2-12 白竜は鎮魂歌を唄う・2

 歩兵は山を越え、出来るだけ気付かれないように竜に近づく。砲台はほぼ氷付けにされてしまったが、山の中腹からの銃撃と爆弾の投擲で竜の注意を引くとのことだった。

 鱗が剥がれた場所には通常の剣も槍も通る。見極めろ、と団長と呼ばれたオールバックの中年は檄を飛ばした。


 傭兵も騎士の面々も震える手で薬包を取り出し、一息に飲み込む。一部の者は強い酒で飲み下しているようだった。

 その震えは寒さからなのか、武者震いなのか。

 長剣を背負った男が先陣をきって歩き出す。シェスティンはそれを追い掛け、横に並んだ。


「飲んだのか?」

「あんたは?」

「必要ない」


 呆れたようにシェスティンを見下ろした男は、諦めたように黒猫に視線を移した。


「精々役に立てよ」


 スヴァットは当たり前だと言わんばかりに声高に鳴いた。

 風は昨夜からずっと北から吹いている。竜は何を思いこの地に来たのか。決して有利にはならない筈なのに。

 少し迂回するルートを足早に進みながら、シェスティンは雪のちらつき始めた空を見上げた。




 白い竜は谷の底で蹲るようにして眠っていた。元々白い躰の上にさらに雪が降り積もり、言われなければ竜だと分からずに目の前を通り過ぎてしまいそうだった。

 その姿を遠目に確認して、少しでも寒さを和らげようと、シェスティンは革の手袋を嵌める。ただ黙っているのなら、寒さも暑さも感じないでいられるのだが、動かなければいけない時はそうもいかない。この身体もやはり生きているのだなと、彼女はこういう時に実感する。


 谷の南側の山の中腹から静かに、そして確実に爆弾の雨が降り注いだ。

 不穏な気配にか、寝たふりをしていたのか、竜は片目を開けるとうるさそうに長い尾でそれらを払った。

 幾つかは命中し、幾つかはあらぬ方向で地を震わせ、火の手を上げる。続けざまに銃撃の音が響き渡った。


 先に動いたのはまた、長剣を背負った男だった。

 背からするりと剣を抜き出し、斜め下に構えながら竜へと迫る。

 後を追いながら、シェスティンは山からの第二撃をその目に映していた。


 竜は立ち上がり、少し身を震わせると攻撃の飛んでくる山側に数歩近づいた。ギザギザと鋭い歯を剥き出し、吐く息は殊更白い。最初の時と同じように幾つかを尾で払い、後は何も感じぬかのようにその身で受けた。

 銃弾は確かにそれほどのダメージを与えていないが、爆弾は確実に竜の鱗を削り取っている。


 第三撃が放たれた時、シェスティン達は竜の足下まで辿り着いていた。剣の通りそうな個所を確認して、竜を見上げる。金色の瞳が瞳だけでシェスティン達を見下ろしていた。

 感じたのは寒気だったのか、冷気だったのか。竜は飛んでくる爆弾や銃弾に向かって、何もかもを凍らせる冷たい息を吐き出した。


 弾を凍らせ、爆弾を凍らせ、その息は山の半分をも凍らせた。悲鳴も断末魔もない。ただただ静かに、何事も無かったかのように、冷たい風がやんだ後は、耳が痛くなるような静寂だけが辺りを支配していた。


「う……ら、あ!!」


 その静寂とひたひたと忍び寄る恐怖心を文字通り切り払ったのは、男の叫び声と同時に振り抜かれた長剣だった。

 竜の右腕を切り落とすまでは至らなかったものの、かなりの深手を与えたようで、真っ赤な血が吹き出している。

 シェスティンは辺りの雪を染める赤に、竜も血の色は同じなのだなと妙に冷めた頭で考えていた。

 そのまま、男の付けた傷と同じところに剣を振るう。鱗の硬い感触じゃない、肉を切る感触が伝わってきた。


 反撃を警戒して一度引く。入れ替わるように騎士や傭兵たちが次々と武器を振るった。だが、竜は唸り声一つ上げず、ぴくりとも動かずに、後から続く傭兵と騎士達を静かに見下ろしていた。

