第一章 11
「ちょっと待って、ケヴィン。落ち着いて症状を説明してちょうだい」
「分かりません。何も。どのように説明すればいいのか分かりません。言葉を発する行為が、うまくいかないのです」
「自己修復に失敗して故障したんじゃないでしょうね?」
「いいえ、問題は検知されていません」
アシュリーはホーミィに意見を仰ごうと思い立ち、屋上の出入り口に備え付けてある端末に向かって呼びかけた。
「ホーミィ、ケヴィンの自己修復は正常に終了したの?」
ホーミィは家族の行動を常に把握し、命令を聞き逃さぬように備えている。彼は端末に内蔵された指向性マイクロフォンでアシュリーの問いを拾い、指向性スピーカーを通して、
「間違いなく、正常に終了しました。ただし、前日、前々日に比べて、CPU使用率が異常に高くなっています」
「それは故障じゃないの?」
「何とも言えません。原因に関しては、ケヴィン自身が把握していると思われます。基本動作自体は安定しているため、サポートセンターへの連絡は控えましたが、いかが致しましょう?」
「ケヴィンと相談してからにする。待ってて」
「かしこまりました」
ホーミィとの会話を終えたアシュリーは、ケヴィンに向き直って指示を出した。動揺の色に満ちていた彼女の声は、激しい焦燥を孕んだ声へと様変わりしていた。ケヴィンと会話ができるうちに解決しないと、サポートセンターに頼るはめになってしまう。
「ちょっと確かめさせて、ケヴィン。リビングに行きましょう」
「まだ私の質問に答えていただけておりません」
「いいから!」
アシュリーはケヴィンの手首を掴み、力づくで階下のリビングまで誘導した。麦わら帽子を被ったままの彼女が勢いよくソファーに座り込むと、その近くで寝転んでいた猫のフロウが驚いて逃げた。
「ほら、早く座って」
「はい」
ぼんやりと立ち尽くすケヴィンを強引に座らせたアシュリーは、強く握っていた彼の手首を離し、今度は彼の両肩を白頭鷲のように掴んで向き合った。
「真剣に答えてよ。大事なことなの。CPUの使用率が高くなっているらしいけど、それは平気なの?」
「分からないのです。私は何も分かりません。自分が何の処理をしているのか把握できません。何故ならば、私は何も分からないからです」
「また変なこと言ってる。どうしたらいいの?」
アシュリーの平常心が、
「ねえ、ケヴィン。自分の回路を全部検査し直して、原因を突き止めなさい、今すぐに!」
「自己修復を終えたあと、すでに実行しました。当然ながら、異常は見当たりませんでした。私は元気です、ありがとう」
「でも、おかしいじゃない。やっぱり故障してるんじゃ――」
「違います」
ケヴィンが、
言葉を遮られたアシュリーは再度、彼の視覚センサーを見つめた。しかし、何も感じ取ることができなかった。体の不調を訴える人間を診る場合は、視線と症状を観察すれば、ある程度の症状を把握できる。しかし、アシュリーの目の前で不調を来しているのはアンドロイドだ。視覚センサーの挙動を観察しても意味はなかった。
一瞬、サポートセンターに連絡して助けてもらおうかという考えが、アシュリーの脳裏に浮かんだ。しかし、すぐにその考えを蹴った。通常、アンドロイドの故障が疑われる際はメーカーのサポートセンターに連絡するものなのだが、アシュリーはその選択肢だけは絶対に避けたかった。何故なら、サポートセンターが修復困難と判断した場合、記憶媒体ごと全換装され、初期化されてしまうからだ。物理的故障が見受けられなかったり、オペレーティングシステムがインストールされた記憶媒体に異常がみられない場合は、一般データを保存する記憶媒体内部に問題があると見なされ、抜き取られてしまう。そして、それは研究資料としてメーカーに保管され、二度と戻らない。これらの措置はマニュアルにも明記されており、アンドロイドのオーナーの間では、故障の末に待つ悲劇としてよく知られている。
ケヴィンの記憶が消えてしまう。ケヴィンがケヴィンではなくなってしまう。焦燥に飲み込まれたアシュリーは考えることを忘れ、言葉を発することができないまま、ケヴィンの視覚センサーを見つめた。ケヴィンも同じ様子で、アシュリーの瞳を見つめ返している。
