2-13 白竜は鎮魂歌を唄う・3

 白い竜は騎士や傭兵が落ちた亀裂を背に、ギリギリまで後退した。その亀裂から時折呻き声や祈りの声が聞こえる。まだ生きてる者もいるのかと、シェスティンは頭の片隅に刻み込んだ。彼女がどうこう出来る訳ではないかもしれないが。


 こうしてみると、竜も満身創痍だった。

 右前脚からは動くたびに血が噴き出しているし、鱗の剥げた部分からも血が滲む。シェスティンのように見上げればまだ白い竜に見えるが、高い所から見下ろせばうっすらと桃色の生き物が見えるに違いなかった。

 それでも竜の動きは鈍らなかったし、多少鈍っていたとしてシェスティンが敵う相手ではない。


 竜は確かめるように翼を広げ風を起こした。辺りの雪が舞い上がり、一瞬だけ視界が遮られる。目を細めて身構えたシェスティンに竜の巨大な顎が迫っていた。後ろに飛び退きながら長剣を振り回す。

 一咬みは本気じゃない。次は爪だ。

 なんとなく、シェスティンにはパターンが見えていた。ラヴロとやり合っていたことも無駄ではないのかもしれない。ただ、解っているのと、それに対応できるのかということはまるで違う。現に何度やってもシェスティンは負けているのだから。


 それでも、いつもより重い剣に引きずられるように彼女は着地から前方へと踏み込んだ。低く屈み込んで前傾姿勢の彼女の上を、ぶんと唸りを上げながら何かが通り過ぎていく。遅れて血飛沫がシェスティンへと降り注いだ。

 怪我した方を使うとは、まだ手加減してるのだなと少しげんなりする。手加減といったって、当たれば即死なのだ。

 そのまま駆け寄って無防備な腹に長剣を振り被る。男にできた傷と同じように、左上から右下へと剣の重さに任せて斬りつけた。


 生物は往々にして腹側が柔らかく出来ているものだ。

 竜とて例外ではない……はず。

 はず、というのはシェスティンにはよく分からないからだ。彼女のふるう剣がラヴロに通ったことなどないし、防御もせずに晒される腹に突き立てた剣も、その鱗さえ傷つけることは無かった。つまり、背よりは柔らかいのかもしれない、というくらいでしかない。

