4-7 たぐるたぐる

 次の日二人は少し早めに宿を出た。いつもは朝に弱いモーネもラヴロに会うのに緊張してるのか、その目はしっかりと開いていた。

 目印の岩棚を見つけると、シェスティンはしばし考え込む。

 どうやって降りようか。背負って一緒に下りるにはモーネは少し育ち過ぎている。かといって彼女にいきなりロープを持たせても下りられないだろう。


 周囲を見渡し、支柱になるような枝が張り出しているのを確認すると、シェスティンは先にモーネを荷物のように下ろすことにした。二つの輪に体を通し、緊張していたモーネだったが、ゆっくりと下ろしてやると、ちゃんとロープを外して合図してくれた。

 あとはいつもの要領で下りるだけ。そういえば久しぶりだな、とシェスティンは少しだけひとりで笑う。気を付けないと。


 岩棚の不思議な仕掛けに、モーネは目を丸くして驚いていた。

 もしどうにかして壊れてしまったら二度と使えないんだろう。

 シェスティンは、階段状に突き出す岩々をモーネに手を貸しながらゆっくりと降りていく。

 もうラヴロは気付いているだろうか。いきなりモーネに襲い掛かるようなことはないと思うが……

 一抹の不安が過ぎって、シェスティンは途中で薄暗い空間に声を落とした。


「ラヴロ! 今日は客を連れてる。そっちには手を出さないでくれ!」


 わんわんと反響する声に応えはない。


「……本当に、いるの?」

「寝てるのかもしれないからな」


 下まで降りきって、慣れた手つきで松明を探し当て、それに火を灯す。もうひとつ火を点けた松明の傍にモーネを置いて、シェスティンは進んだ。


「何があっても動くなよ。ワタシが戻るまでは」


 松明の灯りでモーネにもシェスティンが何処にいるのかちゃんと分かる。彼女の背中が薄闇に馬車一台分くらい遠ざかった時、彼女の近くで何かが動いた。

 シェスティンがそちらに松明を向けようとした時はもう遅かった。斜め上から降ってきた衝撃に成す術もなく吹き飛ばされる。飛びきってしまう前に今度は真上から叩き落された。


『客、だと?』


 鋭い爪が地に縫いとめてるシェスティンの頬を掠め、喉元にぴたりとつけられる。


『そんなもの、認めてない』

「……すまない」


 ぴりりとしたラヴロの声に、シェスティンは呻くように謝罪を述べた。人よりもずいぶん大きい舌打ちの音と共にラヴロの爪が白い肌に食い込む。

 声帯を潰され、声は出ないがそれでも何かが空気を震わせ、シェスティンの身体が跳ね上がろうとする。


「シェ……シェス……」


 薄闇の中に浮かぶ二つの琥珀色の瞳が、動けないモーネを捉えて僅かに細められる。


『……客、とは。また、面倒なものを』

「かっ……はっ……ワタシを、噛み砕いてもいいから、ラヴロ」

『うるさい。剣を抜く気もないやつの相手などするか』


 シェスティンを押さえつけていた手を退けると、ラヴロは不機嫌そうに顔を寄せ、彼女の首に散った血の跡を舐め取りはじめた。


「……ふふっ。ちょ、くすぐった……あは」

『ずいぶん早い訪問ではないか。槍が降るわ』

「色々事情があるんだよ。話を聞いてくれ」

『面倒臭い事情などお断りなんだが』

「そう言うな」


 よっと体を起こして、シェスティンは落とした松明を拾い、とりあえず洞窟内の灯りを確保するために火を点けて回った。

 最後に震えるモーネのところまで戻り、視線を合わせてそっと微笑む。


「死なないって、解ったな?」


 小さく頷くモーネの手を引き、改めてシェスティンは『孤高の竜』の前まで進み出た。


「『人魚の街』で出会ったモーネだ。判るか?」


 ラヴロは鼻息をひとつ吹き出す。


『同族だ。何処の誰かは知らんが、見目から言えば『白雪スネーヴィート』の所縁の者だろう』

「スネーヴィート?」


 モーネが首を傾げる。


「そう呼んだら怒られたぞ。そう名乗ってる訳じゃないみたいだった」

『我が勝手に呼んでるからな。そう呼ぶと嫌がるんだ』

「嫌がる呼び方をするなよ」

『だが、あやつはそういう感じだったろう?』


くつくつと笑うラヴロは、少しの間過去を懐かしんでいるようだった。


『子が欲しいと言ってたことがあったからな。噂を聞いて会いに行ったことがある』

「えっ……じゃあ……」


 モーネの動揺を見て、ラヴロは面白そうに瞳を細めた。


『違うから安心しろ。我が珍しく頼まれもしないのに出向いたというのに、すでに数頭の竜があやつの周りにいて、花だの獲物だのを捧げていた。ばからしい。そいつらを蹴散らして我が種をつけてやろうとしたんだが……』

