3-8 彼女に選択肢はない

 姿をくらませていたスヴァットが、何食わぬ顔でシェスティンの元まで戻ってきたのは、主催者が締めの挨拶を始める頃だった。

 上辺だけの叱責を与えて、黒猫を抱え上げる。その様子を人垣の間から主催者の息子が見ていることにトーレも気付いていた。


「あまり、見ない方がいいわ」


 スヴァットから目を離さずに、シェスティンが囁く。と、いうことは彼女も気付いてはいるのかと、彼は彼女に視線を移した。彼女も彼を見てにっこりと微笑む。気安い間柄なのだろうと、誰もが思うに違いない華やかな微笑み。

 結局シェスティンは会場を後にするまで、パトリック・メシュヴィッツと目を合わせることもしなかった。


 会場で働く使用人にさりげなくメモを渡され、手馴れてるなと感じさせる彼のやり方は、あまり近づきたくない人間のリストに入るが、この家と関わりを継続させたいのであれば避けては通れないだろう。

 ことを急く性格ではなさそうなのが救いかもしれない。死体がひとつ増える前に離れられればいいのだが。

 今日、この場で引き止められなかったことにシェスティンは安堵していた。


「本当に、何があったんだ? あの息子が急に君に興味を持ったみたいだった」


 不安も露わに馬車に乗り込むなり男が口にする。


「仕事が欲しいと、話しただけさ。そうしたら家庭教師の口を紹介してくれると」

「家庭教師?」

「あの家に子供でもいるのかな」

「……聞いたことは無いが。一人息子だった気がする。それで、好き勝手やってると」


 シェスティンの視線に、男は慌てて付け足した。


「あ、いや、俺も人の事は言えないが」

「まぁ、好き勝手の方向は違いそうだがな。親戚の子とかかな。よく分からんが仕事内容は他言無用だというから、聞かないでいてくれ」


 心配そうな顔をする男に、シェスティンは笑った。


「あなたがワタシに触れられない理由を思い出してくれ。あの家で死人が出てから心配したって遅くない」

「ふ、触れられないと言ったって、エスコートなんかでは普通に……」

「ああ。きちんと割り切ってくれてるみたいで感謝してる。毎回気が気じゃない」

「え」

「女性を扱うのはそういうものって思ってるだろ?」

「あ、ああ……」

「そこから少しでもはみ出せば危ない」


 男の顔が少し引き攣った。


「そう。少し怖いと思ってくれてるくらいがいい」


 気持ち、淋しそうにそう言ってから、彼女は軽く頭を振ってもう一度笑った。


「『友人』でいるコツだな。忘れないでくれ」


 男は自分の頬を一度ひっぱたいて、それからはっきりと頷いた。シェスティンは視線を下ろしたままの男を柔らかい瞳で見つめる。


「もっとも、もうエスコートされる機会もないかもしれないけどな。今日はありがとう。目的は達せられそうだ」


 もう一度、男は頷いた。


 人がまばらになったツリーのある広場で馬車を止めると、降りていくシェスティンの背中に男が声を掛ける。


「飯くらい、誘っても?」

「もちろん。普通に手紙でも寄越してくれ。スヴァットもそちらに使いに出せなくなるかもしれないから」

「そう、なのか。わかった」


 シェスティンの腕の中で黒猫も声を上げる。おやすみと、ふたりは挨拶を交わしてそれぞれの家に向かった。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 さて、とシェスティンとスヴァットは空を見上げた。多少、切れ間が見える。満月を少し過ぎた月の輪郭も。

 浜辺まで降りてシェスティンはスヴァットの報告を聞いた。程無くして月は隠れてしまい、残りは家に戻り表を使った会話で補完する。

 結論的に怪しくはあるものの、人魚本人や証拠は屋敷の中で見つからなかった。渡り廊下で繋がる別棟と地下には行けなかったから、そこが怪しいんじゃないかと。スヴァットは成金男が地下に下りていくのは目撃していて、闇取引はそちらで行われていたのではないかと予想している。

 『人魚の涙』は欲しいが、闇取引を暴きたてて騒ぎを起こしたい訳でもない。そこに流れる宝石の入手経路を知りたかった。


「こちらは家庭教師をやらないかと誘われた」


 スヴァットの瞳が丸くなる。表を指されなくとも、どうしてそんなことに、と言っているのがわかった。


「職を探してると言ったら、あの家の息子を紹介されて、なんだかそういう話になった。何やら訳有りだと言ってたから、もしかしたら人魚に近付けるかもしれない」


 なー、と低音で小さく返事が聞こえた。

 俺の頑張りは? と、不服そうである。


「スヴァットにはこの先も頑張ってもらわなきゃいけないじゃないか。引き続き調べられるんだ。幸運だろ?」


 半眼のまま撫でられるに任せていたスヴァットは、ふと何かに気付くとアルファベット表に手を伸ばした。


『シェス狙い』

「わからん。すぐにどうこうはなさそうだったから、様子を見るよ。一応トーレの相手は装ってるんだが、結婚はしないと言ってるからな。金と引き換えに愛人の座はどうだ、なんて言われかねないとは思ってる」


