4-2 そろりそろり

 朝の気配にシェスティンが瞼を持ち上げると、すぐ近くで黒い瞼も持ち上がった。

 背を向けて寝ていたはずなのに、いつの間にか頭を寄せ合う恰好になっている。がっちりと絡み合ってしまった視線に気まずさを感じながら、シェスティンは黒猫の額を指で弾いてやった。

 一瞬閉じられた瞳はすぐに開かれ、探るように上目遣いになる。

 シェスティンの中では、今のでもう昨夜のことはチャラにしたつもりだった。いつまでも引き摺っていても仕方がない。


「行こうか」


 布団をばさりと剥がし、まだ冷え冷えとした朝の空気にスヴァットが体を震わせるのを、シェスティンは少し笑って見守っていた。




 馬車を乗り継ぎ『妖精の森』手前の町までさらに三日。相変わらずぼんやりする時間はあるものの、スヴァット自身の不安定さは、なりを潜めたように見えていた。

 森で一晩明かすことになるかもしれないと、彼女は出発前に寝袋をひとつ購入した。南に下るたび暖かさは増していたが、朝方の冷え込みはさすがにまだ堪える。

 乗せてもらった荷馬車が、南に向かう街道を東に折れる辺りで降ろしてもらい、獣道をさらに南へと進んで行く。目の前に現れた『妖精の森』はなんの変哲もなく、うららかな陽光を木漏れ日に、シェスティンとスヴァットを歓迎していた。


 森に踏み込む前に、シェスティンは慎重に方位を測っていた。トーレにもらった時計と影の方向でだいたいの方位が掴めるんだと、磁石はこの森では信用できないからとスヴァットに説明する。


「あまり離れるなよ? 声の聞こえる範囲なら大丈夫だと思うが。それと、妖精に出くわしたら話しを聞かずに戻ってくること。奴ら意外と強引に親切を押し付けてくるからな」


 不思議そうに小首を傾げるスヴァットに、シェスティンは小さく溜息をついて続けた。


「この森では会ったことはないが、他の場所で会ったときに結構大変だったんだ。好奇心旺盛なくせに好き嫌いは激しいし」


 まぁ、たぶん彼等も妖精の国に引き籠もってるだろうけど。


 そう言うシェスティンに頷いて、スヴァットは森に足を踏み入れた。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 少し歩くとシェスティンの言う『方向感覚が狂う』の意味がスヴァットにも理解できてきた。

 まだ森の入口で獣道に沿って歩いているのに、来たと思う方を振り返っても木々が立ち塞がっていたりする。道が少しずつカーブしていたりするのだろうが、歩く傍から意思のある木々が道を塞いでいるような錯覚に陥ってしまう。

 道を外れないようにシェスティンもスヴァットもゆっくりと進んでいたものの、道端に見掛けるのはクローバーではなくカタバミばかりで、早々に道を外れる決断をする羽目になった。


 シェスティンはそれでも慎重に、少しでも特徴のある木があるところまで道なりに進み、さらにその木に用意してきた赤い布切れを縛り付け、短剣で傷まで付ける念の入りようで目印とした。

 開けたところの方がクローバーが生えているだろうと、ぐるりと見渡して、少しでも明るい方向に行き先を定める。時計を使って方向を確認してからようやくの再出発となった。


「スヴァット、乗っててもいいぞ」


 目線の低いスヴァットでは余計に混乱すると思ってか、そう言ってくれた言葉に甘えて彼女の肩に乗る。確かに少し見える世界が違った。

 シェスティンは布切れや傷を付けながら自分が通った痕跡を残している。遅々とした歩みだったが、たぶん、正解なのだろう。

 ひとりと一匹が十メーター四方のぽっかりと開けた原っぱに出たのは、やや日も傾き始めた頃だった。




 シェスティンが火を熾し野営の準備をしている間に、スヴァットはびっしりと生えたクローバーの中から難なく四つ葉を探し当てていた。

 解呪アイテムはスヴァットが見るとほんのり光って見えるので、間違いようがない。そこかしこで光る葉の中から適当にパクリと咥えて飲み込む。喉の辺りに纏わり付いていた違和感はすぐに消えた。