 だから、その攻撃もシェスティンの単なる意趣返しでしかなかった。あわよくば、という軽い気持ちで。


 先の少し欠けたその剣は、少しの抵抗の後、すっと竜の腹に吸い込まれた気がした。

 白い腹に斜めの線が引かれていく。

 思ったよりは深くはないのだろう。一拍置いてから、じわりと血が滲んできた。

 白い竜が小さく喉を鳴らす。一歩、その脚が引かれた。

 シェスティンは次の行動に移るのも忘れて、竜を見上げた。その口からは白く冷気が漏れている。

 もう一歩、後退する。もう一歩。


 金色の瞳からは何の感情も窺えない。致命傷ではないはずなのに、竜もそれ以上の攻撃はしてこなかった。

 とうとう、その脚は空を踏む。亀裂へとゆっくり仰向けに倒れ込む竜の頭は、常にシェスティンを捉えていた。

 目線が同じ高さになった時、彼女は竜が何かを咥えてるのに気が付いた。

 はっとした時にはすでに遅く、竜はそれをシェスティンに吹き付ける。金色の瞳が弧を描いた。


 竜が吹き矢のように吹いたのは、人の腕程の太さのつらら状の氷の塊だった。

 胸よりは下、しかし体のど真ん中へと突き刺さったそれは、簡単には溶けそうに無い。喉の奥から血がせり上がってくる。

 竜が亀裂の底に落ちた地響きを感じながら、シェスティンは悪態をつけばいいのか、感謝すればいいのか、複雑な感情に晒されていた。

 即死させてくれた方が痛みや苦しみを感じる時間が少なくなる。だが、あの状況でそれを狙うのは竜には難しかったのかもしれない。

 ……単なる嫌がらせという線もないわけではないが。


 亀裂の底から冷気が噴き上がってきて、シェスティンは朦朧としながらも這いずってその底を覗き込んだ。

 桃色に染まりつつある白い竜が、そこで冷気を吐き出し続けていた。

 雪や凍り付いた水蒸気がきらきらと舞い、耳を澄ますと水蒸気が凍りつく時の微細な音が聴こえる。それだけ見れば美しい光景だった。やがて積もっていく雪と氷の粒も凍りつき、死体も、生きた人間も、竜も、分け隔てなく埋めていく。


 ああ。と、シェスティンは理解した。

 初めから、そのつもりで。何もかもを氷の中に閉じ込めて、もう簡単には掘り出せないように。けれど、きっとヒトの意識はそこに向く。いつか、手が届くのではないかと。見えるものに意識を向けさせて、竜の驚異も見せつけて、白い竜が護りたかったものは――


 そこで、ことりとシェスティンの意識は途切れた。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 うつら、うつらと、意識が浮上したり、また沈んだり。

 時々耳に入ってくる会話と、ふとした時に鼻につく消毒薬の匂いで病院にいるんだろうなぁ、というのは感じられていた。

 まあ、感じているのはそうやって意識が浮上している間だけで、沈み込んでいる時は真っ暗だったり、夢を見たり、自分が自分だという感覚もあまりない。

 今日は夢を見ているようだった。


 男はベッドの横の椅子に座っていて、彼女を見下ろしている。

 亜麻色の髪を三つ編みにして片側に流し、ブルーグレーの瞳で彼を見上げる少女。調子の良い時に起き上がって背中にクッションを当て、ヘッドボードに寄りかかっていても、彼女は彼を見上げていた。


「……それで、竜は倒せたの?」


 好奇心にきらきら輝く瞳に見つめられると、嘘でも倒したと言いそうになる。今までにせがまれて話した、猪や熊を相手に立ち回った話のように、すごいすごいと笑ってほしくなる。

 ほんの少し、答えに窮して、それが伝わったのだろう。彼女は眉尻を下げて困ったように微笑んだ。


「ダメだったのかぁ……」

「い、いや、俺はな。俺は、倒せなかったんだが……」


 あれ、と男は記憶を辿ってみる。どうしたんだったか。どうなったんだったか。


「お兄より、強い人がいたの?」


 また、期待に輝く瞳に軽く嫉妬する。


「いねぇよ。ああ、騎士にはいたかもしれんが。でも、俺よか無茶する奴はいてだな……」


 へぇ、と不思議そうに瞬いた瞳が、違う人物と重なる。薄く笑って、ひとりで駆けて行く。力も技も男に遠く及ばない、どう考えても無謀な挑戦のはずなのに、それは楽しそうにさえ見えた。


「その人が、倒したの?」

「そいつが?」


 そんな場面は見ていない。

 見たのは。最後に見たのは、何だった?