 スヴァットはちょっと黙ってシェスティンの真面目な顔を見上げていた。


『自信家』

「……っ! 話を振ったのはそっちだろう!? ああいう輩は若い娘ってだけで手をかけたがる」

『何歳?』


 突きつけられた黒猫の手にシェスティンはそっと首を傾げた。


「20歳、だが」


 ふるふるとスヴァットは首を振る。

 シェスティンはふっと表情も口元も引き締めると、スヴァットから視線を逸らした。


「……それは年齢じゃない。死んでない期間だ」


 スヴァットはじっと待っている。逸らしたのに、青と黒の瞳がまっすぐ見つめているのが分かって、シェスティンは思わず自分の胸元をぎゅっと掴んだ。しんとした室内に、波の音が響いている。


「――――――と少し」


 ぼそりと落とされた言葉は、存外に重かった。

 からかえる雰囲気でもなくなって、そのまま黙って寝支度を始めたシェスティンをスヴァットも黙ってベッドで待つ。彼女が布団に潜り込むと、その顔に頭を擦り付けた。彼女はスヴァットをぎゅっと抱え込み、互いの体温を交換する。


 『九百と、少し』


 彼女の孤独の深さが、スヴァットにも少しだけ見えた。




 数日後、約束の日に、シェスティンはバスケットにスヴァットを入れて指定されたカフェに向かった。ひとりと一匹の関係に特に変わりはない。変わるようなものは何もなかった。

 最近出来たばかりだというその目新しい建物からは珈琲豆のローストされる香ばしい匂いが漂っており、嫌が応にも興味をそそられる。スヴァットも鼻先をバスケットから覗かせてひくひくと香りを堪能していた。


 一歩踏み入れると、店内はウォールナット材で纏められた暗めの色調の落ち着いた内装になっており、中流以上の人間を客として想定しているのが分かる。

 パトリック・メシュヴィッツは店主の「いらっしゃい」という声と同時に立ち上がった。すぐに店主に目配せすると、挨拶もそこそこにシェスティンを二階へと誘導する。誰も居ないフロアのさらに奥まった席に腰を下ろして、彼はにっこりと笑った。


「決心は変わらない? 彼と結婚した方がいいんじゃないの?」


 場所がそうさせるのか、昼のシェスティンが思いの外幼く見えているのか、パーティーの夜より随分砕けた口調だった。


「嫁ぐ気はありません。誰にも」


 その言葉と、彼を射抜くような真直ぐな視線に、男は口角を上げる。

 店主が琥珀色の液体の入ったカップを二つと焼き菓子のいくつか乗った皿をテーブルに置いて、すぐに下りて行った。

 彼は遠慮なく焼き菓子を口に運び、もったいぶるように口を開く。


「後悔する時はもう手遅れになった時だよ? 簡単に稼ぐ方法なんて、そうそうあるもんじゃないんだから」

「簡単にだなんて思ってませんわ。まずは足場を固めないといけないのは解っています」

「ふふ。意外と堅実なのかな。読み書き計算は問題ないね?」


 こくりとシェスティンが頷くと、男はずいと身を乗り出して声のトーンをひとつ落とした。


「遠縁の娘さんなんだけどね? 家族を亡くしたショックからか、口もきいてくれなくてね。暴れたりもするし、逃げ出そうとすることもしょっちゅうだ。まだ十二、三だと思うんだけど、そんなお嬢さんをひとりで放り出すわけにもいかないじゃないか。でも、だからといって監禁みたいな真似、外聞も悪い。ほとほと手を焼いているんだけど、簡単に誰かに頼むわけにもいかなくて困ってたんだ」


 男の困ってますよ、という顔にシェスティンは黙って相槌を打つ。


「そんな状態だから、手に負えないようならもちろん無理に続けてくれなくてもいい。ただし、見聞きしたことは外に漏らさない事。どう? 彼女をお嬢様レディに仕上げられるなら、普通の家庭教師では考えられないだけの給金を保障しよう」


 即答はしなかった。少し彼から視線を外して、シェスティンは眉を顰める。彼から見たら暴れ、逃げ出そうとするような野蛮な娘を躾けるなんて、とでも思っているかのように見えたかもしれない。

