1-2 ウシガエルと黒猫

 ウシガエルの眠そうな半眼が、その瞬間だけ大きく見開いた。

 何を思ったのか、のそりのそりとシェスティンの頭に向かって手足を動かし、近付こうとする。

 ブルーグレーの瞳が光を失う前に、ふっとそれは消え失せた。

 ウシガエルはぴたりと動きを止める。


 スパーン、と小気味いい音が洞窟にこだました。

 ぱちぱちと瞬いて、ウシガエルは音の方向へ視線を向ける。

 飛び上がったシェスティンが剣の腹で竜の横っ面を張っていた。


「いい加減、その歓迎の仕方をやめろ」

『お前を判別するのに丁度いいのだ』

「一瞬とはいえ、死ぬ方の気持ちも考えろ」

『すぐに戻ってくるではないか』

「慣れてると思われるのも嫌だ」


 くつくつと竜は笑う。


『では、我の首を落とせるようになることだな』

「色々無理だっ」


 舌打ちをして、シェスティンは深く息を吐いた。


「うっかり迷い込んだ善良な人間まで、そうしてるわけではあるまいな?」


 鱗を狙ってやってくる自称腕自慢の輩は知ったことではないが、と暗に言いつつ彼女は眉を寄せる。


『あやつらは匂いが違う。出るまでもないときは出ん』

「それならよかっ…………ん? 匂いでわかってるんじゃないか!」


 竜は今度は豪快に笑った。

 洞窟も空気も細かく震え、岩の欠片がそこかしこに降り注ぐ。


『お前は死なぬ。まだもう一度くらいは相見あいまみえることが出来ると、お前が来る度、我は確かめたいのだ』


 鼻先をそっとシェスティンの頬に擦り付けると、彼女はよろけそうになる身体を支えるようにその顔に両手を添え、頬ずりし返した。


「人々に恐れられている『孤高の竜』が淋しがるな」

『それを教えたのはお前ではないか。鱗を取りに来たのだろう?』

「そうだ」


 踵を返し、炎の灯りでは届かぬ洞窟の奥へと向かう竜を追おうとして、シェスティンは右足に重さを感じた。何かと見下ろすと、ウシガエルがブーツにしがみつくようにして乗っている。

 苦笑して抱え上げ、転がっていた松明も拾い上げて竜を追った。


『そこに集めてある。好きなだけ持って――なんだそれは?』


 ぎょっとしたようにシェスティンの小脇に抱えられた物体に視線を固定して、竜は少し後退った。


「ウシガエル。見たこと無いか? 非常食にしようと思って」


 竜の反応が面白くて、シェスティンは松明を壁に固定すると、ウシガエルを両手で捧げ持つようにして竜に突き出した。


『食うつもりか! 悪いことは言わん。止めておけ。そいつには呪いがかかっとるぞ。それも複数だ』


 シェスティンはきょとんとして、まじまじとウシガエルを眺めてみた。ぶぉ、と短く鳴くウシガエルは禍々しさの欠片もない。


「呪い?」

『下手に喰ろうて呪いを貰ったら洒落にならん』

「今さら、呪いのひとつやふたつ増えたところで問題無いがなぁ」

『お前のは呪いではない』

「呪いさ。ワタシにとってはな」


 手の中でのたのたと身を捩るウシガエルをそっとその場に降ろしてやる。それからシェスティンは先程竜が示した鱗の方へ視線を向けた。

 洞窟の壁際に、無造作に鱗が転がっている。いかにも適当に放り投げましたという風で、重なり合うそれには土埃が被っていた。


「雑だなぁ。これ一枚で金貨五十枚だぞ?」

『我には必要ない。それも、金貨とやらも』


 まぁ、そうだな。と口の中で呟いて、シェスティンはさっと土埃を払いながら鱗を拾い集めた。彼女の掌三つ分はあろうかという鱗は磨いてやればまだ美しく光るだろう。


 シェスティンはこの『孤高の竜』と約定を交わしていた。何年かに一度、自然に剥がれたものでいいから鱗を融通してくれと。

 竜の鱗は加工して防具になったり、粉にして薬になったりする。手に入りにくいのでもちろん高価だが、金に目が眩んだ勇者などと名乗る輩が、穏やかに暮らしていた竜まで討伐して根こそぎ奪ってしまったので、流通は年々減っていた。