 突然、視界が反転した。


 乱れた亜麻色の三つ編みと、ブルーグレーの瞳を見上げている。なんだか難しい顔をしていて、寒いのにローブも脱いで男を押さえ付けている。

 違う。違う。見たいのは、そんな顔じゃない。笑え。

 そう言いたいのに、酷く寒くて上手く口が動かない。


 スサンナ。お前がベッドの中で俺に話をせがむのは。心配そうに覗き込む俺におどけて見せるのは……


 頭の悪ぃ兄貴ですまなかった。

 いつも、一歩遅い。

 薬の為にせっせと稼いで、いざとなったら薬自体が手に入らなくなっていた。

 ならばと貯めた金で竜も斬れるという剣を手に入れたのに、いよいよ出発という直前になって訃報を聞かされた。

 ――俺は、お前の傍に居るべきだっただろうか。手を握って笑ってやるべきだっただろうか。


 俺はお前を治してやって、もっと外に連れ出したかった。

 春の一斉に色咲き誇る草原。夏のコバルトブルーの海原。秋の実り多き山野。冬の足跡ひとつ無い雪原……

 窓から見える四角いだけの世界じゃなくて、もっとずっと広くて色鮮やかなこの、世界に。


 ぼんやりと出発式を待ってたら、なんの祭りかってなんだか場違いなことを聞く奴がいる。

 目をやって、うっかり繁々と見つめてしまい、慌てて目を逸らした。

 あの訃報はいたずらで、元気になったお前が俺をからかってるんじゃないかって、そわそわした。

 討伐に参加するなんて、どっちにしたって冗談としか思えない。俺はベッドの中で本を読んでるお前しか知らない。年甲斐もなく、騎士が姫を助けて、めでたしめでたしで終わる絵本を、いつまでも枕元の本棚に置いていたお前しか。


 数時間後に船着き場で見掛けて、腕に青い布を巻いてるのを認めた時、どうすればいいのか分からなかった。

 話してみると随分旅慣れてる。

 でも、自分を呪われてると笑って語る辺り、お前と重なった。

 不思議な感覚だった。身のこなしも話し方も性格もお前と違うのに、放っておけない。神様の慈悲であの世から戻され、ほんの短い自由を楽しんでる様にも見えたから。


 騎士団の方から監視を頼まれて、馬鹿言えって思った。確かに色々怪しいが、そんなんじゃない。はそんなところを見ていない。

 それでも俺は引き受けた。誰の邪魔もされず、彼女の傍に居ていいのだから。

 青白い肌に、お前を思い出し、布で隠された膨らみに欲情した。でも、お前はあんなキツイ一発は繰り出せないんだろうなぁ。


 違うと分かっていて、違うと認めたくなかった。

 長剣を握って斬っても払っても、心の中が晴れなかった。

 竜の尾に弾かれる彼女に身体が反応する。

 二度と、二度と、失いたくなど無かった――


 どこかで、猫の鳴く声がした。

 はっとする男の目の前に、男を見上げる少女が立っている。


「大丈夫だよ。土産話は、たくさんあった方がいいから」


 行って、と彼女は笑った。


「行くって、何処に」

「何処にでも」


 両手を広げ、その場でくるりと回る少女に、男は苦笑した。ふふ、と少女も笑う。


「行って、聞かせて。私の知らない、素敵な世界の話を」


 もう一度聞こえた猫の声に、男はそっと瞼を持ち上げた。




 黒い猫が男を見下ろしていた。青と、黒の瞳。

 目が合うと、猫はドアの方に向かってまた鳴いた。ぱたぱたと人の気配がして、やや乱暴にドアが開けられる。


「こ、の、馬鹿猫! 何度言ったら――!」


 えらい剣幕の看護師が顔を覗かせ、男と目が合うと、言葉を飲み込んだ。

 猫はひらりひらりと慣れた様子で窓から出て行き、雪の積もった塀の上で一度振り返って小さく鳴いて、向こう側へと飛び降りて行った。

 まだ頭がぼんやりする。

 そう思いながら、男は周囲がバタバタと慌ただしくなるのにただ身を任せていた。


 話せるようになった男に医者の第一声は「あの傷薬はどこで手に入れた?」だった。

 薬を飲まされたことも良かったようだが、あの傷薬が止血と消毒に随分役立っていたらしい。あとは寒さで出血が少なくなったことも幸運だったなと医者は言った。

 薬は彼女が持っていた物だし出所は分からない。男は傷跡も残っていない左手を見つめながら、「いい薬だなとは思った」と、それだけを伝えた。


 繋がれていた管がとれ、口から栄養を摂れるようになると男はみるみる回復した。現状を把握するのにリハビリと称しては誰彼となく話も聞いた。

 ここは何処か、から始まり、誰が運んでくれたのか、竜はどうなったのか、騎士団は、彼女は――

 知っている者、知らない者、噂する者、騙る者……おおよその情報をかき集め精査すれば、ぼんやりとあの後のことが見えてきた。


 攻撃を仕掛ける傭兵と騎士の後方で衛生兵が待機していた。竜の冷気をもろに受けた投擲部隊の方は全滅だったらしいが、谷の亀裂が露わになった時点で数人が報告に走っていた。もちろん、狼煙も併用して。

