2-14 死者は月光を灌ぐ
スヴァットの声が聞こえて、シェスティンは肩の上に重みを感じる。
うっすらと目を開けると、谷の底が先程とほぼ変わらぬ状態で見えた。
「救助は」
囁くシェスティンに、スヴァットも小さな声で答える。
「ワタシはしばらくここで死んでるから、彼を見届けてくれ。鱗があれば、きっと治療が受けられる」
多少不満気に喉を鳴らしたものの、スヴァットは了承の意を示した。
少し離れたところでスヴァットが注意を引くような鳴き声を出すと、数人が駆け寄ってくる。シェスティンはじっと暗闇の中に身を置いた。息もせず、鼓動もない。吹き上がる冷気で身体も冷え切っているはずだが、この状態では彼女自身も何も感じられないのだった。
「そっちは」
「……いや、だめだな」
シェスティンを仰向けにし、数ヶ所で脈を確認すると衛生兵は痛ましそうに彼女の頬を撫でた。
急かすようなスヴァットの声に、彼らはシェスティンから離れていく。
「なんだ? 剣か? ん? 持っていけってのか?」
「注文の多い猫だな」
「アイツのじゃないか? 背中に、鞘みたいなのを背負ってた」
「ご主人思いで」
空気も雰囲気も冷たい現場にささやかな笑いが零れた。
動くものの気配が無くなってから、シェスティンは目を開けた。亀裂から吹き上がる雪がちらちらと落ちてきて、彼女の上にも積もり始めている。
シェスティンは少し覚悟を決めて鼓動を再開させた。
感覚が戻ってくる。
痛い。冷たい。寒い。
彼女は顔を顰めながら、氷の塊を支え、ゆっくりと引き抜いた。内臓の温度で表面が融け始めていたのでほぼ抵抗なく抜ける。抜いてしまえば、痛みも、穿たれた穴も、消えた。
疲れた。
息を深く吐き出す。
スヴァットが戻ってくるまでしばらくかかるだろう。シェスティンは目を閉じ、死人の振りを続けることにした。
死体に飽きる頃には辺りは真っ暗だった。急な寒さのためか野生動物の気配さえない。雲も厚いのだろう、雪景色でも見えるものはほとんどなかった。
シェスティンは暗闇の中、身を起こし動き出す。
明るいうちは誰が何をしに来るか分からない。このまま放置ということはあり得ないだろう。慎重に這って移動しながら、死体を探す。
初めに行き当たったものが比較的綺麗で、一応祈りを捧げてから彼女は洋服と装備を剥いだ。遺体と要らない物は亀裂に投げ込んでしまう。
騎士団支給の服で街に戻るわけにはいかない。気に入っていたローブもダメにしてしまった。当座の着るものは確保せねばならず、サイズが合わないことに文句など言ってられなかった。
人心地つくと少し山の方に入って、風と雪をしのぎながらスヴァットの帰りを待つ。
もう夜が明けるという頃になって戻ってきた黒猫は、動く物の無いこの一帯ですぐに見つけることが出来た。疲労困憊の彼を労って懐の内側に入れてやると、文句もそこそこに寝入ってしまう。
暖かさのお裾分けをもらいながら、シェスティンは後始末に来る騎士団と鉢合わないように、西の海へと向かって歩き出した。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
海岸沿いを南下してシェスティン達が『人魚の街』まで戻ったのは、それから五日後だった。
旅の間に道に迷ったと漁村で世話になったりしながら、なんとか辿り着いた都会はまだ騎士団がうろうろしていて落ち着かない。行動を共にしていてシェスティンの顔をよく知るような者は恐らくいないとは思うが、彼女は心許なくなったお金でとりあえず新しいフード付きのローブを手に入れた。
荷物は全て
崖の家に行ってお金を取ってくればいいのだろうが、鍵を付け替えているはずで一度不動産屋に顔を出さねばならない。あそこにはまだ布団も入れていないし、ゆっくりしたかったシェスティンは、残りのコインを数えてその日は宿を取った。
暖かい食べ物に布団。まだ明るいうちからシェスティンは泥のように眠った。
次の日は家を整える作業に追われた。
