3-9 少女に涙はない

 少女が動きを止めた隙に、彼女を抱えている男は部屋の中へと歩みを進めた。

 後にパートとシェスティンも続く。薄いピンクの布を纏わせた天蓋の付いたベッドに少女を下ろすと、男は彼女の動向に気を付けながらドアの前まで下がり、そこに仁王立ちになった。


「パーレ。私と仲良くしたくないならそれでもいい。でも、言葉と礼儀作法は身につけていて損はないと思うんだ。私は席を外すから、彼女とやっていけそうかだけでも確認してくれないか」


 彼女の前に跪き目線を合わせて優しく語りかけるパートに、少女は冷たい視線を向けるだけだった。

 肩越しにシェスティンを振り返り、彼は肩を竦める。


「すまない。よろしく頼むよ。私達は外にいるから、貴女がもういいと思ったら声を掛けてくれ。


 訝しむうちに彼らは素早くドアを抜け、再び鍵をかけられる音がした。

 ドアを見つめながら、シェスティンは呆れる。この対応で心を開く人間がいるのなら、お目にかかりたい。

 小さく息を吐くと彼女は少女に向かい合った。


「こんにちは。初めまして。私の事はシェスと呼んで。あなたは何て呼べばいい?」


 じっと、身を固くして少女は琥珀色の瞳でシェスティンを観察している。彼らと同じか見極めようと。


「言葉は解る? 『はいヤー』と『いいえネイ』は表せるでしょう?」


 首を縦に横にゆっくりと動かしながらシェスティンは話しかけ続ける。少女は微動だにしなかった。瞳に警戒の色を灯して、ただただじっと彼女の動きを追っている。

 さて、困ったなとシェスティンはドアを一瞥した。多分、素のシェスティンの方が彼女も警戒が薄れると思うのだが、ドア越しにこちらを窺っているだろう者達のことを考えると迂闊なことはできない。


 シェスティンは部屋の中をぐるりと見渡した。装飾品の類は一切無い。女の子の部屋だというのに花瓶ひとつどころか、タペストリーや絵画、人形や縫いぐるみまでも見当たらない。あるのは小さなクローゼットと机がひとつ。そっと抽斗を開けてみる。黄ばんだ紙が数枚と細い木炭がいくつか。隣の抽斗には絵本が一冊。それだけだった。

 シェスティンは紙と木炭を手にして簡単な絵を描いた。猫のシルエット。左にスヴァット、右にカットと書き込む。


「字は読めるかしら?」


 振り向いてその絵を見せると、少女は訝しげに眉を寄せた。


「どちらが正しい?」


 にこにこと交互に文字を指差すシェスティンに、少女はそれ以上の反応を見せない。彼女は声を出して文字を読み上げた。


カット


 少女は絵ではなく、シェスティンを見ている。シェスティンはにこりと笑ってから、次の文字を読み上げた。


スヴァット

「にゃぁん」


 少女は突然聞こえた第三の声に初めて少女らしい仕種で驚いて、思わずベッドの上に両足を乗せてしまうと、床に置かれたバスケットを凝視した。


「あら。あなたを呼んだのではなくてよ。でも、正解。私はシェス。彼はスヴァット。あなたはなんと呼んでほしい?」


 ぱちぱちと琥珀色の瞳が瞬かれる。


「本当の名前じゃなくてもいいわ。私が呼べるように、考えておいて? 今日は帰るからゆっくりと。明日また来るわ。話すのが嫌なら書いておいてくれてもいいから」


 少女に近寄ると、寄った分だけベッドの奥に後退する。黒猫のシルエットが描かれた絵を彼女に差し出すと、視線は向けたものの、手を出そうとはしなかった。その視線もすぐに床のバスケットへと移される。

