2-5 薬師は鱗を求む・3

 男はいつの間にか眠ってしまったらしい。部屋の静けさに、少女と猫も眠っているのかと衝立から覗き込んで、すでにどちらの姿もないことに一気に目が覚めた。

 荷物の中から時計を探し出し時間を確認する。乗合馬車の時間には早いが、交渉次第で走ってくれる馬車はあるかもしれない。寝癖を手早く撫でつけ、鱗を包んだ布を引っ掴んで、男は部屋を飛び出した。




 停車場には、まだ早いというのにすでに数台の馬車がいて、何人かの御者が客の呼び込みをしていた。客の方もぽつぽつと集まってきており、西側の街との往来が活発なのがわかる。


「これなら、一台くらい走ってくれるかもな」


 シェスティンが足元の黒猫に声を掛けると、なぁん、と肯定の返事が返ってきた。

 スヴァットは夜が明けてからシェスティンの膝の上で目を覚まし、自分が何故そこで寝ているのか解らないという顔で彼女を見上げてから、もの凄くバツの悪そうな表情になった。

 特に怒られたりしたわけではないのだが、自分の仕事を全うできなかったことを反省しているのか、今日はシェスティンの肩に乗ることもなく、ちゃんと自力で歩いている。


 シェスティンがとある御者と交渉中も、馬車の周囲や車体の底を自主的に見回って、危険がないか確認に余念がない。しばらくうろうろとしたあと、ふと知った匂いが近付いてくるのを感じてそちらに顔を向け、ぴんと髭と背筋を緊張させた。


「スヴァット? 行ってくれるって。……どうした?」


 シェスティンが顔を上げてスヴァットの視線の先を見やれば、何かを抱えた男が駆けて来るのが見えた。


「……ちょぉ、まっ……! 待った! 待って!」


 声を上げた男は、行き交う馬車に気を付けながらシェスティンの傍まで駆け寄り、ぜいぜいと肩で息をする。

 スヴァットはシェスティンと男の間に進み出て彼を見上げると、なー、と不満気に鳴いた。その声に男は猫を見下ろし、にやりと笑って役立たず、と呟く。喧嘩を売られて、スヴァットはやってやるとばかりに男の足に爪を立てて飛びついて、その靴に思いっきり歯を立てた。

 一通りのじゃれ合いを呆れた顔で見ていたシェスティンは、で? と男を促した。


「もう関わるなと言ったが?」


 ずいと手にした包みをシェスティンに押し付けて、男は口を開いた。


「返す。多分、俺が手にしていても上手く使えない。昨日手に入れた分で充分だ」

「使えるようになるまでとっておけばいい」

「その代わり」


 男は心持ち大きな声で、シェスティンの言葉に被せるように早口になる。


「その代わり、しばらく俺も旅に同行させてくれないか。……あ、っ」


 スヴァットが脛に齧り付いたのを、男は少しよろけながら引き剥がした。


「ことわ――」

「トーレ! トーレ・リリェフォッシュ! 何をしている?」


 不意に、通りすがりの馬車から声がかかった。その窓からしかめっ面を覗かせていたのは、髪も髭も白い、眼鏡をかけた気難しそうな老人だ。

 その人物を見て、男の顔が少し強張った。


「――知り合いか?」


 馬車はしばらく行き過ぎて、先の空いている場所に停まったかと思うと、小柄な老人が降りてきた。彼は男の手にしている包みを確認するとシェスティンに鋭い一瞥をくれ、真直ぐにこちらに足を向ける。


「……まずい」


 同じ言葉が重なった。男が不思議に思ってシェスティンに視線を移した時、馬の嘶きが響き渡った。

 ぎょっとして彼が視線を戻せば、老人の後方で引き馬が後ろ足で立ち上がっていた。次の瞬間には猛然と駆け出す。突然のことに、御者は地面に振り落とされていた。


「先生! あぶな――」


 馬の声に振り返ったその老人は避ける間もなく跳ね飛ばされ、落ちた先で同じ馬に頭を踏み抜かれた。黄色い悲鳴が上がり、鮮血が馬車道に広がっていく。

 暴走した馬はそのままシェスティン達の方へと迫ってきて、男は動かないシェスティンを引き寄せ、抱きかかえるようにして横っ跳びに転がった。馬の後ろに続く馬車の車輪が男の足を掠めていく。