 小さく小さく鳴いてみて、ちゃんと声が出るのを確かめてから、スヴァットはシェスティンを振り返った。


「にゃあーーんっ」


 思ったよりもずっと通る声が出て、自分でも驚く。シェスティンが一旦手を止め、笑いながらスヴァットに手を振った。

 ストレスがひとつ消えて、気分良く鼻歌など歌いながらクローバーの中飛び跳ねるスヴァットの目の端に、黄色い蝶が二匹ひらひらと舞うのが見えた。

 春だな。

 うずうずと追いかけたくなったところでシェスティンから声がかかる。


「浮かれてないで、そろそろ戻って来いよ!」


 後ろ髪引かれながらも、スヴァットは彼女の元へと駆け戻る。焚き火を飛び越えるとぎょっとしたようにその腕が伸びてきた。


「丸焼けになるぞ」


 なん♪と適当に相槌を打ったら苦笑が返ってきた。


「現金なものだな」


 スヴァットを膝の上に抱えると、シェスティンは厚めに切ったベーコンをあぶり始める。落ちた油がジュッと音を立て、香ばしい匂いがスヴァットの鼻をくすぐった。

 町で用意した野菜と塩豚も小さな鍋の中でとろとろに煮込まれている。木製の器に盛られたそれは軽く冷まされてからシェスティンの足元にそっと置かれた。


 久しぶりの野営はどことなく楽しく、ここしばらく堂々巡りしていたスヴァットの不安を紛らわせてくれる。

 答えの出ない問題は、解かないという選択肢も選べるのだろうか。

 『始まりの剣』は探し出してシェスティンに預けておく。そんなことも可能だろうか。

 そもそもまだ見つかってもいないものに心を裂くのが間違いだろうか。

 ざわつくのはどちらの心なのだろう。実は……実は戻りたくないのは『俺』じゃないことも、有り得る?


「スヴァット。いくら何でも冷めるぞ」


 またぼんやりと彼女を見つめていることに、彼女の声で気が付く。猫をやりすぎて自分が分からなくなってるなんて、情けない。『人魚の街』に戻ったらちゃんと考えよう。トーレに相談してみるのも悪くないかもしれない。お人好しなあいつのことだ。猫の話もきっと聞いてくれる――


 優しい味のスープでお腹を満たすと、スヴァットはシェスティンの寝袋に潜り込んで一緒に眠るのだった。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 ひらり、ひらりひらり。


 闇の中を黄色い蝶が舞っている。誘うように。密やかに。

 月はまだ昇ってこない。

 雪のない大地は星明かりだけでは照らすのに足りず、闇が全ての輪郭をおぼろにしている。


 そろり。


 闇の塊が闇の中へ進み出る。


 ひらり。そろり。


 黄色い蝶が闇を誘う。

 舞う度に光る鱗粉を振りまいて、ひらりひらりと円を目指す。


 パチリと、もうおき火に近くなった枝が最後の力を振り絞るようにはぜた。

 胸騒ぎか、単に温もりがそこに無くなって寒くなったからか、シェスティンはうっすらと目を開けた。


「……スヴァット?」


 返事がない。

 どこに、と暗闇を見渡してみる。

 何度目か、目を凝らした時に闇の奥でひらりと何かが動いた。

 咄嗟に短剣を手に取り、寝袋から抜け出す。


「スヴァット? どこだ?」


 ひとりで考えたいことでもあって、散歩に出てるだけならいい。でも、声も届かぬような所まで行くだろうか。うっかり迷ったのか?