 竜が亀裂に落ち、己ごと全てを凍らせようと冷気を吐くのを確認して、衛生兵は救助を開始した。倒れている者はほぼ死者で、猫が鳴かねば男も見逃されるところだったらしい。猫は男の長剣も回収させ、胸当てに入れた竜の鱗を他の者が横取りしないか見張ってくれたようだ。


 取り急ぎ北の原まで運び込まれ、そこではダメだと街の病院まで移送された。傭兵ごときが金持ち御用達の病院に入れてもらえたのは、竜の鱗があったからだと、誰かが言っていた。事実、そうなのだろう。

 猫はそこにも付いて来て、医者にも牙をむいていたが、医者が鱗で入院治療費を賄ってやると約束すると、それっきりしばらく姿を消した。


 男の長剣を最後にふるっていたのは彼女のようだ。猫が長剣を回収させた時の話しか詳しく聞けなかったが、特徴からそうだろうと知れた。

 彼女は亀裂の縁で胸を氷に貫かれながら、底を覗き込むようにして事切れていたと。竜の腹に一太刀浴びせて、亀裂の底に追いやったのは彼女だという噂もあった。真相は知れない。


 団長も失い、人数を大幅に減らした討伐隊は、しばらく滞在したものの、竜が亀裂ごとすっぽりと氷で覆われてしまったのを確認すると解散となった。

 掘り出すべきだという意見もあったようだが、どちらにしても体勢を立て直さねばいけなかった。生き残った者は、騎士団の駐屯地で名前と青い布を照合できれば報酬を渡すということだった。

 現場に落ちていた竜の鱗を回収して、討伐は終わりを告げた。


 男が病院に運ばれてからひと月ほど過ぎた頃から、またあの黒猫が顔を見せるようになった。何度追い払われても、ドアをきっちり閉めていても、いつの間にか男の病室に入り込んでいたりして、看護師たちの間ではすっかり有名になっていた。

 窓の外で様子を伺うだけの時もあれば、枕元で鳴き声を上げていることもある。何処から来ているのか、何人かが後をつけてみたものの、尾行が成功した試しはなかった。


 そしてあの日。男が目を覚ました日。

 病院に運ばれてから、ふた月が過ぎようとしていた日。

 世の中はそろそろクリスマスの準備と年末の慌ただしさにあふれていて、雪に足を取られ怪我をする人や、流行はやりの風邪に体調を崩す人で病院も忙しなさを増していた。

 そんな中の自重しない猫の鳴き声だ。イライラがピークに達してもおかしくはない。

 それで、第一声があれだったのかと、男は苦笑した。


 けれど、それっきり、黒猫は二度と姿を見せなかった。

 きちんと医者に太鼓判を押されるまで、さらにひと月ほどかかって年が明けてから男は退院したのだが、彼がどれだけ街を探しても、青と黒の瞳の黒猫は見つからなかった。

 礼のひとつも言いたかったのに。


 入院費は鱗半分でいいと医者は言った。

 半分といってもきっちり割れたわけではなかったので、三分の二程の大きさの方を持っていかれたのだが。金がいるなら残りも買い取ると医者は言った。しかし、男はそれを断った。これまで無くなってしまったら、彼女が本当に幻だったんじゃないかって思えてくる。残ったのは大仰な傷跡と鱗の欠片だけ。

 彼女が亡くなってしまったのなら、あの猫と暮らすのも悪くないと思っていたのに、猫までこの手からすり抜けていくなんて。


 鱗の欠片を、久々に雲間から顔を出した太陽に翳して見る。

 少しずつ角度を変えると、白の中に虹色に輝く輪が見えた。




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