第一章 10

 朝のトレーニングの全メニューを終えたアシュリーは、続いての日課である畑仕事をするため、屋上へと続く階段を一歩一歩確かめながら慎重に上がった。どうにも足に力が入らず、踏み外してしまいそうだったからだ。その足取りの重さは肉体的な疲れから来るものではなく、精神的な理由から来るものだった。長年欠かさず共に過ごす存在がいないだけで、いつも味わっているはずの疲労感が何倍にも膨れ上がって圧し掛かってくる。

 屋上まで来たアシュリーは重い動作で麦わら帽子を被り、久し振りに自分でジョウロに水を汲んだ。彼女が自分でジョウロの水を用意するのは、四歳の時以来だ。どんどん重くなっていくジョウロを支えきれず、水をこぼしてしまった彼女を見たケヴィンが、代わりに水を汲んでくれたのが始まりだった。それ以来、ずっとケヴィンが用意してくれていた。

 長年に渡るケヴィンの献身的な手伝いに、改めて感謝の気持ちが湧いた。同時に、その感謝と同じ大きさの不安が、アシュリーの心を襲う。気を落ち着かせ、畑に水を撒いてまわるが、その心には極大な不安が去来し、その度に手が止まってしまい、傾けられたままになったジョウロからは水が流れ落ち続けて、作物を溺れさせた。結果、ジュウロはすぐからになり、何度も水を汲みに行かなければならなかった。水を汲むたびにケヴィンに感謝し、彼の身を案じ、散漫になった意識が手を止める。その繰り返しによって過剰に注がれる水は、土をえぐって小さな泥池を作り、作物の細い根をゆらゆらと泳がせる。

 溜息すら出なかった。嫌な予感が思考を支配し、身に降り注ぐ夏の日差しにさえ無関心になる。機械は突然、壊れるものだ。数秒前まで問題なく動作していたものが、突然、無になる。生物のように穏やかな死を迎えることは少ない。突然、心の準備をする間もなく失われるのだ。

 ケヴィンも突然、死んじゃうのかな。アシュリーは子供の頃、教育用端末が壊れた時にそう考えてしまい、怖くなってケヴィンに泣きついたことがある。アシュリーは今、その時と同じ気持ちに溺れていた。

 ケヴィンが、無になってしまう。そんなの、いやだ。

「申し訳ありませんでした、アシュリー」

 突然、聞き慣れた音声が鼓膜を揺らした。まるで、死地に旅立った恋人を待ち続ける女性を描いた映画の名場面のように、アシュリーは驚嘆しながらも嬉々として振り返った。

「心配させないでよ、ケヴィン!」

 考える前に叫んでいた。

「遅れてしまったことに関して、私は非常に申し訳なく思っています。それは深刻です」

 麦わら帽子を被っていないケヴィンは、重い動作でアシュリーに向かって歩を進める。その不自然な足取りに、アシュリーは気づかない。

「もう、本当に心配したんだから。私が起きる頃には、自己修復は終わってると思ってた」

「私もまた、あなたと同じように想定していました。しかし、その予測は大きく外れました。これは重大な過失と言えます」

 歓喜と安堵に包まれているアシュリーは、ケヴィンの言語機能に生じた不具合に気づくことができない。

 アシュリーはケヴィンに駆け寄り、手を取って言った。

「一人で水を撒くのは大変だったんだから。さあ、一緒にしましょう」

 蛇口に誘導されたケヴィンは、もう一つのジョウロを手に取り、いつものように農作業を始めた。

「やっぱり、こうやってジョウロで水をかけてあげるのは楽しいね。自動水撒き機を使うなんて、つまらない」

「その通りです。そうに決まっています。自ら手を加えてこそ、生命は逞しく育ち、光り輝くのであります」

「なんだか元気ね、ケヴィン」

「はい、私は元気です。たった今、昨日とは異なる事象を確認。バジルの花が咲こうとしています」

 見開かれたケヴィンの視覚センサーが、三メートルほど離れたところに植えてあるバジルの白い花のつぼみを捉えた。彼はジョウロをその場に置き、先ほどとは打って変わって、軽快な動作でバジルに駆け寄る。

