1-3 黒猫と竜

 離れていく雷の音と雨の音を子守唄に、シェスティンは微睡まどろみの中にいた。背中と腕の中に自分以外の体温を感じることが、とても幸せだった。

 いつまでもこのままでいられたらいいのに。

 『いつまでも』とうっかり思ってしまったことに、彼女は心の中で溜息を吐いた。その空虚さを彼女はよく知っていた。『いつまでも』は『いつか』辛くなる。どんなに幸せな時も、きっと、いつか。


 少しの間でいい。こんな時を積み重ねられたら。そうできたら。

 シェスティンは、ぐるぐるいう黒猫の生きている音と体温にだけ注意を傾けて、その身を眠りにいざなった。




 むにむにとした、柔らかい物を両の頬に押し当てられて、思わず口元がほころぶ。にあ、と聞こえて目を開けると、シェスティンの目の前には黒い塊から青と黒の瞳が見下ろしていた。


「おはよう。スヴァット」


 黒猫は首を傾げている。

 その小さい体を掴みあげ、よいしょと自分の身体を起こせば、クッション代わりにしていた竜も身を震わせた。

 今度はシェスティンが竜の腕の中から抜け出す。竜はさも迷惑そうに片目だけ薄く開けてシェスティンをちらりと見下ろし、大きな欠伸をひとつした。


スヴァットとは、また捻りの無い』

「わかりやすくていいじゃないか。なぁ。顔を洗ったら飯にしよう」


 初めに松明を取り外した横穴を行くと、水の溜まっている一角がある。昨日の雨で少し量が増えているようで、シェスティンは足を滑らせないように気を付けながら顔を洗い、口を漱いだ。

 ふと横を見ると、後をついてきたスヴァットが近くでぺろぺろと前足を舐め、堂に入った様子で顔を洗っている。


 シェスティンはペットを飼ったことがなかった。身近にいたことのある動物はせいぜいが馬くらいだ。放浪の生活に入っていろいろな動物に出会いはしたが、半分は彼女を襲い、半分は警戒して近付いてこなかった。

 呪いがかかっている為にスヴァットの本体が何であるかは判らなかったが、人馴れしていることは確かである。こう懐かれると情に流されるのは時間の問題だろう。現に、顔を洗うスヴァットをシェスティンは目を細めて見つめている。

 非常食が無くなったことより、一時の同行者が出来たことが、シェスティンには嬉しかった。たとえ、すぐ別れることになるのだとしても。


 朝食は昨日買ったパンと乾燥させたフルーツやナッツ。地面の窪みに水も注いでスヴァットに分けてやる。誰かの為に何かするのは随分と久しぶりのような気がしていた。

 お互いぺろりと平らげて、一休みしてから狩りに出ることにする。夕食の確保と保存食を作るためだ。


『――で、何故我が先導を……』


 不機嫌な声で竜が先を行く。


「たまに運動も必要だろう?」


 スヴァットは竜の気配を感じて逃げ出す鼠や虫たちをいち早く察知して回り込み、楽しそうに跳ね回っている。


「スヴァット、本命は外に出てからだぞ。そんなに張り切ると疲れないか?」

『放っておけ。好きにさせればいいだろう』


 カーブの向こうにいたコウモリたちが、慌てふためいて一斉に飛び立つ。その様子にスヴァットも驚いて、駆け戻ってきたかと思うとシェスティンに飛びついた。

 笑いながらスヴァットを両手で抱き留めたのを、竜は面白くなさそうに振り返って見ていた。


「なんだ?」

は猫ではないぞ。得体のしれないものに心を許すな。名など付けて、寝首をかかれても知らないからな』


 な〜ん、と甘え声がシェスティンの代わりに答える。


「その時はその時さ。どうせ、死にはしない。毎度人の首を刎ねるヤツの言葉とは思えないな」

『……嫌なら我が真名まなを呼べばいい。そんな奴の名を呼ぶくらいなら、我が――』


 きょとんとするシェスティンの腕の中で、スヴァットの瞳がすっと細められた。それだけだったのに、竜は笑われたのだと理解した。むかむかと胸の中が黒く染まっていく。


「真名はそう簡単に呼べないだろう? 何だ、今更」


 名は体を縛る。正しく真名を呼び命を下せば、その意志とは関係なくそれを遂行してしまう。一度呼んでしまえば主従は決まり、竜の意志などなくなってしまうと言っても良かった。


