1-4 竜と呪い
そんな風にのんびりと数日が過ぎた。
ウサギの煮込みが無くなる頃、夜中にラヴロが猪を仕留めて持ち帰ってきたので(頭は食いちぎられてもうなかった)、シェスティンはラヴロにも手伝ってもらってとりあえず吊るしておき、朝になってから解体を始めた。
ラヴロに炎を吐き出させて毛を焼き、剃り落とすところから始めて苦労しながらなんとか作業を終えると、すでに昼近くて汗だくだった。
そういえばしばらく水浴びもしてないなと思い立ち、シェスティンはおもむろに服を脱ぎ去った。朝晩はもう冷える。水に入るなら今のうちだと判断したのだ。
胸にきつく巻かれた布も外して、生まれたままの姿を惜しげもなく晒す。久しぶりの解放感だった。
胸を押さえ付けているのは、余計なトラブルを避けたいからだった。一目で女だと判ると山賊やならず者なんかに目を付けられやすい。国を出た頃はうんざりしたものだ。今では体型の隠し方も覚え、動きやすくもなるので、そこそこの大きさの膨らみは常に押さえつけられている状態だ。シェスティン自身はもう慣れっこで、そんなことは気にしてもいなかったが。
ざぶざぶと川の中央付近まで行くと、大腿部まで深さがある。今は緩やかな流れだが、少し水が増えたならあっという間に流されてしまうかもしれない。
屈み込み、編みっぱなしの髪を解いた。亜麻色の髪が水面に散って、ゆらゆらと川の流れに沿って揺らめく。指でゆっくり梳くように洗い、終いにとぷんと潜ってしまって頭頂部まで洗い流す。
シェスティンが再び立ち上がった時、少し離れたところでスヴァットが右前脚を上げたまま振り返り、こちらを凝視しながら固まっていた。
「スヴァット? どうした? お前も洗ってやるから、こっちへ……」
シェスティンが両手を差し出した時、どこからかラヴロが現れて、固まったままのスヴァットをばくりと咥えた。そのまま百メートル程下流まで行ったかと思うと、スヴァットを川の中へと放り込んだ。
「ラヴロ!」
非難の声を上げるシェスティンに一瞥もくれず、ラヴロは川岸でじっとスヴァットを投げ入れた川面を見ていた。
舌打ちをして下流に向かって泳ぎだそうとしたシェスティンだったが、黒い塊が岸に手をかけたのを見て思いとどまった。ずぶ濡れで、よろよろと重たそうに岸に上がったスヴァットは、ぶるぶると身体を震わせて水気を飛ばす。キッとラヴロを見上げるところを見ると、特にどうこうはなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。
睨み合うかのように視線を外さない二匹を見ながら、彼女は鬱陶しい髪を絞り、元のように三つ編みにしてしまう。それから脱ぎっぱなしだった服を引っ掴んで二匹のもとへと駆け寄った。
「ラヴロ、何をするんだ!」
『服を着ろ。話はそれからでいい』
「今着たら服が濡れるじゃないか」
呆れた顔でラヴロはシェスティンに思いきり息を吹きつけた。
『ほら、少しは乾いただろ』
ラヴロはお座りの体勢で目を真ん丸にしているスヴァットを爪の先で押しやるように転がした。
「あ、ラヴロ!」
『服を着ろ』
いつもはそんなことは言わないのに、と不満に思いながらもシェスティンは渋々と従う。下半身を一度整えてしまってから、胸に布を巻きつけていく。もう手慣れたものだ。上着に頭を通すと、こちらに背中を向けてぱたぱたと小刻みに尻尾の先を揺らしているスヴァットが見えた。
「これでいいのか? なんなんだ」
『猫ではないと言っておろう?』
「だから?」
『呪いを受けて姿が変わっていても欲の目は変わらんらしい』
「?」
『人の裸体に欲情するのは、少なくとも人の類だろう?』
スヴァットがちらりと振り返って、小さくうにゃっと抗議した。
シェスティンはまだよく意味が解らずにラヴロの言葉を反芻する。
「人?」
言葉に出すと、ようやく脳にまでその意味が届いた。
「人?!」
そんなばかな、と頭の中で声がこだまする。シェスティンには確信があった。人ならば生きていられるはずがないと。だからこの猫も他の何かだと思っていたのだ。
一方でウシガエルの上に落ちてきた岩も思い出す。あれは確かにウシガエルの真上に落ちてきた。確認してから飛び降りては間に合わぬ速度で。
