4-3 ぐらりぐらり
まんじりともせずに夜明けを待ち、辺りを把握できる明るさになるとシェスティンは速やかに森を後にした。
街道をひた走り、一番近くの町で馬を手に入れる。鞍もつけずに飛び乗ると、限界まで走らせた。途中で金に物を言わせて馬を変え、寝食を削って進む。行きに三日かかったところを一昼夜で駆け抜け、船に飛び乗ると流石に意識を失った。
短い眠りの後目覚めても、狭いベッドの上でシェスティンは動かなかった。逃げ場のない海の上で妖精達の言葉が彼女の不安をかき立てる。
――青いのと黒いのは違う。
そんなのは解っているはずのことだった。
青いのが彼だと言うのなら、黒いのは猫のことだろう。けれど、シェスティンにはスヴァットが人の姿を取り戻したとき、猫の姿もそこに残るとは思えなかった。残ったとして、すでにスヴァットではない猫と旅を続けていく気になれるのかも想像できない。
そして、青い瞳のスヴァットはしきりに首を振っていた。
来るなと。
黒い瞳のスヴァットが「おいで」と言ったのを否定するかのように。
このまま、あれを最後に彼と別れるという選択肢は彼女には無かった。スヴァットがどう思っていようと、こんな一方的に妖精に攫われるような別れ方には納得いかない。
嫌な予感がない訳ではない。
けれど、行かなければ後悔する。その思いの方が強かった。
ごそりとシェスティンは寝返りを打つ。
馬を変えつつ陸路で行けばよかっただろうか。
いや。これが一番早い。
逸る気持ちを抑えつけ、彼女は暗闇に視線を凝らした。
……そこに、黒猫の姿が見えやしないかと。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
港に降り立つと、冷やりとした空気が頬を撫でた。こちらはまだ雪に覆われていて春の気配は遠い。
『人魚の街』の入り江には島や浅瀬が複雑な地形を作っていて、大型船は入れない。隣町が主要な港町として成り立っているのはそのためだ。ここでも馬を、と考えかけてシェスティンは諸々の判断からそれを諦めた。大人しく乗合馬車で我慢する。
久しぶりのひとり旅はやけに膝の上が寒かった。
『人魚の街』に着くと、彼女は馬車が停まりきる前に飛び出し崖の家まで走りだした。ここまで来てしまえばあまり急ぐ理由もないのだが、なんだか落ち着かないのだ。狭い足場を踏み外さぬように進み、ほんの半月前に後にしたドアをノックする。
「はぁい……?!」
鈴の音のような声が応えるやいなや、シェスティンはドアを押し開けた。
驚いた二人の視線が痛いほど突き刺さる。
「……シェス? ……お帰りなさい?」
「モーネ……と、えと……た、ただいま」
そういえば人魚とは碌な自己紹介もせずに旅立ったのだ。シェスティンはそこに思い至ってバツが悪そうに頬を掻いた。
モーネは一息つくと、思い出したように口をへの字に曲げて不満を表す。
「いくら急いでたからって、その日のうちに姿をくらますってどういうこと!? 彼もどれだけ人がいいのよっ」
「――あぁ、ごめん。簡単に解けそうな呪いだったんだ。早く解いてやりたくて……それに、私が残ってあなたたちの面倒を見るよりトーレに保護された格好の方が向こうも手出ししにくいだろう? 誰か、何か言ってきたかい?」
むっとしたままモーネは首を振る。
「うん。良かった。このままここで二人でやっていけそう?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。またなんか急いでる? 私、聞きたいことが――って、黒いのは?!」
シェスティンは足元に視線を落として、ふぅ、と息を吐いた。
「ちょっと……巻き込まれて……迎えに行かないと」
「巻き込まれたって、何に?」
ずいと詰め寄るモーネに、シェスティンは思わず身を引いた。
「まぁまぁ、とりあえず座りましょ。それから順番に話をしていかないと、繋がる話も繋がらないわ」
人魚が椅子をひいてくれ、手際よくお茶の準備を始める。
モーネは仏頂面のままベッドに腰掛け、シェスティンが観念して椅子に座るのを目で追っていた。