『――だから、言っている。我はもう竜をやめてもいいと』

「ワタシは嫌だと言っている――わかった」


 しかめっ面で、シェスティンはしばし目を閉じ少し考えてから続けた。


「ラヴロ。ラヴロと呼ぶよ。それで、どうだ?」


 竜はその名を口の中で転がし、猫の呆れたような半眼を見ても胸の中に黒い霧が立ちこめてこないのを確認すると、鼻息をひとつ吹き出した。


『安直だな』

「文句を言うな!」


 長い付き合いだが、ふたりの他に誰かいたことなど無かったから、竜の態度はシェスティンにとって意外だった。この猫が何であれ、自分たちより長生きすることなど恐らく無い筈なのに。次に会う時にはスヴァットはもういないと断言できる。それが解らぬ筈はないのに。

 やはり、彼の淋しさは限界なのかもしれない。

 シェスティンはゆっくりと歩く竜の躰にそっと手を添えた。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 崖下三分の一くらいに外への出口がある。広く張り出したこの場所から、竜は――ラヴロはその昔よく大空に飛び立っていた。

 一応警戒してシェスティンが辺りを伺い、人の気配が無いのを確認してからラヴロを外へいざなった。

 伏せる躰の背に乗り、鬣の代わりにそこにある、ゴツゴツしたでっぱりに掴まる。スヴァットも興味深げに駆け上ってきた。


「落ちないでくれよ」

『知るか。まったく、竜使いの荒い』


 言葉とは裏腹に、翼を伸ばすラヴロは気持ちよさそうだった。

 そのままバサリと力強く羽ばたく。風が巻き、シェスティンの髪もローブも攫おうとする。一度沈み込んだ躰は次の瞬間真上へと飛び上がった。

 なんなく崖の縁に降り立ってラヴロは辺りを見渡す。明るい外に出るのはどのくらいぶりだろうか。


「ラヴロも食事にするといい。まだ人が動くには早い時間だろう。昼くらいには呼んでみるつもりだが、いないようならいつもの所から帰ってるよ」

『好きにしろ』


 シェスティン達を下ろしてしまうと、ラヴロは崖の反対側へと飛んで行った。北側の森の方がより人が少ないのだ。熊や狼など、そろそろ冬籠りの準備に入る動物たちが豊富だろう。


 シェスティンとスヴァットは崖の縁をさらに内陸部へと進み始める。岩塩の採れる一帯があって、まずはそれを手に入れるのだ。保存食を作るのに塩は欠かせない。

 散歩するようにその場所まで辿り着き、塩の塊を手に入れると、シェスティンとスヴァットは野ウサギを追い、目についた鳥の巣から卵をひとつ頂戴した。成果は上々。


 元の崖上まで戻れば、丁度太陽が真上に来たくらいだった。スヴァットは疲れてしまったのか、肩の上で器用にうつらうつらしていたが、シェスティンが指笛を吹くと驚いて足を滑らせ、慌てて爪を立ててしがみついていた。

 それを笑いながらラヴロを待つ。


 陽の光はまだ肌を焼くように照りつけるが、空は高く、鱗のような雲が連なり、風は涼しくなっていた。その風に乗って黒い塊が飛んでくる。真直ぐに広げられた翼の被膜は風を受けて張りつめ、その鱗は陽に照らされ青に虹色に色を変える。

 綺麗だ、とシェスティンは目を細めた。


『だから、竜使いが荒いと』

「許せ。飛ぶお前は美しい」


 歯の浮くような世辞に、ラヴロはぷいと横を向く。来た時と同じように背に乗れば、彼はゆっくりと崖から身を乗り出した。


『そんな言葉はおんなにかけるものだ。我は嬉しくもなんともない』

「そうか。ではもう言わん」


 笑いを含んで言うと、ラヴロはちらりとシェスティンに顔を向けた。

 嫌がらせなのか、落下速度は結構早い。谷底に着くぎりぎりでラヴロは力強く羽ばたいた。川の水が、一瞬だけ割れて飛沫が舞い上がる。

 シェスティンは久しぶりのスリルにワクワクしていたが、スヴァットは爪を出しっぱなしで目を白黒させていた。舞い上がった水飛沫が顔にかかると、何やら口の中でうにゃうにゃ文句を言っている。


