第2章 Fortune favors the bold.
2-1 少女は黒猫を好む
暖かくなった懐で、シェスティンは着替えや本格的な旅支度を整えた。これから寒くなると野宿は厳しいし、しばらくは
次に向かうのは大陸の西の端、『
長い放浪の間に、シェスティンは何度かその街を訪れたことがあった。
特産品の真珠を『人魚の涙』と名付けたり、街の至る所に人魚の像が設置されていたりする、観光の街。
実際、人魚が住んでいるとされているのは、その街の沖合に見える小さな島だ。周囲には岩礁が連なり、大きな船ではとても近づけない。訪れたことがあるといっても、シェスティンが知っているのはそのくらいだった。
とりあえず向かうのは南西の湖に近い街。馬車に揺られて半日程度の宿場町だ。
宿に戻るとスヴァットは山猪の皮袋の上で丸くなって眠っていた。余分な荷物を宿に置いて、スヴァットを番犬ならぬ番猫として置いて行ったのだ。
鱗の流通がそんなに滞っているなら、もう少し持っていっても良かったかな、とシェスティンは思わなくもなかったが、近隣の国で少しずつ出していくのならば、この国に来る問い合わせも減るだろうし、争いの種も小さくなるに違いない。あの国の儲けにはならなくなるだろうが、まぁ、そこはシェスティンの知ったことではなかった。
「スヴァット。留守番ありがとう。出発するぞ」
黒猫の頭をがしがしと撫でて起こすと、シェスティンは皮袋も背負い袋に詰め込んだ。ここに来た時はぺったんこだったそれは、今はパンパンに膨らんでいる。
そこから水筒だけ出して腰に下げる。シェスティンは飲まず食わずでも大丈夫なのだが、スヴァットはそうはいくまい。人目のあるところでは、それなりの振る舞いも必要になるというものだ。
ぐっとお尻を高く上げて伸びをしたスヴァットは、んなー、と気の抜けた声を上げながらシェスティンの肩へと登っていった。
「こら。重いぞ。歩け」
素知らぬふりで背負い袋と肩の間に上手くバランスを取って伏せてしまう黒猫。彼の揺れる尻尾が、シェスティンの首筋を撫でていった。
くすぐったさに首を縮めるも、無理矢理に退かそうとまではしないシェスティンであった。
宿を引き払い、乗合馬車に身を寄せる。幸い猫の同乗を嫌がる者はいなかった。
シェスティン達の他には人の良さそうな老夫婦と、ごちゃごちゃと荷物の多い行商人らしき男性、それから五歳くらいの女の子を連れた女性が乗っていた。女の子はスヴァットが気になるようで、ちらちらと熱い視線を向けている。
「挨拶したらどうだ? スヴァット」
背負い袋を下ろして膝の間に抱え、シェスティンは笑って言った。スヴァットはちらりとシェスティンを見上げたが、とことこと女の子の前まで歩いて行き、きちんとお座りの体勢で「にゃあ」と鳴いた。
「まぁ。お利口さんね。マリーもご挨拶は?」
「……こんにちは。スヴァットっていうの? なでてもいい?」
女の子は、はにかみながらそう言って彼女の母を見上げた。母親がシェスティンを見たので、彼女はにっこり笑って頷いた。スヴァットも少し頭を突き出すようにして待ちの体勢になっている。
出発の合図のベルが鳴る頃には、向かい合うようにして座っている人々にほんわかした空気が漂っていた。
良い雰囲気のまま休憩所に着き、皆、思い思いに身体を伸ばす。ずっと愛想を振りまいていたスヴァットは、馬の貰っている水の桶に一緒になって頭を突っ込んでいた。一頻り喉を潤した後、戻ってきたスヴァットにシェスティンはパンと干し肉を少し分けてやる。
「お疲れ」
そっと撫でてやると、にぁ、と少し疲れた声が返ってきた。
顔を上げた彼女の目に、乗り口近くでぽきぽきと体を鳴らしながら伸びをしている行商の男性が映る。
「何を売っているんです?」
ほんの好奇心から、シェスティンは彼に声を掛けた。
きょとんと、中年にさしかかろうかというその男性は、声のした方へと顔を向ける。
「行商、なさってるのでは?」
「……ああ。ああ、そうだ。いや、失礼。女性のような、声だったので……」