二週間近くも音沙汰がなかったシェスティンに、特に興味を示すわけでもなく、不動産屋は鍵を渡してくれた。代金は貰っているし、修繕が終わってから、と様子を見ていたように思われたのかもしれない。
「大体の修理はしたが、何かあったら出来ることはしよう」
仏頂面は機嫌や心根を表すものではないらしく、店主は親切にもそう言ってくれた。
シェスティンは礼を言い、早速ではあるが薪を融通してくれそうなところの紹介を頼む。季節柄どこも薪の調達は終わっている所が多く、店主は首を捻りながらも材木業者をひとつ紹介してくれた。
結局、ある程度家を整えその業者を訪ねると、薪はないが自分で割るなら木材はいくらでもあるぞと格安で提供してくれた。シェスティンはどうせしばらく暇だからと、そこの従業員のように日参して薪を割ることになる。交流が増えてからは、家まで割った薪を運んでくれる者もいた。
裏の薪棚と中の岩堀りの物置に薪が溜まっていき、この小屋なら問題無い量とお墨付きをもらえるようになる頃には、すぐそこに冬の足音が近付いていた。
生活が落ち着いてきた頃、スヴァットに男の怪我の様子を見に行ってもらった。天気のいい日を狙って、寝る前に温かい飲み物を持って外に出る。
スヴァットが話せると分かってから、初めての会話だった。
上弦を少し過ぎた月が綺麗に見えている。
「どうだった?」
多少戸惑いながらのシェスティンの質問に、スヴァットは呆れたように瞳を眇めた。
「人使いが荒い」
「……ん? あいつがか?」
「あんただよ」
思い当たることがないという風に、シェスティンは首を傾げる。
「あの男が死のうと、俺には関係ない。病院まで連れて行ったのも、ほぼサービスだ」
「冷たいなぁ。遊んでもらったじゃないか」
「見舞いくらい自分で行けよ」
「代わりに薪を割ってくれるか?」
スヴァットはすいと目を逸らす。
「それに、死んだ人間が会いに行っちゃまずいだろ」
妹に似ているからとあれだけ構われたのだ。うっかり顔を見せたりしたら、どこまでもついて来られそうな気がシェスティンはしていた。
「……まだ寝てた」
「……そうか」
湯気の上がるカップに口をつける。それでもまだ寒くて、シェスティンはスヴァットを抱き上げた。角度を変えて月に向かい合う。
「で? 『人魚』の噂とかどこかで聞いたか?」
シェスティンが薪割りに精を出している間、スヴァットは何処かへ出掛けていることも多かった。今は家という拠点もあるので、お互いの行動はいつも一緒という訳ではない。
「怪しい露店とか、人物とかはマークしてるが、決定的なのはないな。今度目を付けた酒場に潜みたいから連れて行ってくれよ」
「酒場か。ワタシはすぐ帰るぞ」
「なんだ。酒は強いだろう?」
「酔っ払いと関わると碌なことがなくてな」
「あぁ……まあ、いいが」
「そういえば」
シェスティンはスヴァットに頬を押し付けて、その体温を堪能しながら肝心なことを口にする。
「なんで複数の呪いがかかってるんだ? そんなに行いが悪いのか?」
「ん? これか? 何か知らんが、生まれつき呪いをもらいやすい体質なんだ」
「はぁ?」
「呪われた人や物に近付くと、その呪いをもらうんだよ。俺が何かしたわけじゃない」
一度スヴァットを体から離して繁々と眺めて見る。色違いの瞳は半眼でしっぽはゆらりとくねっていた。
「ただ、その分というか、
名を呼ばれて、シェスティンの胸がどきりと鳴った。ラヴロ以外の口から彼女の名が出るのは久しぶりだった。もう一度ぎゅっとスヴァットを抱え直す。
「ウシガエルになった時はちょっと呆然としたけど、結局シェスに会えて、竜の鱗も手に入った。だから、人魚も見つかるし『人魚の涙』もきっと手に入る」
「随分前向きだな。人間の姿を失ってどのくらいなんだ? 猫は板についてるみたいだが、やっぱり本能みたいなのに引きずられるのか?」
「ウシガエルは一年くらいやってたかな。猫は長い。そろそろ十年くらいには……」
シェスティンはスヴァットを見下ろした。幸運? 幸運って、なんだ? その調子ですべての呪いを解くまでに何年かかるんだ?
