2-3 薬師は鱗を求む・1
部屋では男が母親にただひとつの椅子を勧めていた。シェスティンの布団は畳んであったが、すぐに思い当たったのだろう、彼女の目が丸くなる。
いや、部屋がなくて、と聞かれもしないのに男が言い訳をしていた。
床にスヴァットのお皿を置いて壁にもたれると、シェスティンは肩を竦める。
「何事もなければ、この後ワタシは出発するつもりだったんだ。野宿よりはいいかと思って間借りしたまでさ。で、あなたが言う珍しい材料ってのは……」
男の名誉の為に少し口添えて、シェスティンは切り出す。
ここまで水を向けても、男は一瞬口籠った。
「『竜の鱗』」
だから、次の声もシェスティンのものだった。
恐らく男は実物を見たことはないんだろう。もう粉になっている『竜の鱗』という名のものしか知らないに違いない。
そしてそれはまさにその通りだった。男は『竜の鱗』の現物など見たことがなかったし、どうやって手に入れるのかも知らなかった。男が手に入れられるのは、流通している白い粉だけだったのだから。
「違うか? 単体では滋養強壮、免疫向上なんかの効果があると思ったが」
「そ、そうだ、が」
男の顔に色々な疑問が浮かんでは消えていく。
「偶然だなぁ。ワタシが寄った街で、ちょうど城からの触れがそれを求めるものだった」
男がはっとする。彼もあの触れを見たのかもしれない。
「あの街に戻れば、手に入ると言うのか?」
「どうかな。聞いたところ、一個人にまで回せる余裕は無さそうな感じだったが」
咲いた花が萎れるように意気消沈する様を、シェスティンは口元だけで笑う。
「さて、ワタシは今、とても懐が暖かい。何故でしょう?」
話の前後が見えなくなったのか、男は妙な顔をした。
「……金払いがいいとは思ったが、何故かなんて俺は知らん」
「ヒトの話は良く聞いた方が良いぞ? ワタシは脈略のない話はしない」
もっと訳がわからないという顔をしている母親の方を一瞥して、男はしばし考え込む。
「まさか……」
シェスティンは自信ありげに口角を上げていた。
「いや、だが、そうだとして……再び手に入れるのはそう簡単には」
彼女には難しいことではないが、そこは黙っておく。
「幾ら出す気がある?」
男はまた黙り込み、額にうっすらと汗を滲ませた。あの触れを見たのなら、相場は分かっているはずだ。行商人ごときが個人でポンと出せる額ではないが……
「あ、実家に頼るのは止めた方が良いぞ。家族に愛があるのならな」
ぎょっとしたように男は顔を上げ、シェスティンを繁々と眺める。それから苦しそうに顔を歪めた。
「……個人では二十が限界だ。だが、知り合いが残りを出してくれるかもしれない」
「出所を秘匿してくれるなら、別に構わない。あなたには昨夜少し酷なことをした自覚があるから、四十に負けてもいい。差額はあなたの懐に入れるがいいさ」
シェスティンは荷物の中から一枚鱗を取り出すと、びっくり顔の男に放り投げた。
「……え。あ、うわっ」
くるくると回りながら飛んでくる鱗を掴み損ね、それは男の手に収まる前に跳ね上がる。わたわたと鱗を追う姿を、母親はただただ口を押さえて目を丸くして見ていた。
「こ……こここ、これ……って」
「見たこと無いんだろう? 後払いにしてやる。知り合いに見せてみるがいい。ワタシはもう一泊することにしてのんびりするから、夜までに戻ってきてくれ。薬の話はそちらでどうぞ」
そう言うと、食べ終えたスヴァットの皿を持ち、顔を洗っている黒猫に声を掛けてシェスティンは部屋を出る。
ドアが閉まる直前、何が何だか分からないという表情で顔を見合わせる二人がちらりと見えた。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
観光名所になっている湖の
スヴァットは途中で疲れたとばかりに肩に乗ってうとうとするので、落ちるよりはと彼女が抱いていた。
部屋に戻ると、朝、母親が座っていた椅子に座って難しい顔をしていた男が、シェスティンを見て立ち上がった。そのまま彼女にずんずんと歩み寄る。
「もう、無いのか」
「何が」
今シェスティンが入ってきたドアまで彼女を追い詰め、そのドアに拳をぶつけて、男は彼女の瞳を覗き込んだ。
「金は出す。出せる。譲ってくれ」
ブルーグレーの瞳は揺るがない。しばらくお互いの胸の内を探るように見つめ合っていたが、やがてシェスティンはゆっくりと目を伏せた。
「断る」
「――っ! 何故!? ……あ、っ
黒い塊がシェスティンの腕の中から飛び出し、男の頬に痛みが走る。彼は思わずドアについた手を引っ込め頬に当て、体を引いた。
スヴァットは床に降り立つと男に向き合い、毛を逆立ててフーッと威嚇し始める。
