第3話 日常、日常、日常

「へえ、花畑さんは一度も結婚したことがないのですね」

 飯尾さんの唇から小さな驚きが発せられる。

 西迫くんの一件から、私は飯尾さんと教室で会話するようになった。話してみれば飯尾さんは本当に物腰やわらかで、彼女の驚きはさざ波のように静かだった。

 飯尾さんとお話をするということは、これまでの彼女の神秘性を破り捨てることを意味していたが、飯尾さんは全くそのことに頓着しておらず、むしろ私という話し相手ができたことを喜んでいるようだった。

 クラスメイトも飯尾さんが高嶺すぎる花ではないことに気づき、少しずつ飯尾さんを中心とした輪が形成されていった。私は彼女を手の届く場所まで手折ったことに密やかな優越感を抱いていた。

 そして今朝は私だけの飯尾さんだった。彼女はさっと教室を見回した。

「どちらかといえば少数派ですよね、それ。高校を卒業するまでにはたいてい結婚している方が多いですし」

「そうかもしれない」

 私は肯定する。

 現代社会ではあらゆる早期結婚や早期出産が奨励されている。私たちはもう充分な年齢だ。たいていの友達は結婚や出産を経験していた。たとえば満果は既に三回の結婚を経ているし、あじゃ子ですら中学生のときに結婚していたそうだ。

「花畑さんはどんな方が好きなのですか?」

「え、なに、恋バナ?」

「はい、恋バナですよ」

 飯尾さんは陽だまりのように笑う。私、一度恋バナってしてみたかったんです、とも言う。

「それで、どんな方が好きなのですか?」

「よく、わからないんだよね」

 迷った末に私は素直な心情を吐露することにした。

「人間か人外かでいえば人間なんだけれど、それで男か女かって言われるとちょっと困っちゃうな。疑問があるんだ」

「疑問ですか?」

「うん、疑問。セックスってさ、けっきょく男性が女性に性器を挿入することによって成立するじゃん。あれが不公平でなんか嫌なんだよ。どうして女性が男性を受け入れなくちゃならないんだろうって。ずるいじゃん。私たちは受け入れることを強いられているんだ。そう思うといまいち恋愛に踏み切れないっていうか」

「性交の形が女性器を男性に挿入して精子を採取するようなものだったら、社会の在り方もまた違ってくるのかもしれませんね。性差というものは大なり小なり社会に影響を与えるものでしょうから」

「かもね。なんかこんなつまらない疑問なんて吹き飛ばしてくれるような人と出会えればいいのになあ」

「ふふ。花畑さんは意外と乙女チックなのですね。可愛いです」

「ちょっとやめてよ」

 胸中にわだかまっている疑問を乙女チックと言われてしまえばたまったものではない。さすがに恥ずかしかった。

 私はこれ以上の追及を避けるため、飯尾さんに尋ねる。

「それよりもさ、飯尾さんはどうなの? というか結婚とかしてるの?」

「してますよ」

「してるんだ」

 あっけない肯定が返る。私は馬鹿みたいに頷いてしまった。そうか、しているのか。噂あってるじゃん。

「どんなパートナーなの? 気になるな」

「それでしたら、今度私の家にいらっしゃいませんか。たぶんお会いできると思います」

「ホントに? いいの?」

 降ってわいた幸運に思わず問い返すと、飯尾さんは「ええ」と頷いて右眼の眼帯をつつと撫ぜた。

「私の一家は全員人間なのです。花畑さんは人外より人間の方がお好きらしいみたいですし、きっと仲良くなれると思います。今夜都合のよい日を訊いてみます」

「ありがとう」

 飯尾さんの伴侶や家族はどんな人なのだろう。私はそのときが楽しみだった。









 人間であることに特別な価値はない。

 もはや人間にとって自己否定的な権利論が社会的に承認されたのはずいぶんと昔のことだった。だから今観ている映画は古典的な世界観をもとにしていた。

「嗚呼、ここに確かな愛があるのにどうして愛し合うことが許されないのでしょう」

 映画館の大きなスクリーンでは雌のアルマンコブハサミムシがきちきちとハサミを鳴らし、彼女の激情を示す。

「生命の本質が愛にあるならば、たとえどんな生物だろうと愛し合うことが許されるはずだわ」

「そのとおりだ」

 恋人の男が自分の背丈ほどあるアルマンコブハサミムシをかたく抱擁する。彼は今にも泣きだしそうなほど顔を歪めた。演技が上手いなあと思った。

「だけど今の社会じゃあそれも許されない。あいつらは愛はおろか優しさや理性、要するに優れたものは全て人間だけのものだって信じて疑わないから。人間で君の黒く輝くその美しさを理解できるやつはディクリックくらいさ。畜生、僕に力があればな……。君を愛するだけじゃ愛することはできないんだ」

