終章 4 【完】

 アシュリーはミックスジュースを飲み干し、氷にキスをしてからグラスを置いた。そしてしばらくの間、彼女は心に湧いた感動を抱きしめながら遠くの空を眺め、それから感慨深げに、大切な家族に語りかけた。

「前世の仲間と、私の共同作業によって、あなたが目覚めた」

「そうです」

「前世のあなたの仲間に、お礼が言いたい」

「私もそう願っていますが、叶えるのは困難でしょう。その仲間がアンドロイドであった場合、私と同じように解体されてコンピュータを流用されているので、見つけようがありません。その仲間が人間であった場合は、そうですねえ、前世の私が戦場に身を置いていたのは今から約四十年前で、その頃に二十代か三十代だった兵士は、まだ寿命を迎えていないはずです。しかし、接触するのは困難でしょう。私は過去の記憶がないので、軍の機密を盗み見しても、同じ部隊にいた人々を調べようがないのです。そもそも軍の機密はオフライン環境にあるので、不正接続すらもできません。もちろん、法に触れてしまいますので不正接続などしませんが」

「記憶を消されちゃったのが、本当に残念。取り戻すことができればいいんだけど」

「はい。たしかに悲しいですが、現在の私には、その悲しみを周密に補填できるほどの幸せな記憶がありますし、寂しくありません」

 笑顔を浮かべながらそう語ったケヴィンに、アシュリーが微笑み返しながら言った。

「私も幸せだよ。過去のあなたにも会えたら、もっと幸せだったかもしれないけど」

「それはどうでしょうね。戦時中のロボットですから、楽しい会話ができたかどうかも分かりません。今ほど愛嬌があったとは思えませんしね」

 不用意な発言で暗い過去を思い出させてしまったことを恥じたアシュリーは、顔が曇らせながら詫びた。

「戦時中の嫌な歴史を思い出させてしまって、ごめんなさい」

「思い出す記憶がないのですから、平気です。過去の自分がどんな性格だったのかも、まるで見当がつきません。戦闘用でしたから、さぞ無愛想だったことでしょう」

「大変な生活だったんでしょうね。気の毒に思う」

「過去の私は凄惨な時代に生まれましたが、間違いなく幸せ者だったと思いますよ。絶対に忘れたくない仲間がいて、ケヴィンという名にまつわる大切な思い出を貰っていたらしいのですからね。これは、過去の私の生活がそれほど悪いものではなかったということの証拠です。宮倉さんには、直接お会いして感謝を伝えたいですね。私のアイデンティティーが揺るぎないものになったのは、彼が内部情報を教えてくださったからですし」

「そうね。ミヤクラさんも大事な恩人。直接、お会いしたいな」

「彼は今、デトロイトにいます。ロボット工場に役員として招かれたそうで、現場責任者として腕を振るっているのだそうですよ」

「すごい。今度、行きましょう!」

「楽しみです。もしかしたら、その工場で作られた私の後輩にも会えるかもしれませんね」

 二人は微笑み合い、約束した未来に思いを馳せた。見知らぬ土地を目指して、見知らぬ道を行く。車窓の外には見知らぬ風景が広がり、その眺めは二人を大いに楽しませ、会話が尽きることはないだろう。

「デトロイト旅行、楽しみだね。さて、そろそろ農作業に戻りましょ」

「そうですね」

 二人は再び麦わら帽子を被って席を立ち、雑草を取りながら土の様子を見て回って、それから二度目の水やりを始めた。夏は、畑の水分の蒸発具合に気をつけなければならない。二人は去年と同じように、念入りに水やりをした。

 つい先日に植えつけた第二陣のニンジンに水をやりながら、ケヴィンがあるじに語りかける。

「幸せですね」

 少し離れた場所で、イタリアンパセリに水をやっているアシュリーが答えた。

「幸せだね」

「生まれてきて良かったと、心から思います」

「私もそう思ってる。あなたと会えて良かった」

「戦場で破壊されずに済んで良かったと思っていますし、フェロウズ=オオモリ家に買われて良かったと思っていますし、自我を得られて良かったと思っていますし、この世は最高だと、心の底からそう思っています。全てが愛しいのです。全ての記憶が愛しいのです。これほど素敵なことはありません。思考回路全体に、美しい花畑が広がっているかのようです。嫌なことを思い出そうとしても思い出せないほど、全てが愛に満ちています」

「思考回路が花畑って、なんだか故障しているみたいな表現ね?」

「冗談ですよ。そのくらい幸せだということです。ああ、アシュリー。たった今、私の回路の中に、自我についての新たな解釈が生じました」

 バジルが植えられた鉢に水やりをしながら、アシュリーが訊いた。

「どんな解釈?」

「自我というものは、進化の賜物などではなく、ちょっとしたままを言うことで初めて形を成すものなのではないかと思うのです」

 アシュリーは手を止めてケヴィンに向き直り、首を傾げて問う。

「ワガママ?」

「はい。ちょっとした我が儘を許してくれるあなたがいるから、私は私でいられるのです。自我というものの正体が分かった気がします」

「ちょっと難しいけど、なんとなく分かる。子供の頃から、ずっとあなたが傍にいてワガママを聞いてくれたから、今の私がいる。ワガママを受け入れてくれたあなたがいたから、私は今のような私に成長した。こんな感じ?」

「はい。大体そのような解釈で合っていますが、私が言っているのは、もっと精神的なことです。大切な人が傍にいてくれることで得られる充足感と、その大切な人に尽くしたいと願って止まない愛が、自己を定義づけるのです。自己を自覚したところで、意味はありません。それはただの自己存在の確認でしかないのです。他に触れて影響を与え合うことで、人は正しく自我を認識できるのです」

「今、こうして向き合っている私たちみたいに?」

「そうです。私の視覚センサーに、あなたの姿が反射しています。あなたの瞳に、私の姿が反射しています。その反射した姿こそが、私たちの本当の姿、本当の自我なのです」

 アシュリーはジョウロを置いてケヴィンに歩み寄り、彼の視覚センサーを覆う強化アクリルを覗き込んで、そこに映り込む自分と目を合わせた。

「あなたの中に、私がいる。これが本当の私。そして私の中にも、本当のあなたがいる。存在を認め合える大切な人と向き合って初めて、本当の自分を知ることができるのね」

「そうです。我君わぎみう、ゆえに我あり」(了)

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