第1章 Now or Never.

1-1 竜の鱗とウシガエル

 思わず足を止めて、その絵本を手に取ったのは、懐かしさからだったのだろうか。

 この国は少し故郷に似ている。

 シェスティンはそのブルーグレーの瞳を少しだけ細めた。


「買うのかい」


 雑貨屋の女主人が面倒臭そうにその豊満な身体を傾けて、雑多に置かれた商品の数々の隙間からこちらに目を向けた。


「あぁ、いや、すまない。これから城まで行くんでな。帰りにまた寄らせてもらう。……この話、違うパターンもあるのを知ってるかい?」


 女主人は商品を崩さないようにと器用にこちらまで出てきて、シェスティンの手の中の絵本を見下ろした。


「『時紡ぎ』かい? そりゃ、知ってるよ。お付きの騎士に助けられるのや、その騎士を守ろうと飛び出してお姫さまが死んじゃうやつ。結末のバリエーションがこんなにあるお話も珍しいさね。みんな、好き勝手語るんだ」


 カラカラと陽気に笑って絵本を受け取った女主人は、初めてしげしげとその旅人風の若者を眺めて見た。

 亜麻色の長い髪は無造作に三つ編みにされ、片側に垂らされている。長いフード付きのローブはくたびれてはいたが、汚れは目立たなかった。それに隠されるように華奢な身体が収まっていて、背丈は女主人より高いが、多分、平均からは飛び出ない。

 小首を傾げるその仕種と、話し方のギャップに聞いていいものか一瞬だけ戸惑った。


「『女』かい?」


 シェスティンは柔らかく微笑んだ。


「そうだな。生物学的には」


 別に、どっちでも構いはしないのだが、少年とも少女ともとれる中性的な容姿にその落ち着き払った言い回しは言っちゃあなんだが、全く似合わなかった。

 辺りを見渡してみるが、連れと思しき人影は見当たらない。女性……少女? がひとりで旅をしているというなら、何か訳ありなんだろう。その話し方も身を守るひとつの方法なのだ。

 そう結論付けて女主人はひとつ頷いた。


「あんたもお宝探しなのかい? この国は『美しい国』に一番近いと言われているけれど、今のところ見つけたっていう話は聞かないね」

「へぇ。そうなんだ。残念だけど『呪われた国』に興味はない。ワタシが興味あるのは出てるはずのさ」


 確かに城の跳ね橋前に御触れは出ている。何度も貼り直され、もう一年も前から。

 でも、あれは。


「あの御触れに?」


 目を見開いた女主人ににこやかに笑って、シェスティンは頷いた。


「出てるんだな。帰りに色々買いたい。丈夫なロープとこのくらいの皮袋があれば用意しといてくれ。山猪の皮だと嬉しいが、まぁ、他でも大丈夫だ」


 これくらい、のところで彼女は自分の腹くらいの大きさを、両手でそれぞれ半円を描くように動かして示した。

 また来る。そういって城の方へ足を向けたシェスティンを女主人はぽかんと見送った。馬鹿げた御触れに馬鹿な連中が挑んで、ひとりも帰ってきていない。一攫千金を狙うには、少し危険が過ぎた。


「やれやれ。可愛い顔して……」


 いや、流れ者なんてそんなものなのかもしれない。

 詮索はするもんじゃない。商売商売、そう呟いて女主人は店の奥に皮袋を探しに入って行った。




 跳ね橋は下りていた。

 その両端に衛兵が槍斧ハルバードを携えて直立している。木製の掲示板に近寄るシェスティンをちらりと横目で見ながら、ひとりが欠伸を噛み殺した。

 長閑なこの国では警備は退屈な仕事のようだ。

 掲示板に留められた御触書は角のピンがひとつ外れていて、時折吹く風にはたはたと翻っていた。


 『

       告     


   竜の鱗を持ち帰った者、


   金貨五十枚を与える 

               』


 替えられたばかりなのか、まだ文字もしっかりとしていたが、周囲にこれを見る者はいない。


 ヴォォォー。


 不意に牛の鳴くような声がした。低く、響く。それもかなり近くから。もちろん牛などいないのは先刻承知だ。

 シェスティンが視線を下げると、そこにいたのはカエルだった。アマガエルのような可愛らしいものではない。ふてぶてしく半眼の、巨大と言ってもいいくらいのウシガエル。彼女の肘から先くらいはあろうかという大きさだ。