『だから、簡単に気を許すなと。呪いを解いた途端、恩を仇で返されかねん』
にゃっ! にゃっ! とラヴロに向き直ったスヴァットがその前脚を叩きながら抗議している。確かに人間臭いといえばそうだが……
「本当に? 元は人なのか?」
シェスティンは屈み込んでスヴァットに尋ねた。
スヴァットは、にゃあんと可愛らしく鳴いて誤魔化そうとしたようだったが、真剣なシェスティンの眼差しに耐え切れなくなったのか、やがて観念したようにゆっくりと頷いた。
気まずそうに目を逸らす黒猫を目の前にしても、まだシェスティンは信じられなかった。彼女を害そうとした者はことごとく、彼女に好意をもって触れようとした者も全て、彼女の前で命を落とした。あの日から安心して触れ合えるのは人ではないものだけ。ある程度見分けられるまでにどれだけの犠牲を払っただろう。
挨拶の握手は大丈夫。人混みで肩がぶつかるくらいは大丈夫。でも、そいつが振り返り声を荒げるともうダメなのだ。
竜は呪いではないと言う。しかし、シェスティンには立派な呪いだった。
「ならば、接し方を改めねばならんな……」
小さく溜息を吐くと、小首を傾げて彼女を見上げる黒猫を残し、シェスティンは踵を返して猪肉に塩を擦りこむ作業に戻っていった。
なー、と小さく鳴く声にラヴロは答える。
『人が彼女に触れると死ぬ』
びくりと、猫の体が跳ねた。
『大雑把にいうとそういうことだ。よく心に留め置くことだな。今までは彼女の認識が無かったから無事だったのかもしれん』
にやりと笑うラヴロをスヴァットは半眼で睨みつけた。どちらともなくシェスティンに向けた視線の間を、少し冷たい風が吹き抜けていった。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
薪になる枝とスープ用の茸を探しに森に入ると、シェスティンは運よくリンゴの木を見つけた。ラヴロも食べるかと少し多めに袋に詰め込む。袋の中は茸の黄色とリンゴの赤でとてもカラフルに見えた。
期待していなかったスヴァットも、コケモモの実を口に含んでみたり、茸を見つけて呼んでくれたりしてくれた。先日よりも距離をとっての行動で少し寂しく思ったシェスティンだったが、それも仕方ないと諦める。誰も死にたくはないのだし、死なせたくもない。まだ傍に居てくれるだけこの猫は――人は?――肝が据わっている。
重たくなった袋を担ぐと、彼女は元来た道を戻り始めた。
「スヴァット。もういくよ」
にぁ! と返事をしてスヴァットは大人しくシェスティンの後をついていく。
もう森を抜けるというところで、スヴァットはシェスティン以外の人の足音を耳にした。耳をピンと立て、少しの間立ち止まって警戒してから走り出し、シェスティンの膝裏に体当たりする。思いがけない攻撃に、がくりと体勢が崩れて、シェスティンは危うく転びかけた。
その頭のあった辺りを何かが飛んで行って木に刺さり、ぶるぶると震えている。
咄嗟にシェスティンは剣を抜いた。
「あれ。ヒトかよ。すまんすまん」
軽い調子で話しかけてきた男は見たところひとり。こんな森の奥まで入り込むということは。
「確認もせず矢を放つとは、随分せっかちだな。こんなところで何をしてる?」
男は軽く首を傾げる。
「お互い様だろ? そっちは、何を?」
言いながらシェスティンを目線で舐めまわし、舌なめずりして唇を弧の形に歪ませた。ゆっくりとした動作だったが、男は油断なく間を詰めてくる。
じり、と後退りしながらシェスティンは考える。斬るべきか、逃げるべきか。男の表情からはどちらにしても死の香りしかしなかった。
トン、と彼女の肩を蹴りつけてスヴァットが飛び出した。その顔に爪を振り下ろすと、全く彼に気付いていなかった男が怯んで目を閉じた。
その隙に、シェスティンは腰の辺りで剣を構えたまま身体ごと男にぶつかっていく。体重を乗せて突き出した剣は狙い通り男の心臓を一突きにした。
低く呻いてくずおれる男の腹に蹴りを入れ、反動を利用して剣を抜き取る。血糊は本人のマントで拭いてやった。
弓と矢筒を頂戴してスヴァットを見下ろす。
「仲間は」
しばし耳をそばだてた後、スヴァットは静かに駆け出した。シェスティンも出来るだけ物音を立てないように後を追う。