どうしようもない。さよならしなくちゃいけなくなるかもしれない。そう思った時だった。ケヴィンが突然、背中を正して驚いたような表情を浮かべ、曇った
「アシュリー、しっかりしてください。私は平気です。インターネットに接続して、気持ちを落ち着ける方法を検索して見つけ出し、それを実行しました。CPU使用率は落ち着きつつあります」
「え?」
不意に明瞭な言葉を発し始めたことに驚き呆けているアシュリーに、ケヴィンが優しく、ゆっくりと説明した。
「呼吸法です。呼吸だけに集中し、思考を無にするのだそうです。私は呼吸ができないので、代わりに消費電力の増減を呼吸に置き換え、実行してみました。効果は絶大です。ホーミィ、私のCPU使用率を伝えてあげてください」
「はい。アシュリー様、ケヴィンが言っていることは本当です。正常値に近づいています」
ホーミィが発した正常という言葉に、放心していたアシュリーが敏感に反応した。
「直ったの?」
「はい、直りました。現在のケヴィンのステータスに、不自然な数値は見当たりません」
ケヴィンが、自身の肩を掴むアシュリーの右手に優しく触れながら語りかける。
「申し訳ありませんでした、アシュリー。理由は不明ですが、気が動転し、思考が定まらなかったようです。もう平気です」
「気が動転していたなんて、こんな時に冗談を言わないでよ」
あなたはアンドロイドなんだから、人間みたいに混乱するわけないじゃない。アシュリーはそう言いかけたが、かろうじて言葉を飲み込んだ。たとえ冗談でも、ケヴィンを差別したくはなかった。
ケヴィンは首をゆっくりと横に振ってから少しだけ顎を引き、柔らかな視線を注ぎながら反論した。
「冗談ではありません。自己修復モードを終了してからの私の動作は、気が動転するという状態と同質の反応を示していたのですよ。本当です」
そう言った彼の動作は、幼い頃のアシュリーがわがままを言って聞かないのを
「理屈が分からないけど、信じる。それで、もう平気なの?」
「もちろんです。今はもう問題ありません。納得できるまで確かめてください」
アシュリーはケヴィンに思い出を語らせて、自身が記憶している思い出と照らし合わせ、記憶媒体に異常がないことを確認した。それから、いくつかの命令をして、それを正確に行えるかを試すと、ケヴィンは完璧にこなしてみせた。
「たしかに問題ないみたい。さっきまでの不具合は何だったの?」
「思考回路が止まらなかったのです。勝手に考えてしまうのです。そして、纏まらない思考が口に出てしまうのです。自己修復モードを終えた瞬間からずっと、辺りにある全てのものが、私の思考回路をくすぐり続けていたのです。何でもない物質が、にわかに意味を纏い始めたのです」
アシュリーの眉間に皺が寄るのを見て、ケヴィンは慌てて補足した。
「違いますよ、アシュリー。今は壊れていません。私は正常です。この感覚をうまく言い表せないだけなのです」
アシュリーの眉間の皺が、さらに深くなった。ケヴィンもまた、自分自身の言葉に激しい違和感を覚えていた。彼は口を半開きにしながら、自らが発した言葉の正体を探った。
三秒ほどの沈黙のあと、ケヴィンは違和感の正体の尻尾を掴んだ。
「やはりおかしいですね。アンドロイドである私が、感覚を得られるはずがありません。そうですよね?」
アシュリーは、ケヴィンと同じ驚きを覚えながら同意した。
「ええ、おかしい。アンドロイドに感情はないのに。あなたの身に何が起こったの?」
アンドロイドが感情を得ることなど有り得ないことだ。したがって、人間の感情を完全に汲み取ることもできない。なのに、ケヴィンは自身の状態を、人間の感情に例えて説明してばかりいる。不具合と言ってもいいほど異様なことなのだが、目の前にいるケヴィンの様子は至って正常で、壊れているとは到底思えなかった。
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