笑う声がする。


『持ってくるんじゃないよ? 行かないと。一緒に行こう? 今度こそ一緒に』


 無造作にシェスティンに近づこうとする黒猫を、ラヴロの爪が薙ぎ払った。黒猫はそれを身軽に避ける。


『危ないなぁ。僕は大丈夫だけど、彼は大丈夫じゃないんだけどな。やっぱり、君と遊んでからじゃないとダメかな』

『訳のわからないことをごちゃごちゃと……』


 ラヴロが黒猫に襲い掛かる。通路は竜が通れるくらいの広さはあるが、羽を広げて戦えるほどではない。そんな場所で小さな黒猫を捉えるのは容易ではないのだろう。黒猫はひょいひょいと飛んだり跳ねたり、時に死角に入り込んだりして竜を挑発していた。

 勢い余った竜の爪や尾が岩肌を削り、バラバラと欠片が飛んでくる。


「ラ、ラヴロ、やめろ。入口を崩す気か?!」

『通路のひとつ潰れたところで我は困らん』


 舌打ちをしながら、ラヴロの瞳は猫を追っていた。


「ワタシが困る! それに、あれはスヴァットだ。意識は寝ているかもしれないが、起きればきっと……!」


 シェスティンがラヴロの羽に取り縋る。布のようでいて張りのあるそれは、そんな弱いはずがないのだが、骨格部分以外を掴むと破れてしまいそうな気がした。


『……シェス! 甘い!』


 ラヴロの声は怒っていたが、彼女を振りほどこうとまではしなかった。


「一緒に、ってことはお前は知ってるのか? 『始まりの剣』を」


 岩陰から顔だけ出して、黒猫は笑う。


『君も知ってる』


 びくりとシェスティンの身体が震えた。


「……何? 何の、話だ?」

『行けばわかる』

「何処に」

『行かせぬ。シェス、聞くなと言ってる』


 黒猫は岩の上に飛び乗り座り込むと、つまらなそうにラヴロを見上げて、わざとらしい溜息を吐いた。


『んもう。余計な茶々入れないでよ。ん、んー。どう、しよう、かな』


 ぱたぱたと左右に揺れる黒い尾を、シェスティンは目で追っていた。もうひとりのスヴァットを、彼女は知っている気がする。けれど、それはあり得ない話でもあった。

 ちらりと、黒猫がシェスティンを見る。


『青い目のスヴァットの方がいい?』


 そっとシェスティンは頷く。


『僕が一緒にいても?』

「呪いが解ければ離れるんだろう?」

『ふふ。だといいけど』

「違うのか?」

『さあ。どうなるのか、楽しみだね』


 小首を傾げて、黒猫は目を閉じた。一度ゆらりと頭が揺れて、次に開いた瞳は青い方にも光が戻っていた。


 に、あ。


 そう、弱々しい鳴き声が聞こえた気がして、シェスティンは思わず庇うように立つラヴロを押しのけて黒猫に駆け寄った。


『シェス!!』


 ほんの数歩の距離。もう少しで手が届く、そう思った時小さく小さくスヴァットが囁いた。


「……シェス、来るな」


 青い目も、黒い目もシェスティンを見ている。悔しそうに、楽しそうに。

 黒猫は軽やかに、鋭くシェスティンに飛びかかった。その、喉笛を目掛けて。

 苦しい、そう思った時にはもうシェスティンの視界から猫の姿は消えていた。濡れた布を床に叩きつけた様な音が彼女の耳を打つ。


「ラ……ラヴロ……スヴァット、は」

『諦めろ。それはもうお前の思っている生き物ではない』


 ラヴロの爪に引掛けられたフードをどうにか外して、シェスティンは水辺近くに横たわる黒い塊に恐る恐る近付いた。じわじわと赤い液体が流れ出て、泉の水も赤く染めようとしている。