「……ラヴロ……」


 シェスティンは頭を抱えて呻く。ぽかんとしたモーネの耳を塞いでやりたかったが、竜の教育や常識が人と同じではないのは解るし、たぶん、モーネの知らない母の話だ。聞きたいに違いない。


『怒り狂ったあやつに本気で襲われてな。その時に耳元で呼んでやったのよ『白雪スネーヴィート』と。温厚と言われている白竜の本気はなかなかのものだったぞ。面白かったから思い付いた時に時々からかいに行ったんだが、もう本気ではかかってこなかった。そのうち竜狩りが激しくなって、からかいに行くのも面倒になってやめた』

「竜の子作り事情はよく解らんが、相手が怒ったということはお前の行動は褒められたものじゃなかったってことだな?」

『褒められるとか、褒められないとか、そんなことを考えて行動したことはないな。向こうだって気に食わないから怒った。それだけの話だ』


 埒が明かないと、シェスティンはモーネを窺った。視線に気づいてモーネが口を開く。


「わ、私はいつ人に混じってもいいようにと育てられたから……他の竜にも会ったことがないし……」

『父とは暮らしてなかったのか』

「どこの誰かも知らないわ。母さんは教えてくれなかった」

『まあ、正解だ。どうせひとりで生きていかねばならぬ。寄れば見つかりやすくなるし、もう狩られてしまっていたのかもしれん』


 少しがっかりしたように下を向いたモーネは、何かを振り切るように一度頭を振ってラヴロを見上げた。


「ねえ、竜に戻る方法を教えて」

『母に聞かなんだか』

「教えてくれなかったの。もう竜に戻ってはダメだと」


 彼女は胸の辺りをぎゅっと押さえる。


『ふん。決めるのは本人だろうに。あやつは子をって何をしてる。まだ独り立ちには早そうだが』


 答えを持たないモーネはおずおずとシェスティンを見た。


「……とりあえず、火を熾して座っていいか? 茶を淹れよう」




 慣れた様子でラヴロの寝床近くに火を熾し、人数分のお茶を淹れると、シェスティンはモーネから少し距離をとって転がっている岩のひとつに座った。

 伏せて器用に爪で鍋を引掛け、口に運ぶラヴロが横目で見ている。鍋で煮出してもラヴロにはままごとで使うミニチュアのようだった。


「『白き竜』は北の奥地、山間の地の裂け目で自らを氷漬けにした」


 すっと、モーネから顔色が引いた。


「討伐に出された騎士団や傭兵たちのほとんどを巻き込んで、彼らと一緒に眠ってる」

「……討伐……」


 モーネのカップを持つ指先も白く変わりかけていた。

 シェスティンはそこでひとつ息をついた。


「ワタシも参加していた」


 モーネがゆっくりとシェスティンに顔を向ける。


「彼女はわざわざ騎士団の前に姿を見せて、挑発したんだ。お陰で少し話はできたが、彼女を止められるほどのことはできなかった」


 ラヴロが喉の奥で笑う。


『竜は皆頑固だ。己が決めたことならば曲げぬ。人の言うことなど尚更聞くまい』

「では、少しでも話が出来たのは幸運だったのだな」

『それだけ切羽詰ってたのかもしれぬ。何を頼まれた』

「何も。北へ行くことを告げよと」

『お前が死なぬことは気付いたか?』

「ああ、すぐに」

『そうか。では選ばれたのだな』

「……選ばれた?」


 固い声はモーネのものだった。


「……そうなのかな。でも、竜の鱗を傷つけられる剣を持った傭兵ヤツもいて、彼を先に倒せばいいのに彼女はそうしなくて……」

『ほう。まだそんな刃物を打てる輩がいるのか。それは我でも興味惹かれるわ。使い手は? 出来るのか? そやつにメインを持っていかれたのか?』


 なんだかうきうきと食い付くラヴロに呆れた視線を向けて、シェスティンは続けた。


「強かったぞ。結構な長剣だが軽々と振っていた。ただ……ワタシを妹と重ねていたらしくて、彼女とやり合ってる時に庇われた。瀕死の重傷で、でもなんとか命は繋いでた」

『運のいい奴よ』


 シェスティンは頷く。


「もう動ける者はほとんどいなくて、でも彼を助けるなら時間もなくて……彼の剣を手に取った。ワタシが死んで終わりでも良かったんだ。竜の勝ちで討伐隊は引いて……」

『それは、あやつの思惑と違うな』


 モーネもシェスティンもラヴロを見上げた。


「解るのか?」

『子がいる母だ。何を望んだかくらいは想像できる』


 きゅっと一度唇を引き結んで、シェスティンは減っていないお茶に映る自分の瞳に視線を落とした。


「最後の一太刀だった。避けられたのかもしれないし、そうでなくても致命傷ではなかった。でも彼女は……亀裂の底に落ちていくことを選んだんだ」