 シェスティンにはそこは問題ではなかった。受けようとも決めていた。この話から受ける違和感を、本人に会って確かめたいと。

 たっぷりと時間をかけてから、シェスティンはゆっくりと大きく頷いた。


「……よろしく、お願いします」


 パトリック・メシュヴィッツは満足そうな笑みを湛えて片手を差し出す。トーレに秘密を抱えることへの葛藤と捉えてくれただろうか。シェスティンもおずおずとその手を握り返す。

 この場で彼に死なれては面倒だと緊張したぎこちない握手になったが、またそれがリアルな不安感と取られたようだ。彼は笑みを深めるとすぐに手を離し、立ち上がって言った。


「とりあえず、本人に会わないことには何も始まらない。行こうか」


 彼について店を出ると、いつの間にか店の前に馬車が停まっていた。促されて乗り込む。足を組んで座る男に、シェスティンは尋ねた。


「メシュヴィッツさん、その子の、名前はなんておっしゃるのかしら」


 男は大げさに肩を竦めて見せる。


「俺はパートでいい。皆、そう呼ぶ。その子は言っただろう? 口もきいてくれないと。名も名乗らないから、便宜上『パーレ』と呼んでる。見た目はとても可愛らしい女の子だよ」

「パートさんに、パーレ……本物のご兄妹のようね」

「こちらは仲良くしたいんだけどね。早く分かってもらえるといいんだが」

「努力いたします」


 シェスティンの言葉に、彼はふふと笑って頷いた。


「ところで――そのバスケットには何が?」

「ああ。すみません。うちの猫が。ひとりで置いておくのは心配で。大人しくさせますので、同行をお許しいただければと」

「なんだ。パーティーにも連れてきてたかい? 大人しいんだな」

「ええ。イイコですの。子供は動物好きだったりしますから、コミュニケーションの一助になってくれればいいんですけど」

「なるほど。試してみる価値はあるかもな」


 本当にそう思ったらしく、男は少し目を輝かせてバスケットを見ていた。スヴァットは寝ているのか、気配が薄い。面倒臭い男と関わり合いになりたくないのかもしれない。


 メシュヴィッツ邸に着き、案内のまま彼について行くと、二階の渡り廊下手前と奥に少々ガラの悪そうな男達が立っていた。パートは軽く手を上げてずんずんと進んで行く。後を行くシェスティンに好奇の視線が飛んできていた。


「ああ、ひとつ忘れていた」


 途中で彼が振り返る。


「もし、彼女が貴女に気を許してなんでも話してくれるようになっても、全部を信じないでくれよ? 彼女はここを出てもう家族のいなくなった家に帰りたいんだ。気持ちは解るけど、その家はもう何処にもないんだから、ここに慣れてもらわなくちゃいけないからね」


 分かりましたと、シェスティンは頷いた。あなたの話も全部は信じられないな、と心の奥で思いながら。

 別棟はひっそりとしていて普段使われていないようだった。そんな人気ひとけのない建物の中で強面の男がドアの横に置かれた椅子に座っている。パートに気が付くと立ち上がり、目礼した。


「下がってて」


 パートはシェスティンにそう言うと、ドアをノックした。


「気分はどう? パーレ。今日は家庭教師の先生を連れてきたんだ。仲良くしてほしいな」


 部屋の中から反応はない。彼は数歩後退して、見張りの男に場所を譲った。男は鍵を取り出して慎重に鍵穴に差し込んでいく。鍵の開く音が辺りに響くと、男はドアノブを握ったまま素早く鍵を引き抜き、ポケットにしまいこんだ。ただドアを開けるだけなのに、妙に緊迫した間があって、それからゆっくりとドアは押し開かれた。


 ドアを塞ぐように男は仁王立ちしている。

 不意に、部屋の奥から何かが飛び出して男に体当たりを食らわせた。がっちりとした肉体はしっかりとそれを抱え込み、逃がさない。


「――っ!」


 小さな呻きによく見ると、白っぽい塊が彼の腕に歯を立てているようだった。浮いてしまっている足もばたばたと暴れている。


「パーレ」


 ぎらぎらとした燃えるような瞳がパートを上目遣いに見た。


「新しい先生に挨拶くらいしないか?」


 睨め付けるような視線がそのままシェスティンの方を向く。琥珀色の、綺麗な瞳。

 ミルク多めのミルクティー色の髪は櫛を通せばもっと綺麗だろう。ひらひらしたクリーム色のドレスは多分、彼女の趣味じゃない。『真珠パーレ』と呼ばれるのも気に食わないんじゃないだろうか。

 思わずにやりと笑ってしまって、慌てて少し下を向く。気付いたのは、多分彼女だけだろう。その眉が怪訝そうに顰められた。




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