第6話
彼は戸惑っていた。苦しかった。実に痛かった。腹が減ってたまらないのに目の前のモノは邪魔をする。早くなにか食べたいのに目の前のモノが邪魔をする。腹が減って減ってたまらないのにどんどん痛くなっていく。苦痛はもはや耐え難いものになり、どうやら彼の終わりが近づいていることに彼は気づきつつあった。
ダメだまだ終われない。こんなところで終われない。彼は思う。まだ、まだだ。自分にはやらなくてはならないことがあるのだ、と彼は思った。もう忘れていたなにかを。腹が減りすぎて忘れていたなにかを彼は思い出した。
ああ、そうだ。彼女に言わなくては、と彼は思った。
「うあぁあああぁああぁあああああああ!」
怪物は叫んだ。それは今までの人ならざる叫び声ではなく、壮年の男性のような声だった。巨大な球体から人の声がするのでパトリックは戦慄した。叫び声とともに怪物の攻撃が止んだ。イライザは様子を見るために一旦距離を置いた。パトリックから少し離れた煉瓦の地面に降り立つ。
「どうしたんですか一体」
「ふむ。どうやらもうやつは瀕死らしい」
怪物はそれから腕を目一杯繰り出した。そして、その腕は怪物自体を包み込んだ。パトリックにはまるで自分を抱き抱えているように見えた。
「エリザ...」
そうして怪物はぽつりと漏らした。
「エリザ、会わなくては。言いたいことがあるのに...」
怪物は続けた。
「エリザ、君に会わなくては...」
そうして怪物は動きを止めた。
「どうしたっていうんですかあいつは。人間の声ですよ。エリザって誰なんですか」
「言っただろう。ゴーストは人間の残留思念から生まれると。やつは何者かが死に際に思った強い思念を核にして存在している。だから、やつは今その意思を思い出したんだ。通常は飢餓感によって思い出せないが消滅を前にするとそれが表に現れる。これもゴーストの特徴だ」
そう言うとイライザは剣を片手に歩き出した。そして怪物の前まで行った。
「お前の名前はアルフレッドだな」
そしてイライザは言った。怪物は身を震わせた。
「ジム・コールマンの工場から通りに向かって5件目の店で鍛冶屋をやっていたアルフレッド・マルダーだろう。そして、婦人の名前がエリザだ」
「なぜ知っている」
怪物は言った。
「仕事柄としか言えないな。エリザ婦人は店を畳んだよ。残った貯金で息子のところへ越すつもりらしい」
「そうだ、エリザはそうするべきだ。だが、俺は会わなくてはならない。エリザに会わなくてはならないんだ。言うべきことがあるからだ」
「会うことはできんさ。お前さんが婦人に会ったら婦人を殺してしまう」
「会わなくてはならないんだ! 会わなくてはならないんだ! そして、伝えなくてはならないんだ!」
「なにを伝えなくてはならんのだ」
イライザが問うと怪物はしばし押し黙った。怪物はまるで怪物のような姿をしているのに言っている言葉はまるで人間だった。パトリックは戸惑った。目の前のモノは化け物でしかないと思っていたのにパトリックは良く分からなくなった。
やがて怪物は、アルフレッドは言った。
「俺はエリザと喧嘩をした。今までで一番大きな喧嘩だった。ずいぶんひどいことを言った。そして、俺はそのまま家を出た。エリザは泣いていた。そして酒を飲んだのだ。そして、それから......ぐあああぁあああぁあああぁあ!」
怪物はまた叫びだした。
「なにが...」
「ゴーストになった思念は自分が死んだという事実を受け入れていない。だから、思考がその事実に近づくと錯乱するんだ」
イライザはまた一歩進み出た。
「アルフレッド。もはや年貢の納め時だ。お前はな、もう死んでいるんだ。酒場から出た後、馬車に轢かれて死んだんだよ」
「うああぁあああぁあああぁああ! ダメだ! 伝えなくてはならないんだ!」
「なにをだ」
イライザが言うと怪物はまたピタリと叫ぶのを止めた。
「すまなかった、と。そして、愛していると」
「そうか、確かに承った」
そして、イライザは再び剣を構えた。
「これで終わりだ。すまないな」
イライザは怪物に斬りかかった。刀身がとてつもなく伸びる。
「うあぁあああああぁああ!」
怪物は叫びながら腕を一斉にイライザに向けて放った。超速で迫る無数の槍のようだった。イライザはしかし、そのことごとくをかわし、怪物の下まで潜り込んだ。そして、そのまま怪物を両断した。
「ああぁああぁ…」
怪物は呻く。その球状の体が真ん中から真っ二つにずれた。そして、今度は再生しなかった。二つに分かれた体は地面に落下し、触れた端から霧になって消えていった。