全員にお茶が行き渡ると、自分もモーネと並んでベッドに腰掛け、まず人魚が口を開く。
「私はシェーナ。ご想像の通り人魚の生き残り。乱獲を逃れた仲間は、ずっと沖合の岩場でひっそりと暮らしてるわ。私は好奇心に負けて昔、仲間が暮らしていたという入り江の岩場にちょくちょく遊びに来ては、人の住む街を覗き見てたの」
彼女はそこでにっこりとモーネに笑いかけた。
「あの日も、海の中で日が暮れるのを待ってたわ。まだ明るかったのに顔を出したのは母を呼ぶ子供の声がしたから。初めは遠くから様子を見て、オールも上手くあやつれないで迷走するボートに驚いた。泣きながら何度も母を呼ぶ彼女の掠れた声が耳について離れなくて、彼女が泣き疲れて静かになってからそっと近づいてボートを岩場に寄せたの」
「ず、ずっと見てたの……」
モーネは顔を赤らめて視線を外す。
人魚は頷いてモーネの手に自分の手をそっと重ねた。
「身体は海に沈めたまま、船縁に掴まって話す私を不思議には思ってたと思うんだけど、モーネは何も聞かなかったわ。ただ、母が行ってしまったと。きっと戻って来ないつもりだと、そういう話をしたの」
「シェーナは友達になってくれると言ったの。知り合いもいない、どう暮らして行けばいいのかもよく分からないという私に、売ればお金になるからと宝石をくれて」
「お金があれば面倒を見てくれるだろうと思ったのよ。私も、人の世をよく解ってなかった。聞きかじった話や本で仕入れた知識では到底足りなかったのね。彼女が眠っている間に宝石と共に浜に送ったのだけど、彼女を見つけたのは人相の悪い男たちだった」
人魚は小さく溜息を吐いた。その後をモーネが引き継ぐ。
「涙の痕と船底に散らばる宝石を見て、私を人魚じゃないかと男たちはあいつに報告したわ。私は何も言わなかったけど、侍女さんたちに全身洗われて、痣の報告も受けたあいつは私を閉じ込めたの。なんとか泣かせようと怖い話を聞かされたりぶたれたりしたけど、泣いてなんかやらなかった」
「魔女に声と引き換えに足をもらって、彼女を引き取ろうと手紙をこしらえて出向いたのだけど、逆に私が人魚だとバレてしまって……」
「なんでみんなが私を泣かせたいのか、それで解ったわ。あいつは嫌な顔で笑った。あそこを出るまで泣くもんかって心に決めた。私が人魚じゃないって分かったら、彼女を助ける機会もなくなっちゃう。だから……シェスが来てくれて、助けてくれて凄く感謝してる」
「ええ。ありがとう、シェス」
一通りを聞き終えて、シェスティンは気まずそうに手の中のお茶を啜った。
「あんまり感謝されても……ワタシも『人魚の涙』が欲しかった口だからな」
「えっ」
人魚ではなく、モーネが驚きの声を上げる。
「スヴァットの呪いを解くのに必要な物のひとつだったんだよ」
「じゃ、じゃあ、あいつにねだったのって……」
「彼が用意できると思ってたからな」
モーネが複雑そうな顔をした。
「どちらにしても、彼は私に手を出しただろうし、ならば欲しいものはもらっておかないと。そのために、あなたに辛い思いをさせたかもしれないことは、謝罪する」
軽く頭を下げるシェスティンに人魚は首を振った。
「私も解放されましたし、さらに寄越せと言われた訳でもないので……そこは気にしてませんから」
「そう言ってもらえると、ありがたい」
「……ね、スヴァットの呪いって……」
モーネが言いよどむ。
「彼は色々もらうようだが、それを誰かに移したりはしない。現在何種類抱えてるのかはワタシも知らないんだ。あの猫の姿が一番厄介だとは言ってた」
「猫の姿って、猫ではないってことかしら?」
人魚が不思議そうな顔をする。
「あなたは彼が呪われているのが分からない?」
「え? そうね。賢い猫だな、とは思ったけど……」
次に向けられたシェスティンの視線を、モーネは黙って自分の膝を見つめることで気付かないふりをした。
「――スヴァットは元人間らしい。ワタシもこの間までは半信半疑だったんだが……ともかく、もう少しで解けそうな所まではきた。多分、それについてちょっと悩んでる感じだったのは気付いてて、声を取り戻してさあ帰ろう、というところで妖精にちょっかいかけられたんだ。『
