2-6 娼婦は幸運を誘う
湖の西側にあるこの街は、東側の宿場町に比べて大きく、人であふれていた。
シェスティンが大通りを歩いてみただけでも、東側の街の倍の人数とすれ違っている気がする。もちろん、ひと目で兵士や傭兵だと判るような屈強な男が多いのは、聞いていた通りなのだが。大きな川に面していて船着き場もあるからだろう、旅行客もいれば交易も盛んなのだ。
シェスティンはもう三軒宿を断られていた。まだ午前中だというのに。
どの宿もガラの悪い男性客が占めているようで、無理を言ってまでそこに泊まる気は起きなかった。
人々の足の間を蹴飛ばされそうになりながら歩いているスヴァットを抱き上げ、野宿するべきか真剣に悩み始めたシェスティンの頬に、ぽつりと冷たいものが当たる。空を見上げると、どんよりしていた雲は暗さを増していて、すぐにふたつ、みっつと雨粒が落ちてきた。
「まいったな」
ようやく雨宿りできそうな軒下に駆け込み、シェスティンは水滴を払いながら思わずぼやく。どれだけ恨めしげに空を見上げても、雨はしばらくやみそうになかった。
フードを深く被り直し、足早に街行く人々に視線を戻せば、どこか低い所から声がした。
「ねぇ、坊や。あたしを買わない?」
シェスティンが声を辿って振り返ると、数メートル離れた同じ軒下にちりちりときついパーマのかかった赤毛の女がしゃがみ込んでいた。指に煙草を挟んだまま頬杖をつき、シェスティンをにやにやと見上げている。初心な青少年をからかうつもりだったのだろうか。
「寝床があるなら買ってもいい。宿なしなんだ」
女はシェスティンの声を聞いて、ばちばちと音がしそうなほど盛られた睫毛を
「店に戻れば、一部屋くらい確保できると思うけど……坊や、じゃないのかい?」
「悪いね。ワタシじゃ買えないのかな? 相棒もいるしな」
ローブの中からスヴァットが顔を出して、なぁん、と鳴いた。
その様子に女は一瞬更に瞳を見開いたが、すぐに何か計算するような目つきになり、煙草を一度ふかす。
「そっちの客はとったことないんだけど。むさくるしい客ばかりで嫌気がさしてンだよね」
「別にワタシも行為は望んでない。食事と一晩の話し相手、というところでどうだろう」
女はにやりと笑って、もう一度シェスティンを上から下まで眺め回した。
「本気? 一晩って結構高いよ?」
「雨の中で寝るよりはマシかな。前払いなのか? 相場ってどのくらいだ?」
女が迷っているのがわかった。法外な値段をふっかけて美味しい話を逃したくない。でも相手は相場も知らないカモだ。そう目で語っている。
「……銀貨でじゅう……はち。いや、食事を奢ってくれるなら十五でいい」
探るような瞳に、シェスティンはふっと笑って腰の鞄からコインを一枚女に弾いて渡した。
「細かいのがない。それで色々込みにしてくれ」
飛んできた金色のコインに女は目を白黒させ、指に挟まれていた煙草は地に落ちてジュ、と音を立てた。一度コインに歯を立てて偽物ではないと確認すると、慌てて大事そうにそれを胸元に仕舞い込み、彼女はシェスティンに飛びついて腕を絡める。
「あたし、今夜は頑張ってあんたを昇天させてやるよ!」
「いや、だから、そういうのはいいから。とりあえず、旨い飯を食べに行こう」
任せて! と、張り切った女に引きずられるように、シェスティンは雨の中に足を踏み出した。
フィッシュフライに付け合わせの薄くスライスしたポテトを揚げたもの。それにサラダとパン、スープが付く。それが、この街の名物のようだった。特に酸味のある、タマネギやピクルスを細かく刻んで卵黄とあえたソースが、フライによく合っていて美味しかった。
お腹が満足すると、赤毛の女は早速彼女の働く店にシェスティンを案内した。シェスティンには黙っていろとジェスチャーで伝えて、さくさくと話しを進めていく。