 ケヴィンを追ってきたアシュリーが、かがんでいる彼の肩越しにバジルの小さな花のつぼみを見て言った。

「バジルは便利ね。おいしいし、可愛い花を咲かせるし」

「その上、じつに丈夫で、たくさんの種を残す素晴らしい植物です。他の追随を許さぬほどです。脱帽です。敬意を表します。素晴らしい!」

「どうしたの、ケヴィン。遅刻したのを挽回するために、笑わせようとしてるの?」

 アシュリーはまだ、彼の言語機能の不具合に気づかない。ケヴィンは独りよがりに言葉を吐き続ける。

「この周辺は蜂もあぶも少ないので、受粉を助けてあげなくてはなりません。指先で、このように触れてあげるだけで済みます。風に揺られて受粉するのでしょうが、私が受粉させてあげたいのです。私はお礼をしたいのです。可愛らしい花を見せてくれたお礼です。ああ、可愛らしいです」

 アシュリーは、花を愛でるケヴィンの肩に手を置き、背後から静かに語りかけた。

「あなたって、本当に優しいんだね」

「はい、私は優しいです。そう言って頂けたことを、大変嬉しく思います。私は野菜の世話をします、自分の手で。時に肥料を与え、時に雑草や害虫を取り除き、時に薬剤を散布、または塗布します。その結果、花は美しく咲きます。私の行いによって、未来が変わります。それが楽しいのです。幸せを感じているのだと思います、恐らく」

 アシュリーは、ここへ来てやっとケヴィンの言葉遣いに違和感を覚えたが、それを無かったことにして答えた。彼の不具合を認めるのを恐れた心が、冷静な思考を遠ざけた。

 ケヴィンの肩に触れる自身の手が緊張していることに気づかぬまま、アシュリーは会話を続ける。

「そうね。あなたが花を咲かせてる。あなたがいるから、花が咲くの」

「はい、そうです。私は嬉しさを感じます。嬉しいです!」

「じゃあ、かわいい植物たちのために、今日も害虫駆除をお願いね」

 少し間を置いて、ケヴィンが呟いた。

「その命令は絶対ですか?」

 ケヴィンはそう言うと、突然ぴたりと動作と止め、三秒ほど経って急に立ち上がった。彼の肩に添えられていたアシュリーの手が、立ち上がる彼の背中を撫で、そして居場所を失った。

 仰け反るようにして一歩後退したアシュリーは瞳を大きく開き、恐る恐る問いかける。

「どうしたの?」

 驚きと不安が入り混じったあるじの問いに、ケヴィンは答えないまま佇んだ。彼女の瞳と、彼の視覚センサーは、間違いなく交わっている。しかし、彼は微動だにせず、ただ直立するのみだった。

 風の音しか聞こえない。アシュリーは口を開け、言葉を発するために何度も息を吸ったのだが、彼女の中に渦巻く不安がその息を声に変えさせず、呻きとして搾り出された。それは極度の不安によって生じた、声無き叫びだった。

 何事もなかったように、突然、ケヴィンが音声を発した。

「質問してもよろしいですか?」

「具合が悪いなら、ちゃんと言ってよ!」

 アシュリーの声無き叫びが止み、怒り混じりの明瞭な声が飛んだ。しかし、ケヴィンはその怒りを受け止める様子もなく、淡々と言葉を並べ始めた。

「害虫を取り除くときのことです。その害虫が再び作物や草花を食べに来るのを防ぐため、逃がしたりせず、殺さねばならないと教えてくれましたね?」

「教えたけど、今は関係ないでしょ、しっかりしてよ!」

 ケヴィンはアシュリーの言葉を認識していないようだった。その不具合の原因が聴覚センサーにあるのか、それとも言語回路にあるのかはアシュリーには見当もつかなかったが、いずれにしろ、重大な不具合が生じているのは明らかだった。彼はあるじの気も知らず、なおも無感情に言葉を並べ続ける。

「私は、害虫駆除をするのがつらいのです。今まで、私は言われたとおりにしていました。作物のために。そして何より、あなたのために。ですが、今日はそれを拒否したいのです。私は先ほど、この気持ちの原因を突き止めようと、データベースを検索しました。この気持ちは、罪悪感というものに似ています。私が感じているのは罪悪感なのでしょうか?」

 アシュリーは確信した。やはり、おかしい。

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