 どうしてこんな所に、とも思ったが、すぐそこに堀があるのだからおかしくはないのかもしれない。目が合ったように思えて、彼女はしばらくそれから目が離せなかった。


 だが、我に返ると踵を返して衛兵に近付く。

 こちらも半眼で緊張感も無くシェスティンを迎え入れた。


「あの依頼、受けたいのだが」

「は?」


 なんの冗談だ? と衛兵は鼻で笑った。それに構わずシェスティンは続ける。


「誰か他の者が先に受けているだろうか?」

「いいや。ここ最近は見る者もいない。最近はいちいち城を通さずとも現物を持って来ればそれでいいことになってる」


 ふんふんと頷いてから、はたと彼女は顔を上げた。


「同行者が欲しい時はどうするのだ?」


 城が出している触れなのだから、ある程度の援助は期待してもいいはずだった。


「申告してくれればこちらも対応する。まぁ、都合よく同行者が現れるとは限らんがな。すでに何人も帰ってない状況だ。募っても出てこない可能性はある」

「なるほど」

「手続きをして同行者を待つか?」

「いや、いらない。邪魔だからな」


 さらりと言う彼女に衛兵は少し眉を寄せた。邪魔?


「王様に伝えておいてくれ。シェスティンが竜の鱗を持ち帰る、とな」


 シェスティンはにやりと笑って衛兵に背を向けた。一歩、二歩、踏み出したその先に、いつの間に移動したのか先程の大きいウシガエルが鎮座していた。じっと彼女を見上げている。

 シェスティンは思わず衛兵を振り返った。


、この辺によくいるものか?」


 衛兵は彼女の肩越しに覗き込むようにウシガエルを見て、首を捻った。


「堀に住んでいるのだと思うが、そんなにデカいのはあまり見ないな」


 視線を戻すとウシガエルはシェスティンの汚れて擦り切れたブーツにぽす、と手をかけて、ぶおお、と鳴いた。


「……非常食として掴まえても問題無いだろうか」

「問題無いな」


 さして興味もないとばかりに、衛兵は槍斧を構え直して元のように姿勢を正した。




 シェスティンがウシガエルを小脇に抱えるようにして雑貨屋まで戻ると、女主人は目を真ん丸にして「なんだいそりゃ!」と声を上げた。

 小娘のようにキャーキャー騒いだりはしないが、好きな訳でもない。


「非常食にでもしようかと思って。袋、あったかい?」

「食べるのかい? それを?」


 肩を竦めながら、探し当てた山猪の皮袋とロープを一巻きカウンターの上に乗せる。


「ああ、ありがとう。いいものだな。カエルの肉は割とさっぱりしてる。鳥とかウサギに近いな」


 ぶぉ、とウシガエルが抗議のような声を上げた。

 シェスティンは店の中から干した果実やナッツ類にパン、水と小さなナイフをカウンターの上に積み上げる。それから金貨を一枚、ぱちんと音を立てて置くとにっこりと笑った。


「足りるかな」

「多いよ」

「じゃあ、釣りはいいから裏の井戸を貸してくれ。こいつを洗いたい」


 こっちは願ったりだが、妙な嬢ちゃんだ。そのお金で着飾ってさっさと嫁にでも行っちまえばいいのに。

 他人事ながら、女主人はそんなことを思いつつシェスティンを井戸まで案内する。ついでにブラシも貸してやると、彼女は鼻歌まじりにウシガエルを洗い始めた。

 食べられると解っているのかいないのか、大きなウシガエルはその瞳を細めて気持ちよさそうにじっとしていた。


 一通りの作業を終えると、ローブに隠れていたぺったんこの背負い袋に食料と水を、買ったばかりの山猪の皮袋にウシガエルとロープを突っ込むと、彼女はナイフを腰ベルトに挟み込みながら上機嫌に立ち上がった。


「本当に竜の鱗を採ってくるつもりかい?」


 呆れながら真っ赤に熟れた果実を彼女に放ると、彼女は片手でそれを受け止めて、胸の辺りに擦りつけ、シャリ、といい音を立てて齧りついた。


「慣れてるんだ」


 何に、とは聞かなかった。


「そうかい。あんたに幸運を」


 女主人は右手の人差し指と中指だけを立て、シェスティンに向けて右、左、真ん中と軽く切りつけるように手を振り、最後に両手を組んで額につけ、祈りの姿勢をとった。この辺りの習慣で旅立つ者に送る幸運の祈りだった。


「ありがとう。ごちそうさま」


 シェスティンは半分ほど食べた残りを山猪の皮袋に放り込んで口を締め、よいしょと肩にかける。結構な重さだ。そのままもう振り返らずに雑貨屋を後にして、彼女は森へと足を向けた。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 半日ほどで森を抜けると巨大な渓谷が見えてくる。『大陸の傷コンティネントソール』と呼ばれる、この大陸の三分の一に及ぶ大地の切れ込みだ。切り立った崖に挟まれた谷底には川が流れ、年月と共にその谷を少しずつ広げている。