 竜の後方に回り込んだ銃撃隊からの攻撃も、後続の者達が鱗の剥がれた部分に剣や槍を突き立てても、男の長剣ほどダメージを与えるものは無いようだった。

 反撃が無いことに警戒しつつも、男は舞う。恨みでも、欲でも無くて、それが己の今やるべきことなのだと剣を振るう。


 軽やかに竜の背に登っていく男を、シェスティンは追いかけた。チリチリと嫌な予感がする。

 今のところ、竜の一番警戒すべきは男の筈だ。何故、一瞥もくれない。何故、放っておく。

 それはシェスティン自身にも言えることだった。何度でも立ち上がる者を(彼女はここで立ち上がる気は無かったが)瞳にも捉えない。何度でも殺してやると言っていたのに。


「スヴァット!」


 近くにいるであろう相棒に呼びかける。すぐに黒い塊がやってきて、竜を登るシェスティンを追い越していった。


「あいつを、足止めしてくれ!」


 振り返らずに、鳴き声だけが聞こえる。確信があったわけではなかった。ただ、何かするつもりだと、それだけは感じて。

 男に追いついたスヴァットはその背中に飛びつき、駆け上がり、頭まで辿り着くと額を蹴りつけて前に踊り出た。驚いた男は少しのけ反りながら数歩後退する。


「何を――」

「伏せろ!!」


 先程まで微動だにしなかった足元がぐにゃりと歪んだ。左肘を引かれて、男は無理矢理引き倒される。状況が掴めないまま、男は咄嗟に長剣を竜の躰に突き立てた。無理な体勢からの一撃は硬い鱗の上を滑りその刃を少し欠けさせてから、幸運にも剥がれかけた鱗の隙間に入り込んだ。

 男の視界に何かがせり上がり、その先が天を向く。竜の躰は沈み込んでいるような気がした。


「掴まれっ!」


 何に、と迷う暇もなく男の身体が跳ね上がった。左肘をシェスティンが掴んだままだったので振り落されるのはどうにか免れた。とっさに刺した剣に足を掛け、身体を捻って彼女の方にずり上がる。彼女が掴まっている竜の背びれに、助けを借りつつどうにか掴まると、男は改めて辺りを見渡した。

 広がる翼に、蠕動ぜんどうする筋肉。


「――飛んで……やがるのか? ……助かった……」


 恩人を振り返った男はその目がもう自分を見ていないことに気が付いた。いつのまにか黒猫が彼女の懐で爪を立ててしがみついている。

 シェスティンは振り返って、そこにとりついていた者たちがほぼ振り落されているのを確認してから少し身体を起こし、竜の頭を睨みつけた。

 男は背びれにしがみついたまま、その体勢でもバランスの取れるシェスティンに舌を巻いていた。


「助かったかは微妙だ。……降りる。ちゃんと掴まってろ。舌を噛むなよ?」


 なんじゃそりゃ、と口に出す前に上昇が止まり、下降に反転する。身体の中で男の胃袋が浮き上がった。

 男に言わせれば、それは下降ではなく落下だった。なんとか体勢を変えてしがみついているくらいしか出来ない。シェスティンの小さな舌打ちが男の耳を打った。

 減速は無かった。竜の降りてくる地点を円状に空けて、騎士と傭兵たちが待ち構えているそのただ中へ、前傾姿勢のまま突っ込んでいく。

 ビシリ、と嫌な音が響き渡ったのを、竜の背に押し付けられるような形で男とシェスティンは聞いた。


 先に体勢を立て直したシェスティンは、男の手を背びれから払って横腹に蹴りを入れる。前傾姿勢の竜の首を転がるように、一瞬非難がましい目でシェスティンを見て、男は落ちて行った。