 シェスティンはベッドの上に絵を置くと、なるべく小さく囁いた。


「ワタシは敵じゃないよ。味方でもないけど」


 彼女の瞳がシェスティンに戻ってきた。警戒は解けてない。でも、探るような雰囲気になった。

 シェスティンはドアを指差して、にやりとしながら聞いた。


「これ好き? 私はねぇ、好きよ」


 言葉とは裏腹にしかめっ面で首を横に振る。


「あなたは?」


 少女はゆっくりとだが小さく首を振った。シェスティンは少女を見つめながらしっかりと頷いて、ドアを指差した手を唇の前まで移動させた。


「今度、教えてね。また明日」


 バスケットを持ってドアをノックする。


「今日は帰ります」


 鍵が開く音が響いて、ドアが細く開くまで、シェスティンは彼女に動かないようにと掌を向けていた。彼女がベッドの上から移動しないのを確認すると、にっこりと笑って軽く頷く。


「また、明日ね」


 シェスティンが部屋を出ると、見張りの男がざっと部屋の中を確認して素早くドアを閉じた。彼女が大人しくしていたのが意外だったのか、鍵を閉めながらシェスティンを一瞥する。


「……どうだった?」


 中の様子を伺っていただろうに、パートはそう聞いた。


「すぐには、無理かしら。でも猫の声には反応があったので、希望はあるかと」


 そっと、バスケットを抱え込むようにすると、パートもそれに目を向けた。少し目を細めて、口元が緩む。


「優秀じゃないか。契約成立だ。警備の者には伝えておくから、よろしく頼む」


 休息日以外の毎日、午後から数時間シェスティンがスヴァットを連れてメシュヴィッツ邸に通うことが確定した。




 次の日からシェスティンは画用紙サイズの黒板とチョーク、スヴァットと会話するときと同じアルファベット表などを持ち込んで彼女の元に通った。持ち込みは許されたが、部屋の中に置いて帰るのは許されなかった。毎回チェックされるのが面倒で、そのうち彼女は勉強道具を見張りの男に預けて帰るようになる。

 パートは他の仕事があるとかで滅多に顔も合わさなかったが、彼がいてもいなくても、やることも出来ることも変わらないので、シェスティンは特に気にしてもいない。今のところ全ては彼女に任されていた。


 少女はこちらの言うことは理解しているようだが、字は読み書きできなかった。反応もしなかった少女がようやくシェスティンに頷きを返してくれるようになったのは、十日ほど経った極夜の頃だった。

 クリスマスユールを前に昼でも薄暗い中、キャンドルを灯すことさえ渋られてシェスティンは溜息を吐く。


「近頃は大人しくしてくれてるじゃありませんか。クリスマスユールの雰囲気も楽しめないなんて、酷ですわ。火の取り扱いは私が責任を持ってやりますから」


 見張りの男に少し上目遣いで詰め寄ると、藁のヤギユールボックと共にひとつだけキャンドルを返してよこした。火はここで点けていけと言われて。

 葉っぱのような燭台にキャンドルを乗せ、小さな出窓に藁のヤギユールボックと並べて置く。内開きのその窓の外側には鉄の格子が嵌っていた。

 少女の元には人を傷つけられるような物は残さないことになっている。常に攻撃的だったせいと、自傷を防ぐためだった。だから、この燭台も本当ならば部屋に入れたくないのだろう。何とかひとつでももぎ取れたのは、シェスティンがいる間は少女が大人しくしているからに他ならなかった。


 意思疎通できているとは言い難い状態でも、シェスティンが来る時間は彼女も無駄に逃げ出そうとしなくなった。

 無理に脱走未遂を繰り返すより、知恵をつけて隙を窺った方がいいと彼女に伝えたことが効いているのかもしれない。

 それともうひとつ。

 彼女はずっとスヴァットの入ったバスケットを気にしていた。スヴァットには鳴き声は出してもいいが、姿は見せるなと言ってある。ご対面は名前を教えてもらってから、と約束してあった。