 ラヴロは好きなのだ。飛ぶことも、褒められることも。


「ありがとう、ラヴロ」


 それから、名を呼ばれるのも、たぶん。

 返事もなく、ただ細められた瞳に笑い返して、シェスティンは川岸へと降り立った。

 休む間もなく解体の準備へと移る。三匹のウサギは山猪の皮袋の中でもぞもぞと動いていた。水べりの平らな大きめの岩の上で彼女は手早くウサギの首を掻き切り、岩から岩へと張ったロープに逆さに吊るす。

 血抜きが終わるまでの間が休憩だ。スヴァットは陽当たりのいい暖かい岩を探し出し、すでに丸くなって寝息を立てていた。


「飛び方は忘れてなかったみたいだな」


 シェスティンも身近な岩に腰を下ろして、傍らで伏せているラヴロに話しかけながら小さい方のナイフを取り出し、塩の塊を削り始める。

 昨夜の雨で目の前の谷川は少し水量が増し、流れが速くなっていた。


『産まれたときから知っているモノを忘れるのは難しいということだな』

「夜の空中散歩もちゃんとできそうで安心したよ」

『試したのか。人が悪いな』

「お互い様だ」

『暇だったから山向こうまで行って来たぞ。相変わらず、人の気配は無かった』

「――……そうか」


 手を休めぬまま、シェスティンは硬い声で答える。


『月の無い夜では様子は見えまい。聞かぬのか?』

「聞いてどうする」

『そのためのではないのか』

「見たくないんだよ。見たくは、ないんだ」


 自嘲気味に笑う彼女の横顔を見ながら、ラヴロは静かに息を吐き出した。

 自分もいい加減、随分な時間を生きてきたが、その半分以上をこの地で過ごしている。もう、故郷と呼んでもいいのだろう。だが、彼女は人間ヒトという性質上、変わらぬ姿でひとつ処には留まれない。流れ流れて、それでも故郷と呼べるところには帰れない。帰らない。彼女の故郷はもう――


 お互い詳しい話をしたことなど無かったが、それでもなんとなく察し合っていた。言葉の端々に乗せた、正解とも不正解とも言わない会話の中で。


 しばらく黙って塩を削っていたシェスティンは、やがてウサギの解体作業へと戻っていった。皮を剥ぎ、首を切り落とし、内臓を抜き、綺麗に洗う。一連の作業も手慣れたものだ。

 二匹分は切り分けたものに塩をすり込み、干して保存用に。香辛料は買わなかったので、目についたハーブを申し訳程度一緒に揉みこんでいた。


 暗くなり始める前にラヴロの寝床近くまで戻り、適当にかまどを組んで火を熾し、煙の登る辺りに肉を干しておく。今日の分は森で見つけた野草と煮込むつもりで、以前から持ち込んである鍋をラヴロの宝の山ガラクタの中から探し出し、洗って火にかけた。


 竜はお宝を集める性質がある。特にキラキラと光るようなものが好きなようで、洞窟の一角にはラヴロが集めた宝石やガラス玉、金箔を施した指輪にネックレスなどが無造作に積まれていた。原石の物もあれば、剣の柄やベルトなどの装飾にあしらわれている物もある。竜を倒しに来た身分の高い騎士様の物だろうか。

 一度手に入れてしまうとそれほど執着はなくなるのか、ひとつふたつなら『困っているなら持っていけ』とシェスティンは言われている。今のところ彼女が金に苦労したことはないので、持ち出したことはなかったが。


「光ものが好きなのに、金貨には興味ないのか?」


 素朴な疑問として、ラヴロに問う。


『同じものをいくつも集めても面白くなかろう?』


 解るような、解らないような。集める側にもそれなりのこだわりがあるのだなと、シェスティンは肩を竦めた。

 鍋と一緒にあったはずのスプーンをようやく掘り出すと、鍋の水はもうぐつぐつと煮立っていた。肉と野草、ハーブなどを適当に放り入れ、塩で味付けをして放っておく。ガラス玉で遊んでいたスヴァットが匂いに釣られて戻ってくる頃には、辺りも暗くなり始めていた。




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