「スヴァット。いい」
もう一度黒猫を抱き上げて、シェスティンは自分の荷物から男から買った傷薬を取り出した。
まんじりともしない男の後ろに椅子を移動させると、その肩を押し付けて座らせ、頬を抑え込む手を退けて血の滲む一本線に薬を塗りつけていく。
「器用だな、スヴァット。一本で済ませるなんて」
なぁん、という誇らしげな声に男はぎゅっと目を瞑った。
「俺は、ふれ、触れなかっ……」
「そうだな。だからこうして確かめてやったじゃないか。まだ大丈夫だ」
意味が解らないと、男は目を開けて小さく首を振る。
「ワタシは城に鱗を納品した時にこう聞いた。どのくらいもつのかと。返事は在庫も入れて十年ほどだろうということだった。渡したのは三枚」
男の顔が強張る。
「在庫の数にもよるし、何に使うのかにもよるんだろうが、薬師のあなたが使うなら薬以外にはないだろう。あなたの知り合いと折半したとして、充分な量だと思うのだが」
男の膝の上で握られた拳は細かく震えていた。
「あなたの知り合いは何を要求したのかな。あるいは……何をあなたに提示したんだろう」
男が固く口を引き結び、視線を床に固定したのを見ても、シェスティンはさもありなんと飄々としていた。
「個人単位で取引して、あまり流通を混乱させたくない。隣国の城には持ちかけようと思っているから、少し待てば町医者にもある程度は回るはずだ。功を焦ると手痛いしっぺ返しをくらうぞ」
「隣国に持っていっても、民には回らん」
傷薬をしまっていたシェスティンは男の力無い声に振り向いた。男の視線は相変わらず床の上で、拳はきつく握られたままだった。
「それは西側の街に騎士団がいるという話と繋がるのかな?」
男は微動だにしない。
シェスティンは少し長く息を吐いた。
「……飯にしようか」
「俺と……食うというのか」
「荷物のある部屋にあなただけ置いて行きたくないんだよ」
男は自嘲気味に笑って、ふらりと立ち上がる。
「忠告を。現状、ぎりぎり、だ。命が惜しければ馬鹿なことは考えないでくれ」
男はシェスティンの言葉に反応することなく、先に部屋を出て行った。
会話の無い食事――男はもっぱらアルコールの類だったが――も終盤になって、男は懐から薬の包みを二つ取り出し、テーブルの上に投げ出した。
「――あんたにもらったやつを粉にしたもんだ。どんなもんだか、飲んでみろよ」
シェスティンは表情を変えずにその包みをじっと見ていた。
「滋養強壮、免疫向上、頭もスッキリする。旅なんて疲れることばかりじゃないか」
男は一言話し出すと、先程までとは打って変わっていやに饒舌だった。酒が、いや、酒の力を借りて、そうしてるのかもしれない。
「ああ! 疑ってんのか! そうだったな。そうだった!」
あはは、とわざとらしい笑いが響く。
「これを、いろんな効能がある薬と混ぜるんだ。痛み止めも、解熱も傷薬だって数段効きが良くなる。筋肉、骨格の増強、恐怖心を薄めて闘志にすり替える。そんな使い方もあるって、知ってるか?」
片方の包みに手を伸ばし、ちっとも笑っていない目でシェスティンを見つめながら、男はその包みを開いた。ほんの少量、白い粉が入っていた。
「俺も飲むよ。例え、睡眠薬でも毒薬でもそれであいこだ」
「あなたと心中する気はないんだがな」
「俺もないさ」
包みの中身は明らかに昨日の睡眠薬より少ない。
「半分」
少し考えてから、シェスティンは男に告げる。
「そっちとこっちの中身を半分ずつ交換するなら、飲んでやってもいい」
きょとんとした後、男は楽しそうに笑った。
「なるほど。勉強になるな。中身が違う可能性も考える訳だ。いいぞ半分だな」
男は新しい薬包紙を取り出すと、使っていないフォークでそれぞれの粉を半分に分け、そこに移し替えた。残った半分ずつの粉も合わせてひとつにする。
「どっちがいい? 選んでいいぞ」
シェスティンは新しい薬包紙の方を無言で指差した。男は頷いて慎重にその紙を彼女の方に押しやる。もうひとつの包みを持つと、少し上を向いて躊躇いもなく口の中へと粉をふるい落とし、少し残っていた酒を続けてあおった。グラスを置いた男は、シェスティンに向かってにっと笑う。
「言っておくが、ワタシのやり方はあまり参考にならんぞ。本当に気を付けるなら、一切手をつけないのが正しい」
とん、とテーブルの上に飛び乗ったスヴァットが、薬の匂いを嗅いで不安そうに小さく鳴いた。
「大丈夫だ、スヴァット。彼は死んでない」
「毒じゃないって」
「そういう意味じゃない」
男は少し眉を寄せたが、シェスティンがその場で薬を飲み干したので、もうそれ以上は何も聞かなかった。
よたつく足で部屋まで戻る男の後ろ姿を見ながら、シェスティンはそっとスヴァットを抱き上げて囁く。