しばらく行くと木立の隙間に皮鎧を着た人物が辺りを窺う後ろ姿が見えた。足を緩め、身を低くする。
スヴァットと目を合わせれば、任せとけとでも言うかのようにウィンクをして(瞑ったのが青い瞳の方だったので、残念ながらウィンクには見えなかったのだが)男の前方へ回り込んで行った。
がさりがさりと前方の草叢を揺らし、スヴァットが男の気を引いてくれている間にシェスティンは矢をつがえる。がら空きの首を狙って放たれたそれは少しだけ逸れて、男の首を抉った。
短い悲鳴と舌打ち、首筋に手をやって男は振り返った。振り返りざまもう一射するが、すんでのところで避けられる。シェスティンはあっさり弓矢を捨て、剣を抜き放って駆け出した。
男も体勢を立て直しながら腰の物を抜く。シェスティンの狙いは貫き損ねた男の首。馬鹿正直に真直ぐ突っ込んでくる彼女を男はにやりと笑って待ち構えていた。
振り下ろされる剣をまともに受けても、男には余裕があった。受けた剣を押し返し、次の攻撃も、次の次の攻撃も難なく防いでみせた。
脇腹を狙う薙ぎを弾いて、開いたシェスティンの身体に真直ぐに剣を突き立てる。
「わりぃな」
「――っん、み゛ゃ!」
スヴァットが男の左腕に咬みつくも、軽く振り払われた。けれど、確かに男の意識は一瞬猫に向かっていた。
「こちらこそ、悪いな」
ぎょっとした男がシェスティンを振り返る前に、その首は胴体と別れを告げていた。
シェスティンは軽く肩で息を吐くと、前屈みになって胸に刺さっている剣を抜く。
「あああ!」
慣れてるといっても、一瞬とはいっても、痛いものは痛い。喉からは叫びが、目尻には涙が零れ出ていた。
スヴァットは大丈夫だろうか。
抜いた剣ががらんと無機質な音を立てて地面に転がるのを見ながら、シェスティンは振り払われた猫を案じていた。
身体を起こし、辺りを見渡そうとした彼女の首にひやりとした物が当たり、左腕を背中側に捻りあげられる。よろけた身体は誰かの胸に受け止められた。
「ひとりか? 追剥とは感心しないな」
「先に手を出そうとしたのはそっちだ」
「は? マックスか?」
三人目の男は舌打ちをした。
「お前たちは何しにここへ?」
「竜を探しによ。お嬢ちゃんもなんだろ? 見た感じ傷は浅くねぇようだし、いっそ組まないか?」
「断る」
自由な右手で腰ベルトからナイフを取り出し、男の短剣を持つ腕を狙って腕を返した。
難なく弾かれたが、首元から短剣は離れた。すかさず肘鉄を入れて逃れようと体を捻ったが、取られた左腕は自由にならなかった。そのまま俯せに押し倒され、地面に組み敷かれる。
「気の強ぇ女は嫌いじゃないが、場の読めねぇ馬鹿はいただけねぇな」
首の後ろに切っ先を感じて、男の声は耳元でする。
どこかで木の枝が折れるような音が響き、スヴァットの鋭い鳴き声が後を追った。
「来るな! スヴァット!」
男が頭を上げて黒い猫を視界に入れた。猫は来るなと言われたからか、勢いを殺し戸惑いをみせる。そこで、衝撃と共に男の意識は途切れた。
黒猫の色違いの瞳には、落下してきた太い枝が男の首を貫いている光景が映っていた。
「……あいしてる」
光の消えた双眸を猫に向けたまま、シェスティンに体重を預けるようにして男は耳元でそう囁いた。シェスティンの顔が酷く歪む。乱暴に男の死体を払い除けると、彼女は吐き捨てた。
「気のせいだ」
俯せのまま両手で顔を覆い、そのまましばらくシェスティンは動かなかった。躊躇いがちにスヴァットが近寄り、その手をぺろりと舐める。びくりと身体を固くして、シェスティンはそろそろと黒猫を確かめた。小首を傾げた黒猫はシェスティンと目が合うとのんきに、にぁ、と鳴いた。
「……スヴァット」
恐る恐る伸ばされた手は、しかし途中でぴたりと止まる。スヴァットはゆったりと尻尾を揺らしながらその手に近付き、自ら頭を押し当てた。
「スヴァット……」
ぎこちなく彼の頭を撫でていた手は、しばらく経っても何も起こらないことを確かめると、そっと彼を抱き寄せ、まだ迷いながらもその柔らかい毛に頬を埋めた。
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