スヴァットはシェスティンの考えていることが分かったのか、ちょっと焦ったように付け足した。
「俺と一緒になってから、ここまで順調だっただろう?」
「……まぁ」
順調といえば順調だが。
「この猫が一番厄介な呪いなんだ。他のはこれが解ければ一緒に解けちまうような可愛いもんさ」
「厄介って?」
「呪いを解くには手に入れなきゃいけない物や、やらなきゃいけない事がある。この姿から人に戻るには『竜の鱗』『人魚の涙』『始まりの
はぁ、とシェスティンを見上げて猫らしからぬ溜息をついたスヴァットは、地面に降ろされ、その口に指を突っ込まれて頬ごとつままれ左右に押し広げられた。
「ひ……ひはは……ひはい。ひはいれふ……!」
「あの時、飛び降りるのが一瞬遅かったらお前、死んでたからな。もう一回、してやろうか?」
据わった目でスヴァットに顔を近づけ、薄く笑うシェスティンが怖くて、スヴァットはたしたしとシェスティンの手を叩いて降参を示す。
「あ、あれはホント、ラッキーで! 狙ったのは『
首根っこをシェスティンに掴まれて、黒猫はそのまま崖の向こうへと差し出された。黒い水に月明かりが反射して、おいでと手招きする掌に見える。
「なんだその解呪方法の無秩序さは。だいたい、ワタシは死なない訳じゃない。今はその時じゃないだけで」
「個人的な呪いももらうんだ! 『誰々への謝罪』なんていうのがリストにあったって、謝罪された当人も困惑するだろう? そういう俺がもらうことで捻じれた呪いは解き方も捻じれるし、統合される。『誰々へ』が抜けて『謝罪』のみになったりするん、だ……ぎゃあ!!」
首の皮を掴んでいたシェスティンの手が離れて、身体が落下を開始する。
涙目になったスヴァットのお尻を何かが掴んで引き寄せた。
「面白いな」
「――面白くない!!」
ころんと仰向けに、シェスティンの手の中で身体を固くしながら彼女を見上げて、スヴァットは歯を剥いた。
「そうなると、もしかしてスヴァットが呪いをもらうと解きやすくなるということか?」
「……そうだろうと高を括って解呪屋なんてのをやってたんだが、いつの間にか黒猫になってて『竜の鱗』に『人魚の涙』だ。呪い自体は世の中に少なくなってて、ましてや竜や人魚なんてお伽噺級だろ? 当時の絶望感ったらなかったな」
「後から似たような呪いをもらったりは? また同じようにして解くのか?」
「一度解いた呪いと同じ解き方の呪いはもらっても発動しない。というかその場で消滅する感じ? 男女間のいざこざの呪いとかは多かったから、結構ぼろい商売だったんだがなぁ」
「よし。金がなくなったらそれを商売にしよう」
真剣な顔で頷くシェスティンに、スヴァットは呆れた瞳を向けた。
「こっちの話ばっかだが、そっちはどうなんだ。死なない訳じゃないって」
「言葉通りだ。ワタシが死ぬまでにはまだ長い時間がある。それだけだ」
「それって、どのくらい?」
「気の遠くなるくらい。たまに、増える」
「……増える?」
静かなブルーグレーの瞳には諦念の感が見える。
「正直、増える分に関しては納得いかないんだが、どうこう出来る大元をこの手で潰したからな。自業自得なんだ」
「それが、シェスの言うところの呪いじゃない呪い、なのか」
軽い感じでシェスティンは頷いて、スヴァットを優しく撫でた。
「だから、スヴァットの呪いが解けなくても、ちゃんと最後まで付き合える」
「解けるさ。シェスに会ってからは嘘みたいに順調だ。猫の暮らしも悪くないが、希望が見えるとやはり戻りたいもんだな」
「猫も気に入ってるのか」
「そりゃあ、ちょっと愛想良くすれば食べていけるし、上手くすれば混浴も、極上の柔らかさの谷間に一晩中顔を埋めることも……」
突然シェスティンの手が離れて、スヴァットは慌てて空中でバランスを取る。
シェスティンは地面に置いていた空のカップを手にすると、さっさと家の中に入ってドアを閉めてしまった。
「……あれ? もう、終り? まだ話さねえ? 月はまだ高いよ? あれ? シェス?」
ぴったりと閉まった扉は開く気配もなく、シェスティンからの返事もなかった。
「シェース。次の月夜はいつかわからないぞー」
かりかりと扉をひっかくスヴァットが中に入れてもらえたのは、月が海に沈んで、彼が猫語に戻った真夜中になってからだった。
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※冒頭、傭兵の男が救助される前まで時間軸が少し戻ってます。念のため。
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