「今夜はもう、手は出さなくていい」
腕の中で小さく返事をして、黒猫は前を行く男の背中をじっと見つめるシェスティンの顔を見上げていた。
部屋に戻るなり、男は倒れ込むようにベッドに身体を投げ出した。
「水でもやろうか?」
「君も大概だな。どうせなら縛り上げでもしてくれよ」
「必要ないと判断している」
「どこで。そもそも、何で判断してるんだ。昨夜は薬を飲ませたくせに。君も俺には何もできないと、そう思ってるのか。医者にもなれず、恋人は兄にとられ、ふらふらと街を渡り歩いて逃げ回ってる人間には何もできないと――」
シェスティンは嘆息する。
「聞いてないし、思ってない。ワタシの判断基準はひとつだけ。あなたがまだ生きていることだ」
とろりとした目が、シェスティンを映した。
「俺は死ぬのか」
「さあ。皆、いつかは死ぬ。今のあなたの判断は間違ってない。だから、まだ生きている。迷わなくていい。迷わない方がいい。死を望んでいないのなら」
「……きみはしにがみ、なのか」
男の瞼が下りる。
「そうするも、しないも、あなた次第だ」
男の口元が小さく歪んだが、それが笑みを作ったものだったかどうかの判断までは、シェスティンには出来なかった。
男に布団をかけてやり、シェスティンはスヴァットを抱えたまま自分の寝床に横になる。
「スヴァット、もしワタシが寝入っていたら起こしてくれ。彼が出て行く前に」
言ってしまってから、抱いて寝てしまったらあまり当てには出来ないなと思い出して、彼女はひとりでこっそりと笑った。
――夜中。
暗闇の中で息を潜め、寝ている者を起こさないように、そっとその枕元に身を屈めた者がいた。慎重に荷の口を解き、ほぼ手探りで中を検める。もうひとつの皮袋を探り当て、その中に手を入れて、その人物は息を呑んだ。その、数の多さに。
袋ごと取り出し、後ろめたさに震える指をなんとか押さえつけて、寝ている者をそっと振り返る。
「二枚程度にしておけ。それしかなかったと」
いつの間にか半身を起こしているシェスティンと目が合って、男は思わず袋を取り落とした。
「……な……なぜ」
「ワタシには薬は効かない。ほとんど、な。自分は何かで調節したんだろう? 早く目が覚めるように」
男はぺたりと腰を抜かして座り込んだ。
「それを全て知り合いに渡したところで、明るい未来が待ってるとは思えないがなぁ」
「俺を殺すのか」
怯えているのか、男の声は震えていた。窓から入る少しの月明かりでは、ちょうど衝立の陰に入り込んでいる男の表情はシェスティンから窺えない。だが、男の方からは少しだがシェスティンの様子が見えていた。
彼女は右腕を庇うようにして身を起こしており、苦笑しているようだった。
「殺すも何も……味方に利き腕を使い物にならなくされてね。情けない話だが、今ならあなたを止められない」
男は布団の上で丸くなっている闇に溶けそうな黒猫の姿と、落とした皮袋、それからシェスティンの右腕に視線を滑らせ、唇を噛んだ。
「感覚がないのか」
「いや、そこまでは。前回よりは痺れる感覚がある分ましかな」
「……貸してみろ」
男は闇から這い出して、シェスティンの右腕を取ると、掌で肘から先に向けて血を押し出す様に丁寧にマッサージし始める。
「……チャンスだぞ」
「――見つかった所でお終いさ。もう、ここで死ぬのも悪くないかもしれん」
「開き直れるなら、最初からそうすればいいものを」
「魅力的だったんだよ。とても。仕方ないだろう? 目が覚めるかどうかも賭けだったんだ。勝ったと思ったんだがな」
掌から指先も同じように丁寧に擦っていく。お互いの手が摩擦と血行が良くなったせいでほんのりと温まって、シェスティンはうっかりその気持ち良さに浸ってしまう所だった。
「どのくらい触れてれば、俺は死ぬんだ?」
シェスティンははっとして、男の手を振り払った。
ここまで何も起きないのならば、男が下心なしに施術を施していたのは明白だ。
「も、もういい」
急に振り払われた手を視線で追いかけて、男は笑った。
「なんだ。実は単に初心なのか? 次に痺れたときも今みたいにするといい。少しは早く回復するだろう。君の番猫にはよく言って聞かせるんだな。利き腕には乗るなと」
シェスティンは渋い顔をしながら、寝こけてるスヴァットを見下ろす。
「……あなたの知り合いは諦めそうか?」
「どうかな。でも、君がこの街を出てしまえば追いかけようもないはずだ――ただ……」
男は胡坐をかいて座り直し、窓の方を見ながら朝からの出来事を話し始めた。
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