第3話

ペタリペタリとそれは歩いていた。空腹を満たすためにペタリペタリと。それは自分が何者かなど分かっていない。どこからやってきたのかも分かっていない。そしてそういったことに頭を巡らすことはない。ただ、ペタリペタリと歩くだけだ。ずいぶんと腹が減っているというだけだ。



(なにがなにやら)

 パトリックは天井を見上げながら思った。パトリックは今寝室で寝ていた。女がベッドを貸すから寝ろと言うので仕方なくこうしているのだ。そういう状態になってもうしばらく時間が経った。当たり前だがパトリックは全然眠気がやってこない。何が何やら分からない状態で人のベッドで寝ているのだ。この状態で寝れるほどパトリックの神経は強靭ではなかった。目をつむってはみるのだが眠りに落ちることはない。何回かそれを繰り返し、今こうして天井を見上げているのだった。

「うーん」

 パトリックはもう何度目かの寝返りを打った。普段なら自分の家でとっくに寝ている頃合いだ。本当なら今家に帰っているはずなのだ。女に言われたのでこうしているパトリックだったが、帰った方が良かったような気がした。女は悪意から言っているわけでもなかったし、実際寝るまで何かされたというわけでもなかった。女はパンとベーコンと卵で夕食まで作ってくれたのだ。さりとて頭がおかしいという感じでもなかった。狂気は感じられなかった。聞いても答えてはもらえなかったがなにか理由があるのだ。あの訪問者が原因と思われた。しかし、あれが何者なのかは分からない。

「うーん...」

 そんな風なことを考えるとますます寝られないパトリックだった。仕方なくパトリックはベッドから起きた。水でも飲もうと思ったのだ。女が起きているかは分からなかったがこのままではラチが開かない。なにせ明日も仕事なのだ。このまま寝不足で働いたらなにが起きるか分かったものではない。

 パトリックは寝室から出て居間に行った。家の中は暗かった。居間には女が居るはずだった。パトリックに寝室を貸した女は居間で寝ると言っていたのだ。起きていたら一声かける。寝ていたらどうしたものか、とパトリックは思った。そして、水一杯くらいなら明日の朝に一言言えば良いかと思った。

「あれ」

 パトリックが居間に来ると、しかし女は居なかった。女が寝ていたであろう毛布は部屋のすみに畳まれている。しかし、家のどこにも明かりはないし部屋といえばパトリックの居た寝室とこの居間とキッチンと、それから物置らしき部屋だけだった。

 いぶかしく思いながらもパトリックはキッチンに行く。瓶に水が貯まっている。横にはコップがひとつだ。予想通りだったがキッチンにも女の姿はなかった。女はどうもこの家に居ないらしかった。パトリックはなお妙に思いながらもコップを取り水を汲んで飲んだ。冷たい水が喉を流れ、少し落ち着いた。

 そこでハタとパトリックは女の仕事と関係があるのかもしれないと思った。それとなく夕方起きるようなことも言っていた。ということは女は今仕事に行っているのかもしれない。なら、あまり気にすることもないとパトリックは思うことにした。そうして居間までパトリックは戻る。これといってなにが起きているわけでもない。ただ月光が窓から差し込んでいるだけだ。

―ゴトリ

 と、パトリックはなにか音がした気がした。しかし、さして気にはしなかった。ほんのわずかな音だったからだ。

 それから寝室に戻ろうと思ったパトリックだったが、少し夜風でも浴びようかと思った。外の空気を吸えばまた少し気が落ち着くと思ったのだ。女は出るな、と言っていたが別になにが起きるような気もしなかった。

―ゴトン

 また音がしたがパトリックは気づかなかった。そのまま居間を横切りドアノブに手をかけた。そして開いた。

「うむ?」

 夜風が吹き抜けパトリックの髪を揺らした。しかし、同時になにか、パトリックは気分が少し悪くなった。不思議だった。気分の良い夜風が吹き込んで、空は日中とは違って晴れている。星も瞬いて月も照っている。良い夜だった。でも、なんだかパトリックは気分が悪かったのだ。

―ゴトン

また音がした。今度はパトリックにもはっきりと聞き取れた。重い音だが、なにかが落下した音ではない。パトリックが聞いたことのない音だった。

(な、なんだ)