普通、この手の店は夕方から夜にかけてが書き入れ時で、まだ陽の高いこの時間だったから良い部屋がとれたと彼女は笑った。すれ違う、眠そうな目をした彼女の同僚が、シェスティンと彼女を振り返り怪訝そうに眉を寄せている。ある者はあからさまに赤毛の女の腕を引いた。彼女はそういうアクションに、いちいち「後で」と顔を綻ばせている。
通されたのは風呂付きの、ダブルベットが置かれている部屋だった。
「どうだい? うちでもいい方の部屋さ」
シェスティンのローブを脱がせながら、女は上機嫌でそう言う。
「いいな。ゆっくり寝られそうだ。風呂もありがたい」
スヴァットはシェスティンの腕の中から飛び降りると、その風呂場の様子を確かめに向かった。
「なんだい? 猫ちゃんは風呂が気になるのかい? 普通、猫は水を嫌うのに」
「そうなのか? こいつはちょっと変わってるからな」
ガラス張りになった入り口前で、スヴァットが催促するように振り返って鳴いている。
「冷えちゃったし、皆で入ろうか」
「え? あ、いや、ワタシは後で……」
「女同士で恥ずかしがることもないじゃないか。まぁ、いいけど。じゃあ、猫ちゃん一緒に入ろう」
あ、と止める間もなく女は服を脱ぎ捨て、スヴァットを連れて浴室へと入って行ってしまった。
ぽりぽりと後頭部を掻いていたシェスティンは、どうせ猫なんだし、と見て見ぬふりをすることに決めた。
彼女たちと入れ違いで風呂に入ると、何やら楽しそうな声が部屋から漏れ聞こえてくる。シェスティンは湯に沈みながら、一番得したのはスヴァットかもしれないなと苦笑した。
少々長湯をして部屋に戻れば、女とスヴァットはベッドの上で仲良く寝息を立てていた。よく考えたら、朝早くから客引きに出るとも思えないので、もしかしたら彼女は客を送り出したところで雨に降られ、シェスティンに会ったのかもしれない。そっと足元の毛布をかけてやって、シェスティンは窓から街を見下ろしてみた。
雨脚は強くなる一方で、通りを行く人はまばらだった。それも皆、早足で通り過ぎてゆく。騎士らしき姿も、傭兵らしき姿も今はほとんど見えなかった。白壁の建物は雨にけぶり、遠くまでは見通せない。辛うじて開けていると判るのは広場だろうか。ここからは見えないが、川の方にも行って、船がどの程度出ているのかも確かめねばならないなと頭の中で予定を立てる。
陸路と水路、『人魚の街』まではどちらでも行けるが、水路の方がやや早く着けるだろう。河口の街から船を乗り換えるか、そこで陸路にするかも選べる。問題は騎士団の動きだった。
竜の目撃された北とはどこまで北なのか。『
こんな天気でなければ、広場で志願兵の振りをして情報を集めるのに。
小さく嘆息すると、シェスティンはテーブルの上の水差しからコップに水を注いだ。丸テーブルも二脚ある椅子も木製で手触りが良く、植物を模した彫刻が施されていて、背もたれも脚も端は丸く整えられていた。上客が使う部屋なのだろう。きっちり化粧台が置かれているところは、娼館らしいというのだろうか。鏡はベッドに向いていて、今はその間に座っているシェスティンの顔を映しこんでいた。
――変わらない。
当たり前のことに、シェスティンはそっと目を逸らす。
自分の顔は嫌いではないが、一番嫌な思い出を思い出すので極力見るのを避けていた。
薄暗くなり、シェスティンがランプを灯すと、赤毛の女は目覚めたようだった。
「あ、あ、ごめん。あたし、寝ちまってた?」
口元を拭い、慌てて身を起こす様にシェスティンは笑う。
「気にするな。いつもは寝てる時間も起きてたんだろう?」
「そ、そうだけどさ。そんなのはしょっちゅうで。ちょっと気が緩みすぎたかな」
そそくさと鏡の前に座り、化粧をパリッと済ませ、女は器用に髪を纏め上げてシェスティンを振り向いた。
「晩飯はうちで出させておくれよ。高級店には及ばないけどさ、結構評判はいいんだ」
その方が店の売り上げにも繋がるのだろう。シェスティンにはこだわりがなかったので、そのまま頷いた。
