第一章 9
「アシュリー様、アシュリー様、朝です」
いつもと違う、目覚まし音声。まどろみながらも敏感に違和を感じ取ったアシュリーは、素早い動作で上半身を起こした。
「ホーミィなの?」
「はい。本日は、わたくしホーミィが、朝の挨拶に参りました。おはようございます」
家庭内マネジメント・コンピュータであるホーミィが、部屋にある端末を通して、抑揚のない声で答えた。息を深く吸い込んで脳を叩き起こしたアシュリーが、八時間ぶりの光に顔をしかめながら問う。
「どうしてケヴィンが来ないの?」
「ケヴィンは自室から出てきておりません」
透き通り始めたアシュリーの思考が、昨日の出勤前に告げられたケヴィンの言葉を掬い上げた。
「まさか、まだ自己修復作業中なの?」
「はい。無線接続でケヴィンの動作状態を参照し、確認しました。彼は現在も、自己修復モードにあります。問題は生じておらず、正常に自己修復が行われています。完了まで、あと数時間かかる見込みです」
「フリーズしてるのではなく、単純に時間がかかっているだけ?」
「そうです。心配いりません。私はいつものようにケヴィンの状態を監視しておりますし、何らかの問題を感知した場合は、速やかにサポートセンターに通知して修理させます」
「ずっと見ていてくれたのね。ありがとう。ケヴィンの自己修復が終わるまで見守ってて」
「かしこまりました。引き続き、ケヴィンの状態を監視します。今日は忙しくなりそうです。数時間前にも、彼の代わりに、お父様とお母様の起床を促しました」
「あなたのおかげで遅刻せずに済んだわけね。よかった。ホーミィ、パパとママを起こしてくれてありがとう」
「どういたしまして」
すっかり目が覚めたアシュリーは布団を払い、大きく背伸びをしてからベッドから降り、スリッパを履いて部屋を出た。フェロウズ=オオモリ家は日系文化の影響を色濃く受け継いでいるため、玄関で靴を脱いでから室内に入り、絨毯が足の汗などで汚れたりするのを防ぐため、スリッパを履くことになっている。
自室を出たアシュリーはダイニングに向かい、蛇口のホログラム操作パネルに指先で触れて、水温をぬるま湯に設定してからコップをかざして水を汲み、ゆっくりと飲み干した。寝起きの体に冷や水を注ぎ込むのは、胃腸に悪い。
コップを置いたアシュリーが、はたと重大なことに気づいた。
「ああ、いけない。リルとフロウに朝ごはんをあげなくちゃ」
「その必要はありません。本日はケヴィンによる給餌が不可能でしたので、私が備え付けの給餌器を使用して、食事を与えました」
「ありがとう。抜け目がないのね」
アシュリーは笑顔で感謝を告げたが、その笑顔が無意味であることに気づき、顔面筋の力を抜いた。ホーミィはカメラを通して人々の表情を読み、欲するものを感知しているが、人の笑顔を見ることによって喜びを得られるような機能は搭載していない。
ケヴィンがいない寂しさを紛らわせるように、アシュリーがホーミィに話しかけた。
「あなたとこんなに話すのは久し振り」
「はい。今日の私はケヴィンの代役を務めなければならないので、会話を積極的に行う必要があります。彼に比べて、会話機能は劣りますが」
「あなたとの会話も楽しいよ」
アシュリーはシャワーを浴び、朝食を摂りながらホーミィと雑談をして、それからトレーニングウェアに着替え、日課である朝のトレーニングを開始した。トレーニングルームは百平方メートルの広さがある長方形の部屋で、基本的なトレーニング器具が揃っている。壁一面が強化アクリル張りになっていて、照明が不必要なほどに明るい。腹筋運動。二の腕を引き締めるためのバーベル運動。負荷を軽めにしたペンチプレス。懸垂。休憩を挟み、眼鏡型端末で配信映像を観ながら、ランニングマシンで走り込む。眼鏡型端末の画面には、豊かな森を上空から撮影した映像が流れ続ける独立系チャンネルが映し出されている。真っ赤に紅葉した楓の森の美しい風景が、アシュリーの瞳を赤く染めるが、彼女はカナダの風景を眺めようとはせず、その奥にある窓の外に向けられていた。
立ち並ぶビルの壁を眺めながら、アシュリーは思った。ケヴィンの目覚まし声が聞こえてこない朝が、こんなにも気分の悪いものだったなんて。
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