 なかなか教えてもらえないので、ずっとバスケットの中は退屈だろうと時々は屋敷の中に放し、情報収集を兼ねて適当に散歩させてもいた。パートの指示があったのだろう。見張りの男たちにも特に怪しまれずに動けているらしい。

 少女がすぐに折れるのではないかと思っていたシェスティンの思惑は外れたことになるが、実は彼女には名がないのではと疑い始めてもいる。急にどう呼ばれたいかなど、思いつかないのかもしれない。


「明日はお食事かデザートを少し残しておくのよ? トムテにお裾分け出来ればあなたのお願いも叶うかもしれないでしょう?」


 揺れるキャンドルをじっと見る少女に、シェスティンは笑って言った。

 トムテは子供くらいの背丈で長いあごひげがあり、赤い帽子を被った妖精だ。家の守り神的存在で、いたずら者でもある。クリスマスユールの夜、ごちそうを彼らに残しておくと、そのお礼にプレゼントをくれたり願いをかなえてくれたりするといわれていた。

 少女はきょとんと、琥珀色の瞳を見開いた。

 この国には昔からある逸話なのだが、知らないのだろうか。時代と共に確かに変遷している話ではあるのだけれど。


「知らない? えっと、他の国ではサンタクロースと呼ぶ人も居るし……」


 こちらも知らなそうな様子にシェスティンは首を傾げた。クリスマスの逸話は世界中に色々とある。何かしら知っていそうなものなのに。疑問は一旦脇に置いて、珍しく興味を示した少女の隣に腰を下ろし、シェスティンは各地で聞いたクリスマスにまつわる話を語って聞かせるのだった。


 幾つめかの話の途中、何かがカタカタと鳴った。シェスティンは目線だけで辺りを確認したが、そもそもこの部屋には物が少ない。必然的に窓辺にその視線が吸い寄せられ、燭台が細かく震えているのを認識した。

 程無くしてシェスティンにも揺れが伝わる。それほど大きい揺れではなかったが、窓枠とドアも小さく音を立てていた。

 無意識なのだろうか。少女がシェスティンにしがみつくようにして窓の方を凝視している。


「大丈夫よ。時々あるの。大地が震えるのよ。あなたも寝起きに伸びをするでしょう? 大地も黙っているとたまに動きたくなるのよ。生きているのね」


 この大陸では地震はそれ程多くはない。だから、それを知らなくても恐がっても恥ずかしい話ではなかった。シェスティンも何故地が震えるのかはラヴロに何度も聞いてようやく理解したくらいだ。

 少女はシェスティンを見上げると、その顔をまじまじと見つめ、少し瞳を潤ませながら小さく呟いた。


「…………母さんモール


 シェスティンが聞き逃すまいと少し表情を引き締めたところで、少女ははっとして慌ててシェスティンから離れ両手でその瞳を覆ってしまった。いやいやと小さく首を振っている。聞こえないくらいの音量でぶつぶつと何か呟きながら。

 シェスティンはゆっくりと耳を寄せる。


 ――……ない。……泣いて、ない。涙なんて、出ない……!


 少女をそっと抱き寄せて、シェスティンは何度も頷いた。そのままドアの外に聞こえないように囁く。


 大丈夫。あなたは泣いてない。ワタシは何も見ていない。


 ぽんぽんとその背中を軽く叩いてあやし、彼女が落ち着くと、またそっと離れた。

 涙を押し込めたのだろうか。彼女の瞳には涙の浮いた様子も見当たらず、ただ、少し恥ずかしそうに下を向いていた。

 黒板を所望する彼女にそれを手渡すと、彼女は初め丸を描き、首を傾げたかと思うと一部を指でこすって消し、三日月に書き換えた。


「……モーネ?」


 ぱっと、少女が顔を上げた。目が合うとこくりと頷かれる。


「モーネと呼べばいいの? 改めまして、よろしく、モーネ」


 出会ってから始めて彼女の口角が上がった。




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