 シェスティンは彼の無事を確認する事もなく男の長剣に手をかけ、ぶら下がるようにして飛び降りる。多少の抵抗と、めり、という音と共に長剣は抜けた。


「て、めっ! 殺す気か!」


 長剣を放り投げて、雪の上を転がりながら勢いを殺すシェスティンに、男は駆け寄ってきた。セリフの割には全くダメージを受けていないようだ。

 辺りにはぴしぴしと、どこから聞こえるのか、ガラスに罅の入るような音が断続して響いている。


「走れ!」


 長剣を拾い上げた男を確認してから山側を指差して、自らも駆け出しながら、シェスティンは叫んだ。ほぼ同時に竜が長い尾を容赦なく地面に叩きつける。

 地響きと同時に再びビシリと緊張した音が鳴り、竜の周りの地面が沈み込んだ。

 地上に降りてきた竜に狙いを定めて駆け寄っていた者たちが、バランスを崩して倒れ込む。シェスティンの叫びに反応できたものは少なかった。


 竜は再び翼を広げ、膝を折って深く沈み込む。力いっぱい地を蹴りつけて浮かび上がった時には、その足元は崩壊して落下しながらその円を広げていった。

 地面が地面ではなかったのだと気付く頃には、もう遅すぎた。体を反転させようと足に力を入れると、そこから崩れていく。

 傭兵も騎士も、半数以上が巻き込まれ、広がる穴に落ちて行った。


 竜は低空飛行しながら残りの者たちを襲う。ぐるりと外側から追い込むように飛び回り、ある者は引き裂かれ、ある者は咬みつかれ、ある者は翼で穴に叩き落された。

 気が付くと残るは数人。

 谷の中央は竜がすっぽり収まるくらいの幅の亀裂が走っていた。その上に氷を張り、さらに目立たないように雪を降らせていたのだ。

 シェスティンは竜の言った『時間がない』の意味をようやく理解した。


 男は呆然と突っ立ったまま、目の前の光景を凝視していた。もう、ここで引いても誰も自分たちを責めないだろう。

 シェスティンはふと、自分の手が白く丸いものを掴んでいることに気が付いた。竜から飛び降りたときに一緒に落ちてきた鱗を咄嗟に掴んでいたらしい。欲しかった訳ではない。貴重なものとはいえ、長剣は投げ出したのになぁと自分の意味不明な行動に苦笑する。