「エリザ...」
怪物は最後に呟いた。そして広場から怪物は消滅した。
イライザは剣をひとつ振るう。次の瞬間には剣は消えていた。
「終わったんですか」
「ああ、これで今日の仕事は終わりだ」
と、怪物が消えたあたりから今度は白い霧が立ち上った。それはウロウロとなにかを探すようにさ迷った。
「急いでこっちにくるんだ。君の体が君を探している」
「あ。は、はい!」
パトリックは霧に向かって走った。パトリックが近づいてくると霧はなにかを見つけたように動き、パトリックの体に吸い込まれていった。途端にパトリックはなにかが自分を覆うのを感じた。
「も、戻った」
パトリックは自分の体を見てみる。しかし、変化は見られない。当たり前だ。ゴーストの時から自分で見た自分の見た目に変化はなかったのだから。パトリックは砕けた煉瓦の破片に触れてみた。ちゃんとつまんで持ち上げることができた。
「も、戻ったんですよね」
「ああ、これで君は人間に戻った」
「よ、良かった」
パトリックはようやく安堵した。思えば夕方からここまで怒濤の時間だった。ほんの数時間しか経過していないとは思えない。そして、一気に疲れがパトリックに押し寄せてきた。うっかり尻もちをつく。
「大丈夫か?」
「つ、疲れました」
パトリックはイライザに苦笑いをした。そして、広場の怪物が消えたあたりに目を向けた。
「僕が言うのもなんなんですがこれで良かったんですか。あの怪物は」
「やつはアルフレッド・マルダーじゃない。その意思を元に生まれた怪物だ。別の存在なんだよ。そして人間に害を成す。だから、倒すしかないんだ。それにこれも決まりでね。ゴーストの意思を叶えてはならないんだ。過去、情け深い『騎士』が願いを聞き届けることはあった。しかし、ろくな結果になったことは稀だ。ないことはないさ。しかし、おおむねにおいて悪いことしか起きない。だから、私たちは連中の話を聞いても流されず、殺さなくてはならない」
「そうですか。そうですよね...」
パトリックは自分の体を奪った怪物を憎んでいたが、いざ体を取り戻すと同情心も湧いてきていた。死んだ人間の最後の願いだ。なにかの形で叶えたいと思ってしまうのも人間の情だった。しかし、イライザの言う理屈がやはり正しいのだろうと思われた。あれはやはり怪物だ。死んだ当人とは別のナニカなのだ。
「やれやれ、仕方のない人間だな君は」
「そ、そうでしょうか」
「そうだとも。さて、なら君はもう大丈夫だな。あとのことは教会に行けば始末を付けてくれる。この先どうやって生きていけばいいのかも聞けるだろう。私は街を回ってくるよ。朝まではまだ少し時間がある」
「あ、そうですか」
と、パトリックはどうやらイライザに同行するのもどうやらこれで終わりらしいと気づいた。
「あ、あの。ありがとうございました。本当に助かりました」
「いや、これについては私の蒔いた種でもある。感謝する必要はない。むしろこちらが謝らなくてはならないくらいだ。すまなかった。君を普通ではなくしてしまった」
イライザは頭を下げた。確かにそうだった。パトリックはもう普通ではない。こうしてゴーストのイライザが見えるし、その気になればまたパトリック自身もゴーストになれるのだろう。周りの他の人とは別の作りの人間になってしまった。しかし、とパトリックは思う。ゴーストに襲われた時の恐怖を思い出す。そして、きっとこれはましなのだと思った。死ななくて良かったと思った。
「大丈夫ですよイライザさん。普通の生活が奪われたわけじゃないんだ。ただ、ちょっと変わった作りになっただけです」
「そうか。パトリック、君はやはり良いやつだな」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
そうしてイライザは踵を返した。
「ではな、パトリック。もしまた、ゴーストのことで問題が起きたらいつでも私のところに来ると良い」
「分かりました。頼りにします」
「うん。では、さらばだ」
そう言ってイライザは屋根の上に飛んで行ってしまった。あとにはパトリックだけが残された。パトリックは今日あったことをぐるりと頭の中で思い返し、メチャクチャだったと思った。これからどうなるのかとも思ったが、生き残れたのだからなんとかなるか、と思った。
「はぁ、帰るか」
そうしてパトリックはようやく家路についた。そして明日の仕事はきつそうだ、と思った。
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