2-9 黒猫は月夜を好む
探索終了の印を辺りの木々に刻み付け、シェスティン達はベースに戻る。ちなみにあのイノシシは夕食になるらしく、他に仕留められたウサギや鳥の肉と共に、騎士団の方でなんとかすると言っていた。
大きさからいって素人がどうこう出来る感じではなかったので、これ幸いと丸投げする。一食でも温かいものが食べられるのは歓迎だった。
予定より少々早く戻ることができたので、シェスティンは街の方に行ってみることにした。森の奥に入り込むにしたがって自由な時間が無くなっていくのは目に見えている。丁度いいタイミングだった。
「スヴァット、誰か付いて来てたら教えてくれ」
な! とやる気の返事が返ってくる。
戻ってきた連中は夕食まで仮眠を取るだろうと当たりを付けての行動だったが、自由時間とはいえ見張られていないとは限らない。
山猪の袋と有り金を全部持ち出して、一番近い繁華街へと向かう。観光客の振りをして人混みに紛れ、シェスティンは肩の上に避難させたスヴァットに囁いた。
「誰か、いるか?」
スヴァットは後ろを振り返り、小さくなーと鳴いた。
「騎士団の連中か?」
にゃう、と黒猫は首を横に振る。シェスティンは少し悩んで他の可能性を考える。
「傭兵の、姉さんたち?」
これにもスヴァットは首を振った。その顔が若干呆れていたので、ぴんときた。
「お人好しか。彼だけ?」
なー、と肯定して、スヴァットは目を瞑る。
「どうするかな。撒けるかな。スヴァット、先導してくれ」
いかにも、主人から飛び降りて勝手に駆けて行くペットを追いかけますよ、というように、肩から飛び降りたスヴァットにシェスティンは身を低くしてついて行く。人混みを縫い、ふいと目立たぬ路地に入って反対の通りへ抜けた。
彼女は素早くローブを脱いで腰に巻き付け、スヴァットを抱えて違う路地へ飛び込む。少し遠回りをしながら繁華街の入口の方まで戻ると、そっと様子を伺った。
一緒に人混みを眺めていたスヴァットがひと鳴きする。視線の先に目を凝らせば、きょろきょろと近くの路地を覗き込む赤茶の布を巻いた頭が見えた。小さく笑いが零れる。
「よし。行くか」
男の視界に入らないようにシェスティンが向かった先は、住居の斡旋などをしてくれる、いわゆる不動産屋だった。
この『
「安くて静かなところがいいんだがな」
「静かなとこねぇ」
鼻の上の丸眼鏡をずいとずり上げながら、店主は難しい顔をした。元々観光の街で貸せるアパートは多くないらしい。住んでいる者は決まっていて、そうそう動くこともない。観光の街だから、静かで落ち着いた、という条件はなかなか難しいものがあるようだった。
「ぼろくてもいいぞ。使われていない舟屋とか、無いか?」
うーん、と腕を組んで店主はしばし目を閉じた。
「そういえば……あそこ、どうなったかな」
期待の篭るシェスティンの瞳とは裏腹に店主には迷いが見えた。
「ちょっと、行ってみるか? 多分放置されてるから、住める状態かわからんがな」
「お願いします」
即答のシェスティンに店主は小さく溜息を吐いた。
案内されたのはその繁華街から海の方に下りたところにある小さな浜で、一応船や漁具が置いてある小屋のようなものがあったが、使われている様子はなかった。
その小屋に案内されるのかと思っていたシェスティンは、店主に「こっちだ」と促されて驚いた。
繁華街とは高低差がかなりあり、海に向かって左手は完全に崖になっていて、その崖によく見ると足場がぽつぽつと続いている。崖は一度せり出しているのでその向こうがどうなっているのか見えないのだが、足場は緩くカーブを描くその向こうに続いているようだった。
店主に続いて慎重に足を進めて、カーブの向こうが見えるようになると、崖の中腹に小さな小屋が建っていた。テラスのように突き出した岩の上にぽつりと。
鍵もかかっていないドアを開けて中に入る。狭い一部屋だが一応ストーブもあり、ベッドも据え付けられていて、誰かが住んでいたのだなということは伺えた。窓枠はひしゃげ、あちこちから隙間風が入り込み、ひゅーひゅーがたがたと何かを震わせていたが、修理すればなんとかなりそうな気がする。
「いくらだって?」
小屋の中をぐるりと見渡したシェスティンの一言に、店主はやや呆れたようだった。
「冬は厳しいかもしれねぇぞ」
「やるだけやってみて、ダメならまた考えるさ」
店主は鱗一枚より少ない金額を提示して、ドアの鍵を付け替え、屋根と壁の補修をしてくれることを約束してくれた。
即金で払ってしまい、また店主を驚かせたシェスティンは、もう少し確認したいからと店主を先に帰してしまった。ベッドの下には木箱。簡易のシンクに引いているのは崖から滲みだす水だろうか。
一番気になっていた崖側の小さなドアを開けると、手で掘ったような岩肌剥き出しの物置だった。幅は人ひとり分ほど、奥行きは二メートルくらいだろうか。上部は棚になるように左右に三十センチくらいずつ堀り拡げられていた。
今は何も入っていないその奥まで入り込んでみる。一番奥の床に何やら違和感があったので、薄暗いそこにしゃがみこんで手探りで調べると、箱のような物が手に触れた。慎重に蓋を開けば、中には水晶の欠片を皮ひもで括ったようなペンダントがひとつ。誰かの忘れ物だろうか。ベタな感じではあるが、とりあえず、とそこに鱗と金貨の入った袋、元々入っていたペンダントを戻し入れ、蓋を閉じた。足でその辺りを少しならして一息つき、小屋を後にする。
一通り見て回っていたスヴァットは、崖っぷちの足場が苦手なようで、自ら空いた袋の中に入り込んで運べと鳴いていた。