「スヴァット……?」


 黒猫は動かない。ただ、重たそうにその瞼は持ちあがった。


「スヴァット、ごめん。ワタシはすぐ、戻れるのに」


 小さく震える声を低く唸る声が追い掛ける。


『我の目の届く範囲で、他の誰にも、傷つけさせるものか』

「でもラヴロ、スヴァットは死んだら戻らない。もうすぐ呪いも……解けそうだったのに……!」


 目の前で弱々しくなっていく呼吸に成す術もなく、撫でてやることも出来ずに、シェスティンの手は黒猫の身体の傍でその指先を揺らしていた。


『恨むなら恨め。我はそれを生かしておけん』


 ここはラヴロのテリトリー。彼が敵と判断したのなら、排除されても仕方がない。解っていてもシェスティンの身体は小さく震えた。

 ぱたりと、黒猫の尻尾がシェスティンの手を叩く。顔を上げた彼女の目にゆっくりと弓なりになる青い瞳が映った。


「スヴァ……」


 そのまま、力無く瞼は落ちていく。


「スヴァット!」

『助けたい?』


 ぱちりと開いた瞳に、シェスティンは思わずのけ反った。

 ふわりと持ちあがる黒猫の体。

 背後からは舌打ちが聞こえる。


『ねえ。助けたい? 今、ギリギリ崖っぷち。言ったでしょ? 僕は大丈夫』

「助かる、と?」


 ふわりふわりとシェスティンの顔の高さまで浮き上がって、黒猫は彼女の瞳を覗き込んだ。


『呪いを解いて、彼が自分の身体を取り戻せばいいんじゃないかな。この身体は僕の物だから。命はまだ留め置いてあげる。ねえ。どうする?』

『どけ、シェス』

「呪いを解けばいいんだな」


 黒猫はにっこりと笑って、シェスティンの頬にキスをした。


『信用するな』

『うふふ。彼女が間にいるから、手を出せない? ふふ。楽しかったよ。また遊ぼう?』


 黒猫はゆっくりと泉の方に後退し始めた。

 唸り声に続いて耳をつんざくような咆哮。次の瞬間にはシェスティンは竜に吹き飛ばされ、岩壁に強かに打ちつけられた。

 大きな体に似合わず、素早く間を詰め、ラヴロの鋭い牙が黒猫に迫った。


「……やめ……やめろ、ラヴロ」


 がちりと牙の打ち合わさる音が響く。


「やめてくれ……」


 興奮している竜にはもうシェスティンの声は届いていない。

 ふわり、ひらりと避けていた黒猫だったが、その動きは先程よりも鈍っている。徐々に竜の爪が、牙が彼の身体を掠り始め、とうとう壁際で爪と牙の両方に挟まれた。

 もう逃げ場はない。


「……やめろっ!!」


 悲痛なシェスティンの声にもラヴロは止まらなかった。強靭な顎が、黒猫を噛み砕かんとまさに閉じられる、寸前。


「――ラブロードリット!!」


 数秒、彼女の声がこだました後は、ぱらぱらと岩屑が降る音だけが岩肌に反響していた。ラヴロは石像のように動きを止め、そのギリギリまで迫った爪と牙の間からゆったりと黒猫は抜け出してくる。


『……ここで我が名を呼ぶのか』

「やめてくれないから……!」


 彼女の前まで進み出て、ラヴロはその頬に一筋流れた涙を大きな舌で器用に掬う。


『泣くな』

『いやぁ! 助かった。さすがの僕も竜の腹の中ではどうなるかわからないからね』


 泉の上で黒猫はくすくす笑う。


「『始まりの剣』はどこにある?」

『決まってる。物語が始まったところ。君がよぅく知ってる国。待ってるよ。今度はそんなに待たせないでね。シェスティ、僕の、王女様』


 そのまま、黒猫は泉の中にとぷりと消えた。


『本当に良かったのか? 呪いを解いたってどうなるか分からないとヤツも言った。助かるなんて嘘……』


 黒猫に気をとられていたラヴロがシェスティンに視線を戻すと、彼女は顔面蒼白でがたがたと震えていた。


『シェス?』


 『妖精の森』の『妖精の輪フェアリーサークル』の中で、スヴァットはそう呼んだ。でも聞き違いだと思ってた。シェスティン、そう言ったのだと彼女は頭で勝手に補完した。

 あの時に彼は名乗ったも同然だったのか。

 膝から力が抜ける。ぺたりと座り込むシェスティンにラヴロは困惑した視線を向けていた。


 『シェスティ』そう呼ぶ人はもういない。『僕の王女様』そう呼ぶ人ももういない。

 最後に呼んだその人を、その手で――シェスティン自身の手で確かに、殺したのだから。そうでなければ、今自分はこうしてはいない。長い長い時を生きてなどいない。


「あれは――誰だ」


 シェスティンの呟きは、洞窟の冷やりとした空気に溶けて、消えた。




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