 思わずモーネが立ち上がった。

 彼女とシェスティンの間にラヴロのゴツゴツとした尾がそっと横たわる。


『お前の母が望んだことだ。彼女は上手く使われただけ。それとも『白雪スネーヴィート』は人などにやられるような弱い者だったか?』


 はっと、モーネがラヴロを見上げる。


「ラヴロ、こういうのは理屈で解っても心が理解できないことがある。そして事実は覆らない」

『あやつは自分の姿をそこに留めて、娘からも他の竜からも人の視線を遠ざけようとしたのだ。己が最後の竜だと。討伐隊を全滅させるのは簡単だ。だが人は多い。必ずまたやってくる。それも強さを増して。面倒臭いことこの上ない。他の奴らまで気にするところがあやつらしく愚かで、美しいとは思うが』

「でも、人になれるなら、人になってしまえば誤魔化せるんじゃないか? 竜を見たなんて噂……そこまでしなくとも」

『なんだ、そんな噂があったのか?』

「そうだ。だから、討伐隊が組まれた」

『見られたと? あやつが?』

「そういうことになる」


 黙り込んだラヴロはちらりとモーネを見下ろした。

 モーネはふるふると小刻みに体を震わせている。


「……まあ、真実は本人しか分からないか。ともかく、こんな状態では私はモーネとはいられない。お前に任せられないか?」

『はぁ? 何を言っている。では我を人にするのか。竜の躰で人と暮らすのは無理があるだろう』

「モーネを竜に戻してもいい。二人、もっと人の来ない場所を……」

『シェス、竜の子供なら多少遺恨があったってどうってことないだろう』

「ラヴロ、違う。ワタシの呪いはそんなに精巧なものじゃない。人の形をしていれば恐らく発動するんだ。人になったら、お前にも触れられなくなる」


 ラヴロはぎょっとした。


『……ではお前が……我を人にしたがらないのは、そういうことなのか』

「そうだ。またひとりで過ごすのは辛い。ワタシの我儘だ。でも……モーネは竜にも人にも精通した者の傍の方がいいと思う。人でも竜でも、どちらにしても今までのようには会えなくなるのは一緒だ」


 笑おうと思っても、シェスティンの視線は地面から動かせなかった。


『あの猫の形をしたものが無事だったのは……』

「猫の姿だからだ。中身じゃない」


 ふと、ラヴロが辺りを窺った。


『そういえば、いないな。もう呪いは解けたのか?』


 シェスティンは首を振る。


「違うんだ。そのこともあって」

「――私なの」


 突然のモーネの声に、シェスティンもラヴロも虚をつかれた。なんとなく視線を合わせてからモーネを窺う。


「人に、見られたのは、私なの」


 その瞬間だけ洞窟の中のひやりとした空気が、三者の間で音を包み込んでしまった。


『……ああ……で、あれば納得はいくな』


 竜の深い吐息がシェスティンの髪を揺らした。


『人は時々とんでもない執着を持つからな。竜が人になれると知っている者がまだいれば、草の根分けても探し出そうという輩が出てこないとも限らない。ならば、というところか』


 ぼろぼろとモーネの頬を涙が零れ落ちていく。


「わた……私、知ってる。シェスは好んで刃物を向けない。相手が向かってきた時と……誰かを、守る時だけ……」

「もっと、上手くやれればいいんだが」


 肩を落とすシェスティンにモーネはふるふると頭を振った。炎の灯りにキラキラと涙の滴が反射する。


「言いつけを守らなかったのは私。人間だっていい人がいるって教えられて、でも見分けるのは難しいって言われてたのに、水辺で倒れていた人間を興味本位で助けて、目を腫らしていたから見えないだろうって……仲良くなれたと思って……自分の判断は間違ってないって、思って……」


 濡れた瞳で、真直ぐモーネはラヴロを見つめた。


「母さんがそうしなければならなくなったのは私のせい。わかってるの。あなたの言う通り、母は強かった。人になんか負けない。だったら、確かにシェスは選ばれたのだわ。致命傷でなく氷漬けになっているのなら、一縷の望みは残ってる。母さんは氷の使い手だったのだもの」


 避けられた尾に微笑んで、モーネはゆっくりとシェスティンに近づいた。


「シェス」


 シェスティンの身体が緊張で強張る。


「……ラヴロ、何故」


 竜は答えない。


「シェス、いつか連れて行って。その場所へ」


 迷いなくシェスティンの胸に飛び込んだモーネに、数分息を止めて異変が起こらないのを確認してから、彼女は恐る恐る腕を回してその背を撫でた。




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