 シェスティンは谷を覗き込むと目印にしている岩棚を探した。雨などで浸食が進んで崩れていなければ、竜の棲家への一番の近道だ。前回来てから随分と経ってるので少し心配だったが、それはシェスティンから右手二百メートル程の所に、それほど変わった様子もなく特徴的な二段の形を残していた。

 木に張り付くようにして生える茸のようなテラス型の岩棚は、下の段の方が大きく、上の段が例え崩れてしまってもまだ目印になってくれるだろう。


 彼女はのんびりと岩棚付近まで移動すると、崖に近い丈夫そうな木を選んでロープを引掛けた。山猪の皮袋は口紐を体に通して背中側に回し、皮手袋を嵌めると軽くロープを引いて強度を確かめる。そのままゆっくり崖の壁面に両足を付けて突っ張り、軽く息を吐いてから、後はリズミカルにとんとんと壁面を蹴りつけて降りていく。慣れたものだった。


 十メートルほどの高さを難なく降りきり、手の中の二本のロープの片方を引いて回収する。くるくると巻いて纏めると、また皮袋へと突っ込んだ。

 ぶぉ、とウシガエルが声を上げる。ちらりと覗き込むとリンゴはすっかりなくなっているようだった。口の端だけで笑って、また袋の口を締める。元のように肩に引掛けて持つと、空いた手を壁面に当てて滑らせた。


 ゆっくりと岩肌に沿って移動していくと、ある場所でふっと岩の感触が途切れ、触れていた手が岩肌にめり込む。シェスティンはその場所へ躊躇いなく体当たりするように踏み出した。

 どういう理屈なのか、ここには目くらましが施してある。魔法なのか術なのか、他の何らかの方法なのかはシェスティンには解らない。少なくとも彼女が竜に教えてもらった時にはすでにそういうものだった。


 不思議なことに入口の位置は毎回変わる。岩棚の右よりだったり左よりだったり、真ん中だったり。誰が施したにせよ、力のあるモノだったに違いない。今では魔法使いも魔女もお伽噺の中にしか存在しないと言われているけれど。


 『中』は天井の高い洞窟といった空間だった。崖に入った亀裂や、先程の目くらましをかけられた入口のような物から光が入り込み、薄ぼんやりとその輪郭を浮き上がらせている。

 しばらく黙って突っ立っていたシェスティンは、目が慣れてくると、壁際の出っ張った岩々を器用に渡って下へ下へと降りていった。時々足元の岩が小さく崩れて落下していくのも気にも留めず、薄闇の中をただ黙々と。


 最下層まで辿り着く頃には陽は随分傾いてしまったようで、手元も足元も薄らとしか見えなかった。袖で額をぐいと拭い、肩と背中の荷物をその場に放り投げる。すぐ横にぽっかりと口を開けている横穴に掲げられているはずの松明を手探りで探し、腰ベルトに下げている小物入れから燐寸マッチを取り出して、火をつけた。ぼっと上がった炎は少し眩しくて目を細める。

 壁面に何ヶ所かあるはずの松明の位置を思い出しながら、シェスティンは火を点けて回る。その周辺だけ明るくなると満足したように頷いて、最初の一本を戻すべく踵を返した。


 その瞬間、首筋を生暖かい風が撫でた。

 反射的にしゃがみこむと、頭の上を何かが通り過ぎ、下げ損ねた松明に当たってそれを床に取り落とす。

 体勢を低くしたまま腰の剣に手をかけ、振り向きざまに薙ぎ払った。


 空を切っただけの剣を引き戻して正眼に構えると、その向こうに巨大な生き物が見えた。

 ゆっくりと首を下げて、松明の明かりが届く範囲にその頭部が入り込んでくる。金の瞳に縦長の瞳孔がさらに細く縮んだ。ゆらゆらと揺らめく光を反射する鱗は青黒く、角度によって時折虹色に見える。

 睨み合っていた時間はほんの短い間だった。

 ガチ、と何かが噛み合う音の後にひゅっと風切り音が続く。


 緩んだ口紐から明かりが見えたのか、山猪の布袋からウシガエルがのっそりと顔を出した。

 ゴッと鈍い音と共にウシガエルの前に何かが転がってくる。

 動きを止めたそれとウシガエルはまともに目を合わせた。亜麻色の髪にブルーグレーの瞳を持つ、シェスティンの頭部。口の端から細く赤い液体が糸を引いて、地面にぽたりと落ちるのを、ウシガエルは黙ってその眼に映していた。




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