薄絹の、身体のラインがうっすらと見える夜着のまま、女は一旦出て行った。
スヴァットがごろごろと喉を鳴らしていたので、シェスティンはそっとその耳元に口を寄せる。
「スケベ」
とたん、飛び上がるようにして起き出したスヴァットは、きょろきょろと辺りを見渡し、シェスティンに視線を止めると何やら焦ったようになごなご主張する。
「ワタシは猫語は解らんぞ。別に、お前が誰とどうしようが勝手だが、目の前でいかがわしいことをするのだけはやめてくれよ」
「にゃーん。んなご! んなー、んなー。ぅにゃ、にゃーご」
「解らんて」
シェスティンが呆れて苦笑する。スヴァットは伝わらないことにイラついたのか、手元にあった枕に猫パンチを食らわせてから、窓までひらりと移動して空を見上げた。もちろん雨はまだ降り続いていて、スヴァットの口元のガラスが呼吸する度ほわっと白く曇る。しばらくそうやって外を見ていたスヴァットは、やがてがっくりと肩を落とした。
タイミングよく、というのか、丁度その時ノックと共に赤毛の女が戻ってきた。手には葡萄酒の瓶とグラス、オードブルの乗った皿。
「本格的な料理はまだ後に来るけど、とりあえず、飲も」
女は陽気にそう言うと手早くテーブルの上をセットして、グラスに葡萄酒を注いでいく。なし崩し的に乾杯すると、女はスヴァットを呼んだ。
スヴァットはちらちらとシェスティンを気にしながら女の膝に登り、チーズやソーセージをもらっては食べていたが、後ろめたいのだろう。彼女とは視線を合わせようとしなかった。
「あんた、もしかして酒強い?」
葡萄酒の瓶を逆さまにして、最後の一滴をシェスティンのグラスに垂らしながら、女はいかにも意外だという声を上げた。
「強くはないんだがな。酔わないだけで」
「それを強いって言うんだよ!」
「何飲んでも同じだからもったいないんだ。ワタシは後は水でいい。あなたは好きなものを飲むといいさ」
「飲めるんならもう一本だけ付き合いなよ。まったく、下手な騎士様より男前だね」
時々運ばれてくる料理を受け取って、追加のお酒を頼むと、赤毛の女は両手で頬杖をついてしげしげとシェスティンを眺めた。
「最近は騎士様だの傭兵だの屈強な男どもが客で来るけど、妙に浮かれてたり、反対にこの世の終わりみたいな顔してたり落ち着かないんだよね」
「あぁ、宿が埋まってるのはそういう輩が使ってるようだったな。何かあるのかい?」
女はそのままの姿勢で少し人を小馬鹿にしたような笑みを作った。
「竜がね、出たんだって。退治しなきゃってんで、この街に駐屯してる騎士団が沸きたったんだけど、全部が出る訳にはいかないからって傭兵も募ったんだ。なんだか強くなれる薬ってのも配られただかで……ホントかどうかはわかりゃしないけどね」
「へぇ。ホントならどこに出たんだろう? この街にやってきたわけじゃないんだろう?」
「まさか。『
「白い?」
「そう。『あんな大きな白い鳥がいるわけがない! あれは竜だ!』って、見たやつが叫んだんだってさ」
大げさに両手を広げて芝居がかった調子で女は語る。
「随分具体的なんだな」
「そいつが元々ここの騎士団にいた奴だったらしくて、王城の方まで話が飛び火してこうなってるってワケさ」
そこでノックが響き、女は立ち上がった。
酒とデザート代わりの果物の盛り合わせを持って戻ってくると、さっさと封を切ってシェスティンに差し出す。
「地元で飲まれてるアクアビットさ。イモの酒。いけ好かない奴はこれで潰してやるんだ」
「ワタシも好かないから潰されるのかい?」
女は笑う。
「あんたは酔わないんだろう? ここの味を覚えておいておくれよ。これに付き合える奴はあんまりいないんだ」
「……あなたも、いい加減強いんだな」
うふふ、と頬を上気させた女に、シェスティンはグラスを差し出して応えた。
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