 パトリックはなにか怖くなり家の中に戻ることにした。戻ることにしたのだが。

「え」

 パトリックは足を止めた。動かなくなった。パトリックの体をなにかが掴んでいた。パトリックが見るとそれは巨大な腕だった。黒く、月光を受けて光っている。その腕は大きな怪物に繋がっていた。身長は3mはあるだろうか。その怪物も全身真っ黒で人型だった。顔に当たる部分には何も無くのっぺら棒だ。顔のない黒い巨人だった。

「なんなんだ...うわ!」

 パトリックが言ったのと同時だった。怪物はパトリックをすごい力で引き寄せた。と、

「動くな!」

 聞き覚えのある声が響いた。と、同時にパトリックの前になにかが飛び込んできた。それは一息でパトリックを掴む怪物の腕を両断した。パトリックは地面に落下する。

「大丈夫か!」

「はい、なんとか」

 パトリックの危機を救ったのは女だった。女は手に剣を持っている。服装は最後に見たときのままだ。

「一体全体なにがどうなってんですか。なんですかこれは」

 パトリックは目の前にそびえる黒い巨人を指差す怪物は落とされた腕の切断面を押さえて呻いていた。獣と人間の中間のような声だった。

「なぜ出てきた。家から出るなと言ったはずだ」

「いや、すいません夜風を浴びようと思って」

 と、怪物が咆哮した。低い叫び声だ。パトリックは一体どうしたものか分からない。

「とにかく家に戻れ!」

「は、はぃい!」

 とにもかくにも確かなことはパトリックは今恐ろしくてたまらないということだった。一目散にパトリックは家に転げ込む。しかし、その足に怪物が手を伸ばした。

「くっ!」

 それをまた女が斬りつけた。怪物は叫び声を上げて後ずさる。

「お前の相手は私だ!」

 女はそのまま怪物に斬りかかる。胴薙ぎに剣を振るった。怪物はまた叫び声を上げた。そして、突如として溶けた。

「ちっ!」

 舌打ちを打つ女。そして懐からなにか瓶を取り出した。それを構えるが、しかし怪物は溶けて水溜まりのようになった状態のままドロドロと移動し、やがて消えてしまった。

「逃がしたか」

 女は剣を鞘に納めた。そしてパトリックの方に振り向く。

「何事ですか。なんですかあの怪物は」

「あれに襲われないように家の中に入っててもらおうと思ったんだがな。言いつけは守らないとダメだぞ君」

「いや、なんにも話してくれなかったじゃないですか。こっちはなにが何やらなんですよ。自分の家じゃないし」

「いや、まぁ。話せない理由があったんだがね。しかし、なんの説明もなしに信用しろなんていうのもやはり無理があったか。それより、君これを飲みなさい」

 女は懐から白い玉、丸薬らしきものを取り出した。

「なんですかそれは」

「これを飲まないと君は元に戻れなくなる」

「元にってなんですかそれは」

「足を見てみなさい」

「え?」

 パトリックが自分の足を見ると、それはまるで白い靄のようになっていた。足の形はしているのだが煙のような実体のないものになっている。

「な、なんですかこれは!?」

「詳しい話は入ってからしよう。とにかくこれを飲みなさい」

 女はパトリックの前に丸薬を差し出す。パトリックは訳が分からなかったが女がなるべく優しい口調で話しかけているのは分かった。恐らく混乱を沈めるためなのだろう。パトリックは目の前の薬がいまいち信用ならなかったが一かバチか口に放り込んだ。そのまま飲み込む。これといって味はなかった。そしてパトリックは恐る恐るさっきの足を見た。すると足はちゃんといつものパトリックの足に戻っていた。

「良かった元に戻った」

「いや、残念ながらまだ戻っていない」

「え?」

「君は今生身の人間ではないんだよ」

 そう言って女は手近な石を掴むとパトリックの体に投げつけた。

「なにするん...」

 パトリックはとっさに手を前に出しそれから防御する。その手に石が当たる、はずだった。

「え?」

 しかし、石はパトリックの真後ろに飛んでいき家の床に落下した。女が目測を誤ってパトリックの頭の上に投げたのか。しかし、残念ながらそうではないことはパトリックがはっきりその目で見ていた。石はパトリックの手をすり抜け、体をすり抜け、そしてパトリックの後ろに落下したのだ。

「え? え?」

 パトリックは先程までに増して混乱した。

「家に入りなさい。全部説明しよう」

 女はパトリックの横を通りすぎ家に入っていった。パトリックは訳が分からなかったがそれに従う。そして、この家に来てから訳が分からないことばっかりだ、などと現実逃避ぎみに思った。

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