 馬の足音が遠ざかると、男の心臓が激しく鳴っているのが彼自身にも聞こえてきた。耳の中に振動と共に直接響くその鼓動に重なって、微かに誰かの声が聞こえてくる。「愛してる」と。


「――離せ」


 声の主に心当たりが無くて、見回しても周囲に人影はない。皆、一旦離れたのだろう。そのことに気を取られていた男は、シェスティンをまだきつく抱締めていることに気付くのが遅れて、彼女の声に慌ててその手を離したのだった。


「……すまない。あれがあなたのスポンサーだったのだろう?」


 ざわつく周囲に少し声を落としながら、シェスティンは立ち上がる。


「君が謝る必要は……事故じゃないか」


 男に動揺はあったものの、実はそれほどショックは受けていなかった。老医師の死体をちゃんと目にしていなかったし、慕っていたとか、よくしてもらっていたという関係でもなかったのだ。

 シェスティンは哀しそうにふふ、と笑う。


「旅の同行はお断りする」

「……っ……何故?」

「あなたはこの先一緒に旅をして、ワタシに危害を加えようと、ちらとも思わないか?」


 当たり前だ、と言おうとした男の言葉を続くシェスティンの声が攫う。


「ワタシに一片の好意も持たないと言い切れるか?」


 流石に男は答えられなかった。中性的ではあるものの、彼女の造形は整っている。化粧して着飾れば恐らく見惚れる自信があった。その上、彼女を騙す形で薬を盛り、盗みをはたらこうとした男のことを咎めもせず、夢のためにと鱗を譲る……

 そんなことが続けば、誰だってある程度の好意を寄せるのではないか。同行を申し出たのだって、もう少し彼女を知りたいと思ったからではない、とは言い切れない――


「答えられない時点で、あなたの身の安全は保障できなくなる。庇ってくれてありがとう」


 地面に落ち、馬に踏まれて汚れた布包みを拾い上げ、シェスティンは再び男に差し出した。


「中身は割れているかもしれないが、価値は変わらない。慰謝料変わりだ。あなたが持って行ってくれ」

「『慰謝料』だなんて。まるで君が」

「呪いだと言っただろう? そういうことだ。もう少し言おうか。あなたを死なせたくない」


 穏やかに微笑むシェスティンを見ながら、男は震える手で包みを受け取った。

 その震えが先程の暴走馬のせいなのか、彼女の言う呪いに対する無意識の恐怖からなのかは、男には判らなかった。


「――名前を……名前くらいは、教えてくれないか」


 シェスティンは少し考える素振りをした。


「俺は……忘れてもいいが、俺の名はトーレ」

「……シェスティン。言いふらさないでくれよ? 隣国で追い回されたくないんでな」


 解ってる、と男は頷いた。


「いつか君から直接買い付けが出来るように、もう少し頑張ってみるよ。彼の葬式くらいは出てやりたいから、それが済んだら俺も西に向かうことにする。元々『人魚の街』には行くつもりだったんだ」


 握手を求めて差し出された手は、すぐに男の意思で引っ込められ、その後頭部に当てられた。

 シェスティンは笑って、城下町の雑貨屋で女主人にしてもらった幸運の祈りを男のために捧げてから、御者を急かし、まだざわめく停車場を後にした。


 馬車を見送り、残された男は独りごちる。

 その祈りは普通、旅立つ者に贈られるものなんだがな、と。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 空はどんよりと曇っていた。この季節、どうしても天気はぐずつきがちだ。