うっかりと口を滑らす辺り、商売上手ではなさそうだ。シェスティンはにやりと笑って首を傾げてみせた。
「女だと問題でも?」
「あ、いや、え? 女性で、一人旅を? あ、い、いや、失敬」
男はばっと自らの手で口を塞いで、視線を忙しなく宙に泳がせた。
「お気になさらず。慣れてますよ」
で、とシェスティンは男の大荷物に視線を向ける。
「あ……ああ、日用品からナイフや短剣、薬なんかも少し扱ってる。あんたみたいな旅人さんに役立ちそうな物をね」
「薬は傷薬とかかい? へぇ。珍しいな」
「解熱鎮痛剤とか、睡眠薬、湿布、強壮剤……入り用なら融通するよ」
シェスティンは少し考えて、こちらに駆けてくる少女を見やった。
「ナイフ類を見せてもらいたいとこだが……お嬢ちゃんの前じゃちょっと、な」
「次の街で一泊しないのか?」
「あぁ、する予定だ」
「なら、同じ宿にしよう。ゆっくり見せてやれる」
大きく手を開いて、男はようやく商売人らしい笑顔を見せた。
「別にいいが、死にたくなかったら変な気は起こしてくれるなよ?」
「な……なんだよ。物騒だな。客を無下にはしないさ」
「薬を扱うのは免状が必要だった気がするが、なんで行商なんだ?」
「痛いとこを……」
男は苦笑いする。
「優秀な兄たちの使いっパシリをしてるうちに、まぁ、なんとなく、な」
馬車に乗り込もうとして食事中のスヴァットを見つけ、その傍にしゃがみこむ少女を目で追いながら男は軽く鼻を擦った。
居場所が見つけられなくて流れてきたのだろうか。よくある話だとシェスティンは頷いた。
「自分で調合してるのか?」
「ある程度はな。お陰さまでコネを最大限に使って仕入れもできるんでね」
街々の薬師や医者と知り合いということらしい。それはそれで悪くはないんじゃとも思うが、上を知っていると思うところは色々あるのかもしれない。シェスティンは黒猫を撫でている少女を見下ろすと、軽い調子で話しかけた。
「よかったな。お腹が痛くなったりしてもお兄さんが薬を持ってるから安心だ」
少女はきょとんと男を見上げた。
「おじさん、お医者さまなの? おばあさまの病気も治せる?」
シェスティンと男は、はたと目を合わせてすぐに少女に視線を戻す。
「お婆さん御病気なのか。早く良くなるといいな」
「医者ではなくて流れの薬師だから、治せない病気も作れない薬もあるなぁ」
「そうなの……」
幼い少女は薬師と医師の違いがよく分からないようだったが、治せない、と聞いてとてもがっかりした顔をした。
「……ごめんな」
すまなそうに男が謝罪する。
薬以外も扱っているのをみると、薬だけでは食べていけていないのは明白だ。病状もよく分からないのに不用意なことも言えないのだろう。
「いたい、いたいって言うの。マリーもいたいのきらいだから、治してあげたいんだけど……」
「お医者様には診てもらってるんだろう?」
シェスティンの質問に少女が答える前に、彼女の母親が戻ってきた。
「マリー……何の話を……ごめんなさい。祖母のお見舞いに行くところで……」
お互い軽く自己紹介をしてから、失礼にならない範囲で話を聞けば、少女の祖母は酷い関節痛に悩まされていて歩くことも困難になり、寝たきり一歩手前の生活らしい。少し前までは医者の処方してくれる薬でなんとかなっていたらしいのだが、最近は薬がよく効かないのだとか……
「もう歳ですし、同居を決めようかと」
眉尻を下げて、それでも微笑む彼女に男は
タイミングよく、なのか、こちらを窺っていたのか、御者が出発を促した。皆が元のように席に着く。スヴァットは少女に連れて行かれたが、馬車の揺れに少女がうとうとし始めると、その膝の上で丸くなって自分も寝息を立てていた。
宿場町に着く頃にはすっかり日も暮れていて、宿屋や酒場の入口のランプが手招きするように揺れていた。
同じ宿にと誘われていたので、シェスティンは一足先に下りたものの、その場で男を待っていた。続いて下りてきたのは母娘で、母親はシェスティンに、娘はスヴァットに別れの挨拶をしてくれた。シェスティンも微笑んで挨拶を返す。
