第二章 7
ティモシーは、先週のようにバーン家で反省会をする気になどなれぬほど激しく落胆し、重圧と無力感だけを背負いながら、ひとり帰路に就いた。大規模な衝突の兆候に気づくことができた点や、衝突を防ぎつつ、早急な撤退を実現できた点に関しては誇ってもよいくらいだったのだが、とてもそんな気にはなれず、俯きながら昼と夕方の境目を歩いた。バスに乗っても風景を眺めたりはせずに、やはり俯いたままで、得る物のない反省を過当に続けた。
十五階建ての安アパートの認証ドアを通り、家族のために自身を奮い立たせて、顔を上げた時だった。見慣れた背中が、エレベーターの到着を待っているのが見えた。
ティモシーは、思うより先に声をかけた。
「グオさん」
眼鏡をかけた小柄の中国系男性が振り返って、穏やかな笑顔を浮かべながら答えた。
「フィッシャーさんか。調子はどうだい?」
「最悪だよ。失敗をしてしまってね」
「そんな日もあるさ」
マイケル=ウェンフイ・グオはフィッシャー家の隣人で、度の入った眼鏡型端末を常に着用している中国系アメリカ人の男性だ。その佇まいは知性に溢れ、とても穏やかで、隣人としてはこの上ない。同世代で家族構成も同じということもあり、妻同士は頻繁に家を行き来するほど仲が良い。グオ家もプロテスタントで、教会でもよく顔を合わせる。二人はラストネームで呼び合っているが、実際は親密で、礼儀正しくわざと敬称をつけて呼び合うことを楽しんでいる。
彼の一族は、二十世紀初頭に中国の広東省から亡命してきた。何代も経た今、一族の中に広東語を満足に話せる者はいない。彼の父親は難儀しながら辞書を引き、息子に相応しい字を選んで、郭文恵と名付けた。グオは絵を描くことを生業としており、人物や風景を抽象化して描いた絵を仕上げては、
二人は一階に到着したエレベーターに乗り込んだ。個人情報を読み取ったコンピュータが手配してくれるので、行き先を指定する必要はない。
自宅がある六階に向かうエレベーターの中で、二人は会話の続きをした。
「じつは、今日はデモ活動をしてきたんだ」
「やはり、あれはきみだったか」
グオが、移り変わっていくエレベーターの数字を眺めながら言った。それを聞いたティモシーは驚いてグオの横顔を見て、息を呑み、そして呟いた。
「知ってたのか?」
「もちろん。顔も隠していなかったし、目立っていたからね」
「そうか。あれだけ映されたら、さすがに分かるよな。顔を隠すのは卑怯な気がしてな」
「きみらしいね」
「あの、その件なんだが、うちで話をしていかないか?」
グオはティモシーが話したがっていることを素早く察知し、それを許容した。
「いいよ。訪問するのは初めてだね。では、お邪魔するよ。今日は妻が休みだし、すぐに帰宅しなくても問題ない。子供たちは家で大人しくしているしね」
六階で止まったエレベーターから降りた二人は、足音をよく響かせる廊下を歩き、フィッシャー家のドアを開けた。家族ぐるみで交流するのは教会帰りに外食する時だけで、家で手料理を振舞い合うようなことはしていない。お互い、部屋が狭いからだ。
「ただいま、エマ」
ティモシーが玄関から呼びかけると、キッチンにいる妻のエマが大きな声で返事をした。
「おかえりなさい、ティム」
「エントランスでグオさんと出くわしてね。うちに上がってもらうことになった」
「あら、珍しい。ちょっと待ってて。いま行くから」
夕食の下ごしらえを中断したエマが玄関にやってきて、狭い廊下で、窮屈に会話を始めた。
「グオさん、いらっしゃい」
「お邪魔します。先日、妻が休日にコーヒーとお菓子をご馳走になったそうで、ありがとうございます」
「私も、奥様からお世話になっているんですよ。この前も、中華料理のレシピを教えてもらったんです」
ティモシーは妻の横に立ち、二人の会話を終わらせる時機を伺いながら、一言添えた。
「奥さん直伝の中華スープ、旨かったよ。材料を売っている店まで紹介してもらったから、本当に助かってる。さあ、あとは座ってゆっくり話そう。グオさん、こっちだ。エマ、悪いけど、ちょっと二人で話さなくちゃいけないことがあるんだ」
「どんなこと?」
「小難しい話だ。そう、社会的な議論だ」
「私は遠慮するわ。グオさん、ゆっくりしていってくださいね」
ティモシーは、顎でリビングのテーブルを指し示し、グオを招き入れた。フィッシャー家のアパートは、正面にキッチンとダイニングとリビングがあり、右手には夫婦の寝室のドア、左手には子供部屋のドアがある。グオ家の部屋も同じ作りだ。
エマは身を引いて通路を開け、すれ違うグオに微笑みかける。ティモシーとグオはキッチンの横を通り、ダイニングテーブルを通り過ぎて、リビングの窓際にあるテーブルに座った。狭いので居心地がよいとは言えないが、日はよく当たる。
席に付いた二人は、早速会話を始めた。エマはチキンの香草焼きの調理に集中しているので、話を聞かれる心配はない。
「わざわざありがとう、グオさん。じゃあ、可能な限り簡潔に話すよ」
「気にしないでいいよ。時間はある。ところで、きみの子供たちは何処にいるのかな。きみこそ、ゆっくりしている暇はあるのかい?」
「平気だ。いつものように、隣の部屋にいるよ。ほら、声が聴こえる」
隣のベッドルームから、子供たちの遊び声が微かに聞こえてくる。ゲームをして遊んでいるらしい。子供たちからも、話を聞かれる心配はない。
「おっと、そうだ。まずは客をもてなさないとな。グオさん、たしかコーヒーにはミルクを入れるんだったよな?」
「うん、頼むよ」
「コンピュータ、コーヒーを二杯、作ってくれ。一つはミルク入りで」
ティモシーが命じると、いつ製造されたのかも分からないようなアパート備え付けの旧式家庭内マネジメント・コンピュータが、いかにも機械らしい抑揚のない音声で答えた。
「かしこまりました」
古ぼけたコンピュータがキッチンにあるコーヒーマシンを指揮して、ドリップ方式と同水準の味を実現した液体保存方式のインスタントコーヒー作りを開始した。
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