4-5 ぷつりぷつり

 トーレは本当に眠るまで見張る勢いで付いて来て、傍にいられると逆に怖くて眠れないからと、シェスティンは案内された部屋の前で断りを入れる。彼も流石に分かっているようで、部屋に踏み入ろうとするようなことはなかった。


「シェス……俺がもう少ししっかりしていれば、一緒に旅が出来たか?」


 彼は別れ際、シェスティンを挟みこむように部屋の扉に額と両手を押し付けた。傍目には抱擁しているように見えたかもしれないが、ぎりぎり触れぬ距離は保たれている。


「トーレ……」

「大丈夫。触れないから。だから、少しこのままで……」

「……あなたは良くやってる。友人の距離を保ってくれてる。だから、一緒に行かない方がいい。たまに会うなら、続けられる」

「……続けられる?」

「ああ」

「続けたい……」


 囁くような声は、自らに言い聞かせているようだった。

 固く瞳を閉じたままゆっくりとトーレの身体が離される。


「今日はナイフは出さないのか?」


 開かれた瞳はシェスティンの腿にセットされているナイフに注がれた。


「信じてみた」


 にやりと笑う彼女にトーレは苦笑する。


「信頼が苦しくなる日が来るとは思わなかった」

「ナイフを突きつけられたいと?」

「その方が、気楽かもしれない。君が言うように、傍にいると時々信じられないくらい自分で自分を抑えられなくなりそうな瞬間があるから」

「傍にいると……? 何か、共通性はあるか? 隣にいる時とか、特定の会話とか」


 表情を引き締めたシェスティンに、トーレは少し首を傾げた。


「視線が、あった時、とか……」

「どうなる? どう、したくなる? どういう衝動が?」

「え? い、いや……」


 口元を片手で覆い、顔を上気させてトーレは後退さった。


「触れたくなる? 抱き締めたり? キスしたり……それ以上?」

「シェ……シェス……」


 後退した分だけシェスティンに詰められて、廊下の反対側の壁にトーレの背が音を立ててぶつかる。


「どうやって抑えてる? 教えてくれ。もしかしたらそれは、あなたの気持ちではないかもしれない」

「俺の気持ちじゃない?」

「ワタシの、呪いが加担してる、かも。それなら、気を付ければもっと被害者を減らせる」


 顔を赤らめたまま、トーレはふるりと頭を振った。


「違う。これは紛れもなくだ。違うことがあるとすれば、死んでもいいという気持ちが湧いてくる時だ。キスと引き換えに、抱締めるのと引き換えに死んだっていいじゃないか、と。その度に思い直す。死にたくない。まだ一緒にいたい、と。だから――」


 いっそう、朱の色を濃くして、トーレは床に視線を落としながら続けた。


「友人以上は望まないなんて体のいい言い訳で……会えない時も色々、想ってて……そんなの、君はもう解ってるんだろうけど、つまり、だから、俺の気持ちじゃないなんてことはない、から」

「でも、死んでもいいなんて思うのは会ってる時だけなんだろう?」


 はっとしたように数秒考え込んで、トーレは頷いた。


「確かに、普段はそんな風には思わない。むしろ逆で……でも会うたびに……」

「会う、たびに」


 ばっと彼は自分の口を塞ぐ。先程まで上気していた顔は今度は色を失くしていた。


「トーレ」

「嫌だ。大丈夫だ。抗える。俺も、気を付けるから、もう会わないなんて」

「うん。わかった。どうせしばらくは会えないんだ。その間に冷静になる期間があれば大丈夫なのかもしれない。実験みたいにあなたを使わせてもらうよ。許してくれるか?」


 シェスティンは微笑みながらトーレの瞳を覗き込んだ。

 トーレは一瞬息を呑んで、口元にあった自分の指に歯を立てる。静かに過ぎる時間にシェスティンの深く吐く息が絡み、トーレの指を伝う赤い滴に彼女の視線は移っていった。

 手をかけていたナイフからその手を外し、血の滴る彼の手の袖を引く。


「強情だな……商売道具じゃないか。まったく……」

「……実験でも、何でも。まだ、大丈夫だから」

「ちゃんと処置してくれよ?」

「シェス、理屈がわかれば上手くやれる」


 シェスティンは泣きそうな顔で笑っていた。


「本当に、どこまでお人好しなんだ。やっぱり無理だろって言えないじゃないか」

「約束してくれ。一段落ついたら、ちゃんと報告しに来ると」


 シェスティンは迷いながら、部屋のドアの前まで後ろ向きのままゆっくりと戻っていった。


「シェス」

「……わかった。約束する。店の事もあるから、それがきちんとするまでは」

「その、後は?」

「危なくなくやれるかどうかだ。ワタシはあなたの時を止めたくない」

「……そうだ、な。大丈夫。うまく、やるから。ちゃんと寝てくれよ? 見張ったりしないから」


 シェスティンは頷いて、彼の赤く濡れた指を見つめながら後ろ手にそっとドアを開けた。


 翌朝、トーレがいつもの時間に目覚めたときには、もうシェスティンは旅立った後で、滲むインクで『また』と書かれたハンカチを彼は使用人から受け取った。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 なるべく音を立てないように、そっとシェスティンは鍵を開けた。