妖精……と二つの呟きが重なる。それは同情の色を含んでいて、二人ともいたずら好きの妖精の実態をよく知っているようだった。
「シェスは……どうして彼の呪いを解くのを手伝ってるの? 恋人だったとか、家族だったとかとは違う感じだし……」
膝の上で両手を組んだり合わせたり落ち着かない様子でモーネは聞く。
「言ってしまえば、成り行きだな。初めに会ったときはウシガエルで、非常食にしようと思って捕まえたんだ」
肩を竦めて見せるシェスティンにモーネも人魚も驚きの視線を向けた。
「シェスは、お嬢様なんじゃないの? 身寄りが無いから仕事を探してたんじゃ……」
「身寄りが無いのは本当だけど、どちらかというと旅人とか放浪者とかそういう感じだ。ひとつ所に長くはいない。今回は『人魚の涙』のことがあったから、一芝居打ったというか……」
「じゃあ! じゃあ、あの、『竜の鱗』もあなたが!」
険を含んだモーネの瞳と声に、シェスティンは少し眉を顰めた。
「『竜の鱗』を良く知ってるな。隠し場所を見付けたのか? あれはトーレに託す予定のものだ」
「い、一緒にあったペンダントは……」
「あれは元々そこにあった。前の住人の忘れ物か何かだと……」
瞳に涙を湛えてシェスティンを睨みつけながら、モーネはそっと胸元に手を当てた。
「……った」
瞬きも堪えてモーネはシェスティンから目を離さなかった。
「母さんのだった! 少しの間だったけど、私、母さんとここに居た」
今度はシェスティンが驚く番だった。
「じゃあ、ここは元々モーネ達の家だったのか?」
モーネはそれには弱々しく首を振った。
「鍵も掛かっていなかったから、勝手に入り込んだの。でも、ここの生活に慣れる頃には母さんは出て行っちゃって……気が付いてボートで追いかけたときにはもう遅くて……」
キッと彼女はそこで顔を上げた。
「あの鱗はどうやって手に入れたの? その答え次第では、私……」
「モーネ……?」
人魚が心配そうに彼女を覗き込む。
「知り合いに分けてもらったんだよ。ちょうど、これから行くところだ」
「その、知り合いって」
絡み合った視線はしばらくの間、言葉よりも雄弁に語り合っていた。
「……もしかして、モーネは
「えっ。会う? 誰に?!」
「もちろん、鱗の持ち主にだよ」
一瞬、モーネは怯んで人魚に目をやった。人魚は話について来れずに、やや心配そうにモーネを見ている。
「心配しなくていい。ハンターとかそんなんじゃない。持ち主というのが適当じゃないなら、本体って言おうか」
「……本……体……生きてる、の?」
「ワタシの数少ない友人だ。一緒に、行くかい?」
友人、と口の中で呟いてモーネは人魚の手をぎゅっと握りしめた。
「無理にとは言わない。ここで二人で暮らしていくのも別に悪くない。この家の管理はトーレに任せてあるし、何かあったら彼を頼ればいい」
しばらく黙り込んで、モーネは迷っていた。シェスティンも人魚も黙って答えを待っている。
「――私がシェスと一緒に行ったら……」
迷って揺れるモーネの瞳に人魚は優しく微笑み返す。
「その時は私も一度みんなの所に戻るわ。彼女ならあなたを預けても大丈夫だと思うもの」
「もう少し悩んでてもいいぞ。トーレにも会っていかないとうるさいだろうし……そうだな。明日また来る」
空になったカップを置いて、シェスティンは腰を上げた。
「シェス、どこに泊まるつもり? ここはあなたの……」
「どこにでも。安宿もこの時期なら空いてるだろ」
モーネと人魚は顔を見合わせてからくすりと笑った。
「彼に会いに行くなら、安宿には泊まらせてもらえないかもね。宿は取らずに会いに行くのを勧めるわ」
「は? こんな格好ではトーレはともかく、お兄さんに見咎められる」
人魚は確信をもって首を振った。
「あのお兄さんは見て見ぬふりをするわ。実があるなら尚更」
『実』に思い当たって、シェスティンは何も言えずに軽く染まった顔を背けるのだった。
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