繁華街まで戻ったシェスティンは、ジョッキ片手に酒場の前で壁に寄りかかってる男を見つけて、何気なさを装って話しかけた。
「やあ、あなたも来てたのか。酒を飲みに来たのかい?」
「そ、そうだ。森に入るとなかなか飲めねぇからな」
男はシェスティンを見ると一瞬ぎょっとして、すぐに視線を逸らしてしまう。
「あんたこそ、大立ち回りの後だってぇのに、休まなくていいのかよ」
「立ち回ってはいないだろ? 待ち構えていただけだ。まぁ、一通り見たからもう帰るけどな。今日の飯は楽しみだなぁ」
袋の中でうぞうぞと抗議を始めたスヴァットを出してやりながら、シェスティンはその場を通り過ぎた。
少しして男が追ってくる。
「何か買ったのか?」
「何も? あぁ、水を少しくらいかな。スヴァットの分もいるからな」
「スヴァ……猫か」
足元で男を見上げながら、なぁん、と鳴くスヴァットを男は憮然としながら見下ろした。
「こう見えて役に立つんだ。ご褒美もあげないとな」
「そ、そうなのか」
なんとなく、情けない声を出してそのまま男は黙り込んだ。
ベースキャンプが近付くとスヴァットは駆け出し、数メートル先でシェスティンを促す。彼にはもう食べ物の匂いがしているのかもしれない。
仕方ないなと、シェスティンも足を速める。男は変わらぬ歩みでその背中をじっと見つめていた。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
久々に温かく柔らかい肉を食べられて上機嫌で食器の片付けを終え、テントの中で寝床を整えてしまってから、シェスティンはスヴァットの姿が見えないことに気が付いた。
スヴァットだってたまにひとりになりたいかもしれないし、子供じゃないんだから(たぶん)戻ってくるだろう、とは思ったものの、シェスティンの傍に居ることで嫌がらせの対象にされていないとも言い切れない。一抹の不安を覚えて女傭兵たちに聞いてみたが、夕食の後は見ていないようだった。
すでに辺りは暗くなっていて、雲が多いこの空では月明かりも期待できない。適当に探しても、闇に溶けてしまう黒いスヴァットを見つけられる気がしなかった。
それでも荷物から小さなカンテラを取り出して、シェスティンは辺りを見回ることにする。女傭兵たちにはスヴァットが戻ってきたらもう外に出さないように伝えておいた。
念の為、篝火が焚かれている本部テント前の衛兵にも聞いてみたが、知らないと首を振られるだけだった。
「……何処行ったんだ」
スヴァットは夜目が効く筈だから、呼べば向こうから出て来てくれるかもしれない。それを期待して、彼女は並んだテントから少し離れた地点で名を呼んでみる。耳を澄ませても返事はない。
雲の切れ間からほんの少しの間覗く月明かりに目を凝らすと、ざざ、と何かが草を揺らした。
「スヴァット?」
何かは海側へと移動していく。確か、高くはないものの、こちらも崖になっていたはずだ。シェスティンは慎重に気配を追いかけた。腿くらいの高さの枯れた草を掻き分け進んで行くと、黒い海が見えた。波の音が急にはっきりしたような気がする。
また、月が顔を出し、黒い海に白い道をぼんやりと浮かび上がらせた。首を巡らせる。
「スヴァット」
「ここだ」
男の声にシェスティンは息を呑む。誰か、一緒にいるんだろうか。それにしては、姿が見えない。
カンテラを掲げ、声のした方に目を凝らせば、月明かりを背にスヴァットがしゃんと背筋を伸ばして座っていた。青と黒のオッドアイ。間違いない。
「よかった。何処に行ったのかと。誰か……一緒か?」
辺りを見回しても、人の気配は無かった。
「誰も。ようやくのチャンスだ。気付いてもらえてよかった」
見渡せる範囲には誰も居なかった。そして、今スヴァットの方から声がする。
シェスティンは視線をスヴァットに戻して、しげしげと彼を見つめた。スヴァットは軽く首を傾げる。
「あれ。サプライズ失敗?」
確かに黒猫の口元が動いて、そこから男性の声がしてる。シェスティンは思わずカンテラを投げ出すと両手でその頬をつまみ、ぐにぐにと引っぱり回した。
「――しゃべ……スヴァット、おま……喋れるのか!?」
「った、いたっ、ちょ……ん、なご、みゃ……にゃん!」
ぶるぶると、シェスティンの手を抜け出す頃には猫語に戻り、月も翳ってその姿がよく見えなくなる。
「なんで、今まで? スヴァット! お前はいったい……」
にゃーん、と鋭く鳴いて、スヴァットは空を見上げた。ゆっくり流れる雲に月明かりが透けて見える。ほんの、切れ間。もう一度だけ姿を見せた月に向かって、スヴァットは言った。
「月明かりに照らされてる間だけ、話せる。満月になれば――」
そこで、月は隠れてしまった。もう切れ間は見えない。肩越しに振り返るスヴァットに、少し冷静になってシェスティンは確認する。
「月明かりに照らされてる間は、人語を話せるんだな?」
スヴァットは頷く。
「わかった。覚えておく。……だが……」
ひょいと、彼を抱き上げてシェスティンは呆れた声を出した。
「冬に向かうこれからは天気のいい日は少ない。極夜はあるが、月が一晩中出ている訳でもない。つまり――」
にゃー、とスヴァットも情けない声を上げる。
「あまり役に立たんということだな」
ぺしっとシェスティンの顔を両の肉球で挟んで、若干の抵抗を示したスヴァットは、シェスティンに抱かれながらがっくりと肩を落としたのだった。
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