 狭いベッドに少女たちが身を寄せ合って眠っている。微笑ましい姿を横目に彼女は朝食の支度を始めた。

 包丁の音と野菜を煮込む匂いに、人魚が先に目を覚ます。


「……シェス……?」

「おはよう。もう少し眠っていていいぞ。あなたが起きるとモーネも起きてしまう」


 もたげた頭を枕に戻して、人魚はまだ眠りの中にいるモーネに微笑みかけた。


「朝食の匂いで目覚めるのは幸せね」

「料理はできたのか?」

「簡単なものはね。あとは市場でお惣菜を買ってきたり、トーレさんに差し入れしてもらったり……」

「なら、よかった」

「お金、随分使ってしまったけど」

「構わない。どうせ沢山は持ち歩けない。モーネが残るのならまた置いていく」


 モーネの顔にかかる髪を人魚はそっと払う。


「……一緒に、行くって言ってたわ」

「……そうか。すまない。落ち着かないばかりで……」


 人魚は小さく首を振る。


「ここに来て、すごく楽しかった。でも、ヒトの中で暮らしていくのは大変だわ。何をしても誰かの手を煩わせる……彼女が笑っていられるならいいの。いつか、また会いに来て?」

「会いに来てもいいのか?」

「入り江の岩礁に遊びに来るわ。嫌なこともあったけど、街の灯りはやっぱり憧れなの」


 必ず、と約束して、シェスティンはストーブの上でパンを温めはじめた。




 結局モーネはベーコンと卵が油を弾けさせる音がし始めてから目を覚ました。

 人魚とシェスティンに見つめられながらの起床は照れくさかったのか、不機嫌そうだ。

 ベッドを椅子代わりに小さなテーブルを移動させて、わいわいと朝食を摂る。それは別れを感じさせない和やかな風景だった。

 食後に狭い流し台に並んで食器を洗いながら、モーネがぽつりと言った。


「連れて行って。シェス」

「わかった」


 モーネのきゅっと引き締まった口元に緊張が見て取れる。

 軽く家の中を整頓して残っているお金を確認すると、まだ一袋分くらいの金貨があった。給金の残りも合わせれば充分だろう。

 最低限の着替えと残っている食料の中から日持ちしそうな物を吟味して詰め込む。

 人魚はモーネの髪を編んでおさげにしてくれ、二人は思ったよりもあっさりと別れを受け入れているように見えた。


 それでも別れ際、小さな浜でぎゅっと抱き合った二人の目元には光るものが溢れる。人魚のそれが肌を離れると、見る間に結晶して淡い透き通った水色の宝石となった。彼女は慣れた手つきでそれを掌で受け止め、モーネに差し出す。


「持って行って。お守り代わり」


 それをしっかり受け取って、モーネはもう一度人魚に抱きついた。

 手を振る人魚を何度も振り返りながら、モーネは坂を上る。人が増え、建物が増え、人魚が見えなくなると彼女の視線は足元に落ちた。

 その手を取り、旅装を整える。古着屋で動きやすいものに着替え、腰に小物入れをつけるためのベルトも新調する。厚手の毛の付いたフード付きローブと小さめのリュックを装備させれば、いっぱしの旅人が出来上がった。


 人魚にもらった宝石は雑貨屋で買った金具付きの缶ケースに入れ、腰の小物入れの中にしっかりとひっかける。リュックの中には着替えと、万が一はぐれた時のために、行先の城下町の宿屋の名を記したメモで包んだ金貨を一枚入れておいた。

 乗合馬車に乗り込む頃には、もの珍しさからかモーネは少々興奮気味で、周囲の微笑ましそうな視線にシェスティンはそっと頭を下げるのだった。


 隣町まで数時間。

 無理はせずにゆっくりと進む。ひとりならまた馬に無理をさせて進んだかもしれない。モーネが一緒に行くことでトーレに言われたことも守っていけそうだった。

 この街は『人魚の街』と同じくらいの規模の港町だが、あちらほどの派手さはない。数多の荷物が行き来するので、あちこちで市が立っていた。

 宿を定め、足の向くまま市を覗く。モーネはもとより、シェスティンの目にも珍しいものが沢山売られていた。

 夕食も済ませ部屋に落ち着くと、モーネが不思議そうにベッドを指差す。


「ひとつでもいいのに」


 シェスティンはわざわざベッドの二つある部屋をとっていた。

 ゆっくりと首を振って、彼女は小さく笑う。


「前に少し話したけど、他人と触れあえないのは男に限った話じゃない。親しくなればなるほど相手に『死』が忍び寄る。モーネとはまだ一緒にいる時間も少ないし女の子だ。それほど心配はないし、状況にもよるが、一緒に寝るようなことは避けた方がいい」