 子も残せぬのだから当然の結果だ。


 ここに来たのは二十年ぶりくらいだから、山猪の革袋にいっぱい詰めてもまだ持ちきれないだけの量が転がっている。

 全部あの城に持って行ったら国庫が空になるな、といやらしい笑みを浮かべてみたが、彼女は別に全部を渡す気は無かった。

 旅先で少しずつ換金してやり繰りするのだ。


 竜への報酬は次も必ず顔を見せることと、土産話を聴かせること。恐らく、先刻のように一戦交えること。もう気軽に外に出られる生き物ではなくなった竜への、それが慰めだった。


『もうここに住めばよいではないか』

「しばらくならいいが、そのうちバレて討伐隊が組まれるぞ。鱗の出所は秘密の方がいい。他に当てもないしな」

『我が夢物語になる日が来るとは思わなんだ』

「隠れているのに飽きたなら、国をひとつ派手に滅ぼしてみるとかしたらどうだ?」

『そうして騎士団だの勇者だのを呼び寄せるのか。面倒臭い』


 いかにも苦々しそうに鼻息を吹き出したので、シェスティンは小さく笑った。

 この竜は出会った頃から面倒臭がりだった。人が嫌いだと言いつつ、対話も対立も面倒臭がる。そのお陰で今まで無事でいられたのも事実だが。


「お前がいなくなるとワタシも淋しいよ。長い時を共有できる者はほとんどいない。竜の噂も、聞かなくなってきた」

『好戦的な目立ちたがりはヒトを甘く見て狩られただろうし、我のような面倒臭がりと臆病なヤツは、ヒトの入り込まぬ僻地に身を潜めてるに違いない。忘れられて当然よ。案ずるな。お前が来るなら、我はここにいる』

「ふふ。それは心強い」


 竜の寿命とはどのくらいだろうか。千年とも二千年とも言われているが、本当にそうだろうか。

 シェスティンは微笑んでいたが、その笑みには陰りがあった。

 きっと竜もいつかワタシを置いて逝く。そういう思いが、常に胸の奥に燻っているのだ。

 同じような思いは、竜の胸の内にも。シェスティンは普通のヒトとは違う。けれど、きっと自分は置いて逝かれるのだと。


 それがひとりと一匹を繋いだ絆だった。その思いを抱えるが故にベッタリと一緒にいることも出来ず、かといって離れていては淋しい。

 結局、数十年に一度こうして会ってはしばらく同じ時を過ごすという暗黙の了解が出来ていた。


『……いつまでいるつもりだ』

「七日くらいかな。簡単に手に入ると思われたくもないし、死んだと思われるのも癪だ。その間に新月もあるだろう? 久々にその背に乗せてくれ」

『面倒臭い』


 シェスティンは笑う。


「飛び方を忘れるぞ」

『もう、忘れた』


 土埃を払いながらせっせと鱗を集めるシェスティンには、竜の瞳が細められ、柔らかく弧を描いたのを知る術が無かったが、その声音が甘くなったことだけは、確かに知れた。


『シェス』


 珍しく名を呼ばれて、シェスティンは振り返った。竜の頭が直ぐ近くにあって、金の瞳に炎が映り込み、揺れて見える。


『シェス、我の名を憶えているか』

「もちろん」

『我はもう、飛べなくても良いのだ』


 ゆっくりと、彼女は首を振り否定を示す。


「ワタシは一緒に飛びたい」


 シェスティンは炎に揺れる金の瞳をじっと見つめる。竜の言わんとするところは、彼女も解っていた。でも、それを肯定したくはなかった。淋しくて、孤独で、壊れてしまったモノを見たことがあったとしても――


 竜はある条件を満たせば人に擬態できる。そうして人に混じり暮らす者もいるという。人との間に子は成せないが、擬態した竜同士ならそれも可能なのだと、目の前の竜は以前シェスティンに教えてくれた。

 ただし、擬態した竜の寿命は人の二倍ほどに留まり、また竜の姿に戻ったならばもう二度と人には擬態できない。そういう制約が付いてくる。


 竜の真名まなを贈られ、その話を聞いた時、シェスティンは小さな不安に駆られた。

 この竜も淋しさに蝕まれて壊れてしまうのではないかと。

 幸い、今のところ壊れてはいないと思える。これでも訪問する間隔を短くしているつもりなのだ。いよいよという時は――竜が壊れ始めたと思える時が来たら――彼のしたいようにさせようとは、心に決めていたが。