 目印として、焚き火に新しい枝を追加して火が消えないようにしてから、シェスティンはカンテラにも火を入れ、何かが動いた方へと足を踏み出した。

 野営しているのとちょうど反対側、ぽっかりと開けた原っぱの中央付近まで進むとそれははっきりと見えた。

 はっきりと見えるということがすでにおかしいことだと気付いてはいたが、シェスティンにはもうどうしようもなかった。


 ひらりひらりと互いの周りを螺旋状に舞っては、光る鱗粉を散らしているそれは、ただの蝶ではない。

 さらに近づくと彼等は白っぽい茸をひとつずつ抱えているのが分かった。

 クスクスと小さな笑い声も聞こえる。


「やぁ、こんばんは。ワタシの友達を知らないか?」


 シェスティンはなるべく静かに彼等に声を掛けた。蝶の羽を持つ、いわゆる妖精と言われる種族に。


『友達』

『お友達』

『知ってる?』

『知らないかもしれない』

「黒い猫なんだ。青と、黒の瞳の」

『黒いの』

『黒いのはあっちに行きたがってた』

『青いのは迷ってる』

『迷ってる』


 ニタリと彼等は笑う。


『お前は、行きたくない』

『行きたくないなら、行けない』


 シェスティンは眉を顰める。


「何処に、行きたいって?」

『うふふ。まっすぐは無理』

『寄り道が楽しい』


 くるりくるりと舞いながら、妖精達は移動する。シェスティンが慎重に足を進めると、やがて妖精達は彼等が持つ白っぽい茸と同じ種類の茸に腰掛けた。

 茸は直径五十センチほどの円状に並んでいて、中央は闇が深い。

 …………いや。違う。中央に蹲る闇は、闇ではなく――


「――スヴァット!!」


 差し出す手元に妖精が纏わり付いた。


『大丈夫。もう遅い』

『彼は僕らと遊ぶ』

『青いのは寝てればいい』

『黒いのと遊ぼう』

『追いかけっこ?』

『隠れんぼ?』


 虫を追い払うようにシェスティンは彼等が纏わり付く手を強く振る。きゃらきゃらと笑う声が耳障りだ。

 もう一度伸ばした手の先で、蹲っていた黒いものが身を起こした。

 焦点の定まらぬ黒い瞳がシェスティンを捉えて、ぞくりと背中が粟立った。

 気のせいだと自分に言い聞かせて、伸ばした手でスヴァットを抱え込む。

 ……抱え込んだつもりだった。


 妖精達がスヴァットの上で螺旋のダンスを踊っている。光る鱗粉は黒猫の上に降りかかるのに、シェスティンの手は彼を掴めなかった。まるで、もうそこには何も居ませんというように――


『無理。人の子よ』

『サークルは乱れた。こことそこはすでに違う』


 手にした白い茸を見せ付けるように妖精達は入れ替わり立ち替わりシェスティンの前に躍り出る。

 ギリ、とシェスティンが奥歯を噛み締める音が響いた。


「……ワタシも混ぜろ」

『どうしよっかな』

『どうする?』

『青いのの答えは決まってる』

『黒いのは?』


 妖精達がスヴァットを振り返った。

 スヴァットは一度ゆっくりと瞬いて、笑いながら口を開いた。


『おいで、シェスティ』


 シェスティンは耳を疑った。月は出ていない。頭上を確認さえした。これも、妖精が関与してるから?


「何処に? スヴァット、何処にいる?」


 詰め寄るように身を乗り出したシェスティンの目の前に、妖精達が文字通り躍り出る。


『黒いのが呼んでる』

『黒いのは隠れんぼ』

「何処だ!」


 イライラしても状況は変わらない。それでも、シェスティンは声を荒げずにはいられなかった。


『うふふ。怒った』

『人の子、焦ってる。大丈夫なのに』

『あのねぇ』


 意味ありげに目配せし合う妖精達の間に何かが振り下ろされた。片方の妖精が避けきれずに羽を引っ掛けられて地に叩きつけられる。


『ぎゃっ』


 小さな体を前脚で押さえつけ、青い瞳がシェスティンを見上げた。


「……スヴァット?」

『あっ! 青いの!』


 スヴァットはシェスティンを見上げたまま、大きく横に首を振った。


『まずい! 予定外!』

『お前、遊びすぎ!』

『お前こそ!』


 なんとなく撤収の気配を感じて、シェスティンはもう一匹の羽を摘まんでやった。


『わ。離せ! ニンゲン』

「場所を聞いてる」


 しばらく暴れていた妖精はやがて仕方なさそうに唇を尖らせて答えた。


『黒いのは『孤高の竜』と遊びたい。人の子は一緒に遊べまい?』

『でも、おいでと言ったな』

『言ったな』


 押さえつけられている方の妖精がスヴァットを見上げる。スヴァットはもう一度シェスティンに首を振った。

 シェスティンは妖精を放してやって、触れられないスヴァットに手を伸ばす。


「あまり遠くなくて良かった。待ってろ。ラヴロのとこならある意味安全だ。『人魚の街』に一度戻って、色々片付けてから迎えに行く」


 いやいやと首を振るスヴァットの上で妖精がくるりと踊る。光る鱗粉が黒猫の上に降りかかる度に彼の目はとろりと閉じていった。


『竜と知り合いか』

「残念だったな」

『別に。楽しく遊べるならなんでもいい』

『青いのは遊びたくないから眠らせておく』

「余計なことはするな。だいたい、どっちもスヴァットだろう?」


 一瞬、妖精達がキョトンと動きを止め、次の瞬間甲高い笑い声とともにつむじ風がシェスティンを襲った。

 思わず両腕で顔をかばい目を瞑る。


『幸せな人の子』

『黒いのと青いのは違う』

『黒いのが呼んでる。青いのは呼んでない』

『それでも行くのだな?』

「最後まで付き合うと約束したんだ」


 眉を顰めながらそう言うシェスティンに妖精達の笑い声だけが響いて消えた。後に残るのは、耳の痛くなるような静寂と、黒々とした暗闇。

 もうカンテラでいくら照らしてみても『妖精の輪フェアリーサークル』の中にスヴァットの姿は見当たらなかった。




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