 雨にいくら濡れても病気をすることもない体はありがたかったが、気分までいつも健全というわけにはいかない。

 シェスティンは貸し切った座席の隅っこで、窓から雲を見上げながら溜息をついた。

 なぁん、と手元にスヴァットの柔らかな毛が触れたので、手探りでそれを撫でる。


「そうだな。お前が一緒だったな」


 言うものの、彼女の気分は晴れなかった。

 人との深い交流を避けてきたシェスティンには二晩を一緒に過ごして尚、生きて会話できる相手というのは貴重だった。商売人で医者を目指していた薬師という生い立ちも、彼を生き長らえさせたのだろう。医者として触れ、客として扱われるのであれば、彼の言うようにしばらく同行したって良かったのかもしれない。


 しかし、彼のスポンサーは死んでしまった。

 あの老人がシェスティンを見た瞬間、何を思ったのか大体予想がつく。そんな小娘(あるいは小僧)などどうにでも出来るだろう。その包みに入っている物を何故返すのか。お前が出来ぬのなら、ワシが――そんなところだろう。

 男がどう思っていたかは知らないが、隣国の情勢も知り得る人物だったのだから、その喪失はかなりの痛手に違いない。今は解らずとも、きっとじわじわと影響が出る。


 シェスティンに纏わりつくは殺意に殊更敏感だった。彼女に死ぬことを許さない。そういう枷。

 次に反応するのが情欲。彼女を誰にも渡さないという身勝手な想いがそうさせるに違いない。それはやがて歪み、彼女を思い、彼女に寄り添おうとする同性でさえも時に蝕む。どこからどこまでというはっきりとした線引きはシェスティンには判らなかった。長い時を生きて来ても、まだ。

 故にそれは気紛れに人を殺めているようにも見えて、一層彼女の心をささくれ立たせ、人との交流を避けさせる一因となっていた。


「彼に庇われて、冷やりとした。あんな風に庇われて、それで相手が無事だなんて、久しぶりだったんだ。少しばかり人らしい生き方を思い出しても仕方のないことだろう? 大丈夫。解ってる。今までだってそうやって甘い夢を見たことが何度かあったけど、結局ワタシはひとりに戻った。戻らざるを得なかった。誰かに関われば誰かの人生を閉じる。その人生を背負って行くのは、本当は嫌なんだけど……」


 独り言のようなシェスティンの語りに合わせて、黒猫を撫でていた彼女の手の甲に、ざらりとした何かが触れた。

 ようやく雲から目を離し、シェスティンはスヴァットを見下ろす。ぺろぺろと彼女の手を舐めていたスヴァットは目が合うと、にゃ♪ と鳴き、笑ったように見えた。


「お前も、よく覚えておくといい。ワタシと居るのは都合がいいから。死なない人間は入手困難な解呪アイテムを探すのに丁度いい。そうだろう? いつか呪いが解けて人に戻ったのなら、余計なことは考えずさっさと人の中に消えてくれよ?」


 な、と鳴いてスヴァットはシェスティンをよじ登り、その頬をぺろりと舐めた。それが肯定なのか否定なのか分からずに、彼女は苦笑する。


「お前は本当に人なのか? まぁ、猫という生き物のことも、ワタシはよく知らないのだが」


 スヴァットは聞いているのかいないのか、シェスティンの肩から肩へと渡り、膝の上に飛び降りてそこで丸くなった。


「見掛けられた竜がラヴロだったら、戻ることになるぞ。それは、許してくれるよな?」


 その問いには答えることなく、スヴァットはシェスティンに撫でられながら、膝の上でごろごろと喉を鳴らしているだけだった。

 御者には少々無理を言って、湖の西側の街まで休みなく走ってもらう手筈になっている。遅めの朝食の時間くらいには着くだろう。壁に頭を預けて、彼女は目を閉じる。

 昨日までは夢。明日からは幻。現在いまだけを、目の前のことだけをしっかりと見つめろ――口馴染んだ呪文のように淀みなく呟いてから、シェスティンは眠りに落ちた。




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