 モーネは琥珀色の瞳をまるまると見開いた。


「え。じゃあ、いつも一緒にいるスヴァットは? 膝に乗ったり、肩に乗ったり……大丈夫なの?」

「人間以外の動物には呪いは届かないらしい。……でも、スヴァットは……」


 腰掛けたベッドにそっと視線を落としたシェスティンの隣に座り、モーネは決心したように真剣な顔で訊いた。


「ねぇ、シェスは……シェスは何? スヴァットのように呪いは見えないのに、どうしてそんなことになってるの?」

「モーネにも見えないんだね。ワタシは死ねないんだ。昔、とても……好きだと言ってくれた人がいたんだ。でも、ワタシは他の人と婚約していて、その人以外と結婚する気はなかった。人よりずっと長く生きる彼のことを、普通の人と同じように考えていたのが間違いだったらしい。彼はワタシが彼と生きられるように長い長い時を与えようとした。その、副産物がワタシに敵意を持つ者と好意を持つ者の死だ」

「死ねない?」

「そう。だから、竜の生き残りとも友達になれたんだ。何度殺されたことか」


 物騒なことを軽く笑って話すシェスティンをモーネは眉を顰めて見上げた。


「何故、そうまでして友達に……」

「竜は長く生きるだろう? それに、触れてもワタシの呪いの犠牲にならない。あの頃はまだ竜を探すのもそんなに大変じゃなかった。最初に交渉したのがめんどくさがりで変わり者の竜でよかったよ」

「めんどくさがりで……変わり者?」


 モーネは思い当たる節があるように、鼻の上に皺を寄せて嫌な顔をした。


「初めはそんなことは知らなかったんだ。竜が人語を解して話せるとも思ってなかった。でも、彼のもとに通ううちに死なぬ者を相手にするのは面倒臭い、と言われて。聞いたら鱗は時々生え変わったりするっていうんで、そういうのをとっておいてもらって譲ってもらう約束をしたんだ。そういう風に協力し合える地盤がもっとあればよかったのに……」


 シェスティンは口をへの字にして揺らしたつま先を眺めているモーネを柔らかい瞳で見つめた。


「……モーネは真名まなを使って人になったんだね?」


 ベッドの上で、彼女の身体が跳ねた。振り向いた琥珀色の瞳が怯えを宿している。


「誰にも知られちゃいけないとでも言われてた? 大丈夫。ワタシの心に留めておくから。でも、気を付けて。人になったのならワタシの呪いはきっと手を伸ばす。ワタシに殺意をもって触れたりしないで。ワタシは死んでもすぐ戻ってくるし、子供は手に掛けたくない。子供が死ぬところも……見たくない」

「シェスは……どこまで知っているの?」

「竜が人になる方法と、人から竜に戻ったらもう二度と人にはなれないということくらいだ。長い付き合いで、彼の知識を色々教えてもらって、終いに真名を贈られた」


 あんぐりと、モーネの口が開く。


「まさか。ひ、人、に? 真名を? 変わり者すぎない!? そ、その、竜って、まさか……」

「『孤高の竜』で、伝わるのかな。モーネのお母さんは『白き竜』じゃないか?」


 ひくっ、と半分呆れてモーネの頬が引き攣る。


「『あいつの気分ひとつで世界の半分は軽く壊せる。関わり合いになるな』そう、言われて育ったわ。その竜の名を握るのが、あなた?」

「それが真実か、彼女の私怨が含まれてるのかは分からないけれど、彼には壊し尽くすほどのやる気もないよ。そんなつまらないことに彼の心は動かない」

「……つまらないこと」


 少し放心したようにぼんやりとシェスティンを見ていたモーネは、次にはっとして胸元を握り締めた。


「シェ、シェスは母さんも知ってるの?」

「会った」

「ど、どこで! 会ったってことは、無事なのよね?!」

「モーネ。すまない。その話はラヴロに会ってからする」


 モーネは思わず詰め寄った身体を固まらせ、どうして、と呟いた。


「すまない」


 シェスティンはそれだけを言い、静かに目を閉じた。

 しばらく動かなかったモーネはやがて隣のベッドへと移動していく。シェスティンの言葉に何を想像したのか定かではないが、楽しい想像ではなかっただろう。

 背を向ける小さな膨らみを、シェスティンは黙って座ったまま見守っていた。




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