『お前はいつも刹那より悠久を選ぶのだな』


 その声に落胆の色が見えなくて、シェスティンはほっとする。


「選んではいない。それしかないだけだ」


 その瞬間だけを選べるなら、どれだけ素晴らしいだろう。けれど、シェスティンはその後に来るくらいモノを識っている。手にしたものが眩しければ眩しいほど、その淵は暗く深い。

 なるべく考えないようにしているのだ。なるべく。

 そっと視線を鱗の山に戻すと、ウシガエルが近くまで移動して来ていた。


「お前は何がしたいんだ?」


 呆れを含んだその声に反応したかのように、ちらりとシェスティンを見上げてから、ウシガエルはその鱗の山に向き直った。

 じっと見守るシェスティンの目の前で、今までの愚鈍さが嘘のようにウシガエルは舌を伸ばし、一瞬で竜の鱗をその口の中へ納めてしまった。


「腹が……減ったのか?」


 りんご半分しか食べてないものなぁ、などと考えていたシェスティンの顔に、これまた素早くウシガエルは飛びついた。鱗を拾うのにしゃがみこんでいたので、その距離はほとんどなく、油断していた彼女はウシガエルを顔で――その唇で受け止めたまま、後ろへとひっくり返る。集めた鱗を手放さなかったことは褒めてもいいかもしれない。


 ぷはっと一息ついたシェスティンの本当に目の前で、ウシガエルが白く発光し始めた。竜もただただ目を見開いてその光景を見下ろしている。


 突然、轟音と共に洞窟が揺れた。

 今度は何だと思う暇もなく、上から何かが落ちてきた。真直ぐ、ウシガエルの丁度真上に。

 ウシガエルがひらりとシェスティンから飛び降りたのと、シェスティンが反射的に横に転がったのは同時だった。程よく先の尖ったその岩はシェスティンの首を掠って地面に突き刺さって直立した。


 ――今のは……


 嫌な予感に、シェスティンはまだ発光している物体に目を向ける。

 眩しくてよく判らないが、光の中で何かがうぞうぞと形を変えていた。とっさに起き上がり、腰の物を抜き放って構える。どこかで何かがちかりと光り、続いてどおんと先程より小さい揺れが洞窟を襲った。ぱらぱらと岩の欠片が降ってくる。


『雷だな』


 竜は天井を見上げてぽつりと呟いた。すぐに急流のようなざあざあいう音が反響し始める。岩の隙間から入り込んだ雨水は、ぽたりぽたりとそこかしこで垂れ始め、水溜りを作り、あっという間に小さな川へと形を変えた。

 この辺りは竜の寝床の筈なので、水は来ないだろう。そう高をくくって、シェスティンは光の塊から目を離さなかった。


 やがて光が治まってくると、そこには闇がひとつ。

 いや。瞳がある。明るいブルーの。ひとつだけ?

 闇は、「にぁ」と一声鳴いた。

 とことこと寄ってくる姿に拍子抜けする。炎の明かりでよく見ると、もう片方は黒い瞳だった。瞳孔が見え難くてずっと開きっぱなしのように見える。オッドアイの、黒猫。


 剣を戻すと、シェスティンは足元にすり寄る黒猫を恐る恐る撫でてみた。

 何も起きない。

 じゃあ、は偶然だったのか。確かにウシガエルを狙ったように見えたのに。


「それが本当の姿かい?」

『違うな』


 答えは彼女の頭の上から降ってきた。


『まだ全部は解けてない。絡まり合って、よく分からんがな』

「もしかして、呪いを解くのを手伝えって言うのか?」


 なーん、と媚びた声がした。


『……面倒なのに懐かれたな』

「猫じゃ食べるところが少なそうだし……まぁ、どうせ時間だけはたっぷりあるんだ。しばらく付き合ってやるさ」


 そう言うとシェスティンは黒猫を抱え上げ、腕を交差させて伏せの姿勢をとっているドラゴンのその腕の内側へと入り込み、程よい角度になる体勢を探した。


「とりあえず、今日は終いだ。おやすみ『スヴァット』」




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