「ちょっと、お待ちください」
男の声に母親が振り向いた。
小さな白い包みを指先に挟んで、男が母親に差し出している。
「痛み止めです。もし、これが効くようなら在庫が少しあるのでお分けしてもいい。ただ、値が張るので無理にとは言わない。俺は――に泊まる予定だから、何かあったらそこを訪ねてくれ」
母親は恐縮してそれを受け取ろうとしなかったが、男の方が効かないかもしれないからと、無理矢理少女の手に包みを握らせて、さっさと踵を返してしまった。
男のうだつが上がらない原因を垣間見た気がして、シェスティンはにやにやしながらその後を追っていく。大通りから一本逸れてひっそりとした中通りを歩き、二人の着いた先は一軒の宿屋。迷いもせずにそこまで来てドアをくぐるところを見ると、男の馴染みの宿なのかもしれない。
「――っらっしゃい!」
威勢のいい声を発した宿の主人は、男とシェスティンを視界に収めると若干眉尻を下げた。
「旦那、間が悪ぃよ。二人部屋はもう空いてない」
は? とちょっと間抜けな顔をしてから男はシェスティンを振り返り、慌てて宿の主人に食って掛かった。
「違う! 別々だ」
「なんだ。ドアなんぞ押さえて気を使ってるから、てっきり」
「客の予定なんだよ。余計なこと言って邪魔しないでくれ!」
にやにやしていた宿の主人は、一転して真面目な顔になると腕を組んだ。
「余計間が悪ぃや。部屋は残りひとつなんだ。ベッドがひとつっきゃない、ソファもない部屋さ」
「はぁ? 万年閑古鳥が鳴いてる宿の癖に、どうしたんだよ」
宿の主人は男に軽く拳骨をくれて、シェスティンに肩を竦めて見せた。
「湖の西側の街に騎士団だか傭兵団だかが集まってるらしくてな。宿にあぶれた一般の客がこっちまで足を延ばしてるらしいんだ。目につくようなトコはどこも満室なんじゃねぇのかな」
物々しい話にシェスティンは眉を寄せた。
「戦争でもしようってのか」
「俺が知るかよ。でも、そうならこっちも動きがあるはずだろ? だが、そんな気配は無ぇし、いつも通りのんびりしたもんだよ」
湖の西側は国が違う。昔は水を巡って多少のいざこざがあったのをシェスティンは知っていたが、それも戦争と呼ぶほどの事にはならなかった。この辺りは基本的に平和だ。東の方には常に武力をひけらかしている国もあるのだが。
「――で、だ」
三人は顔を見合わせた。なぁん、と自己主張する声が足下からまぬけに響く。
「その一部屋でいいってんなら、毛布と布団と衝立くらいなんとかしよう。こう言っちゃあれだが、この旦那に姐さんを襲える度胸はねぇと思うからな……姐さんでいいんだよな? 兄さんじゃあるめぇ?」
「おいっ」
シェスティンはスヴァットを見下ろしながら少し考えた。これから他の宿を探して交渉してダメなら野宿か。襲われそうな確率はあまり変わらないとも言える。
「いいよ、じゃあ俺が……」
「あなたはこの宿じゃないと。さっきの母娘が訪ねて来るかもしれない」
シェスティンは男の言葉を遮った。
「わかった。同室でいい。その代わり食事をコイツの分もつけてくれ」
ひょいとスヴァットを持ち上げて、シェスティンは追加のサービスを要求した。主人は了承して交渉は成立。放られた鍵を受け取るシェスティンを、男はぽかんとして見ていた。
「ちょ……ちょちょちょ、ちょっと待てよ。そんな、簡単に……万が一があったら……あ、いや、俺はないが。大丈夫だが。そんな調子でまさか、いつも」
二階の、階段登ってすぐの部屋の前まで来てから、男はようやく我に返ったようだった。
「まさか。ワタシに触らないでくれよ。あんたの為だ。番猫もいるしな」
「番……猫?」
にゃー、と鳴くスヴァットに男は胡乱な目を向ける。
確かに頼りにはならないかもしれない。腕の上から退かされても起きなかった強者だからな。
そんなことを思いながら開け放ったドアの向こうは、ベッドと簡易机くらいしかない、本当に簡素な部屋だった。
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