 そのまま、それを男に押し付けた。


「ほら、戦利品」

「は? 何?」


 惨憺さんたんたる有様に意識を奪われていた男は、自分の胸に押し当てられたものを思わず受け取って、目を白黒させた。

 その間にゆったりと旋回してきた竜とシェスティンの視線が重なる。こうなってもまだ……いや、こうなったからこそシェスティンを誘ってるのだと理解して、小さく笑う。

 踏み出した足は思ったより軽やかだった。


「そこにいろ」

「――――――おいっ」


 男の声とスヴァットを置き去りに、シェスティンは真直ぐ竜に駆けて行く。

 軽く振るわれた爪を剣で弾き、懐に潜り込んで翼の被膜を切り裂いた。バランスを崩した竜は足をついてよろける。その背中を振り向いて鱗の剥がれている部分に切り付けた。

 シェスティンの力では掠り傷程度だろうか。竜が喉の奥で笑っている。

 振り返る竜の死角になるように同じ速度で回り込むと、尾が鞭のように迫っていた。咄嗟に構えた剣ごと弾き飛ばされ、雪の上に転がる。

 すぐに立ち上がったものの、竜は目の前で、爪は振り被られていた。


「スサンナ!」


 シェスティンの知らぬ名だった。だから、何故その名が呼ばれたのか彼女には解らなかった。

 解ったのは横合いから飛び込んできた男が口にしたのだろうということ。

 男の剣が一瞬だけ竜の爪を押し留め、次の瞬間には押し負けた男の身体にそれが振り下ろされたということ。

 勢い余った男の身体はそのまま後ろのシェスティンを巻き込んで地面に倒れ込んだ。生暖かいものがシェスティンの手や体を濡らす。

 慌てて男の下から抜け出すと、男の周りだけ白い大地が赤く塗り替わっていった。


「――おいっ。何やってんだ! ワタシは、よかったのに……大丈夫だったのに……!」


 返事はないものの、まだ息はあるようだった。シェスティンは手袋を投げ出して小物入れから薬包を取り出し、同じく腰に下げていた小さな水筒を取り外す。男の口の中に薬を突っ込み、水を流し入れると鼻と口を無理やり塞いだ。

 男はぐっと呻いて手をばたつかせたが、シェスティンは放さなかった。男の喉が上下したのを確認してから傷口に視線を移す。右肩から左脇腹まで、浅くはない傷が血を吐き出していた。

 革の胸当てと何故かさっき渡した竜の鱗が真っ二つになっている。

 ローブを外して丸めながら傷に押し当て、シェスティンは竜を振り返った。追撃がこない。


 竜は金色の瞳を細めながら、少し離れたところで二人を見下ろしていた。

 こないならこないでいいと、シェスティンは他に出来ることがないかと考える。スヴァットも寄ってきて、男の手を舐めていた。

 ふと、思いついて傷薬を取り出す。気休めかもしれないが、と残りの全てを手に取り、傷に塗り込んだ。

 男が呻く。


「…………死ぬ……」

「生きてるじゃないか」

「こういう、時は、く……薬は、口移し、が……セオリー、だろ?」

「折角心臓が止まらなかったのに、それは自殺行為だが」

「……なん、で……」


 男の手が力無く自分の胸元をさする。


「渡したもの、どこに持ってた?」

「む、ねあて、下」


 それだ、とシェスティンは頷いた。


「即死を免れて良かったな。運のいい奴め」


 あの薬が細胞分裂も促進してくれるような怪しいものなら、あるいは。


「……薬、」

「ん?」

「俺も、ここ、に」

「飲んでなかったのか? もうひとつ、飲むか?」


 男の腰の鞄から薬包を探し出すと、シェスティンは聞いた。よく判らない物を規定量以上飲ませるのは賭けだが。わかっていて最初に飲ませたのも自分だ。

 男は弱々しく首を振る。


「必要、なんだ、ろ」

「絶対じゃない。あればいいなってくらいだ」


 シェスティンは呆れて、包みを開こうとした。

 それを、冷たい男の手が止める。


「もって、け」


 じっと見る瞳に根負けして、シェスティンは渋々とそれをしまい込んだ。

 それをきちんと見届けてから、男はそっと微笑んで目を閉じる。


「スサンナ、お前の……気持ち、少し、解った」


 シェスティンは眉を寄せる。


「……さっきも、呼んだな」

「妹。そっくり、だ。髪も……瞳も。名前、教えて……くんねぇ、から」


 深く息を吐き出して、囁くように続けた。


「……戻って、きたのかと」


 そのまま、男は沈黙した。胸は上下しているから、まだもう少しは大丈夫だろう。


「スヴァット。温めてやっててくれ」


 ジャケットも脱いで枕代わりにしてやり、襟巻のジェスチャーをすると、スヴァットは「にあ」と鳴いて首の下に潜り込んで行った。

 振り向けば、竜はまだ黙ってそこにいた。

 男の長剣を拾ってみる。長時間は無理だなと重さで判るが、時間はかけられないし、かからないだろうということは分かっていた。

 シェスティンがゆっくり歩み寄ると、竜もゆっくり後退する。


「終わらせないと、助けも来ない」


 逃げ出した奴がどのくらいいるのか。助けを呼んできてくれるだろうか。彼を抱えて戻ってくれる人数が残っているだろうか。シェスティンには彼の幸運を祈るしかない。どちらにしても、シェスティンはここで死んでおかなければ面倒なことになる。彼を連れ帰るのは彼女ではなかった。




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