 伝統と格式を誇り人間至上主義を掲げる旧家。移民の動乱に乗じて成り上がった新興。対立する彼と彼女の立場はレストリア山脈よりも険しく彼らの想いを阻む。

 そうして両家の抗争を機に、彼らは悲恋を成就させるため駆け落ちという選択をする。

 それは幸せな選択だった。そして愚かな選択でもあった。ともしびのようにささやかな幸福は現実という強風にあっけなくかき消される。不治の病という死神の鎌が麦穂よりたやすく彼の命を刈り取ったのだ。

「それでも私はあなたを愛したことを後悔しないわ」

 独りになった彼女は彼の墓標に花束を置いた後どこかへと消えていき、エンドロールが流れる。

 映画の世界が終わり、私たちの世界では照明がともる。

「マジ感動したなあ」

 あじゃ子が普段らしからぬゆったりとした口調で言う。

 今日この映画を観ようと提案したのは彼女だった。意外なことに彼女の趣味は映画鑑賞で、流行モノから今回みたいな渋いモノまで幅広くチェックしているらしい。

「んー微妙かなあ。私はもっとキュンキュンするようなラブいやつが好きなんだよね」

「今回も満果のラブの壁は破壊できなかったかあ」

「どーせ私は少女漫画的ですよ。いいじゃんそれで」

「いや、悪いなんて言ってないし。で、カンナはどうだった?」

「悪くなったよ」

 私は答える。

 そう、映画の世界はむしろ私にとって好ましいものだった。

「ただ誰かから誘われないと行かないかな。自分から行こうとは思わない」

「悪くないけどわりと渋い回答きました」

「えー、そうかな」

「そうだよ」

 そんな風に映画の感想を話しながら映画館を出ればそこはもう繁華街だ。

 行き交う人々。いや、人間だけではない。巨大なタラバガニ。オラウータン。インドシナトラ。人間と同等の知性をもった生物たちが我が物顔で闊歩している。

 実際、彼らはかつて人権と言われていた基本的権利を有しており、現代社会における扱いは人間と変わりない。もはや人間と、と比べることすらない。比べる理由などない。こんなことを考えてしまうのはきっと私が旧い思考の持ち主だからなのだろう。

 まだ遊ぶ時間があるので私たちはファーストフード店に入ることにした。ちょうど人肉フェアをやっていたので人肉ナゲットをワンパック買って分けあうことにする。家ではほとんど人肉が出ないのでたまに外で食べたくなる。どちらかといえば牛肉のほうが好きだが人肉もわりと好きだ。ただ、さすがにファーストフードの人肉よりシアターの方が美味しかった。

 あじゃ子がナゲットをつまむ。私とは違う黒く太い指。その違いがおぞましかったし、恐ろしかった。世界が許さなかった頃、自分とは違う存在を愛することができたあの男は、尊敬に値するかもしれないが理解はできなかった。

「そういえばさー、あの痛み止めってまだ持ってるの?」

 満果がフレッシュジュースを手に取りながらあじゃ子に尋ねる。

「え、今はないけど欲しいの?」

「あれば欲しいかなーって」

「あのクスリやめたほうがいいよ。なんか家でお母さんが解析したら完全に有害だって。依存性バリバリ」

 私はクスリについて思い出したことがあったので口をはさむ。

「マジかー。それ人間に?」

「いや、生物に」

「というか人間だとしても、あじゃ子ゴリラなんだから大して変わんないじゃん」

「あ、そうか」

 満果の指摘にあじゃ子はてへりと頭をかく。

「でもあれマジですごいんだよ」

「すごくてもヤバいならヤバいじゃん」

「だけどさー、そのときはそのときでよくない? 将来とかさわかんないじゃん。夢と希望とか別になくない? 日常、日常、あるのは日常だけだよ。将来なんてないよ」

 そう語るあじゃ子の瞳は夜よりも深い暗さをたたえていた。いつもの明るさは見る影もなく、ファーストフード店の安っぽい椅子に押しこめられた大きくて黒い体躯は確かな形を持った絶望のように見えた。

 この時、私は初めてあじゃ子を好きになれるかもしれないと思った。けれどそれは一時の気の迷いに違いなくて、きっと明日になればいつもどおり彼女を疎むのだろう。

 感情が永遠だったらいいのに。揺らがない感情があれば私たちはそれをしるべに生きていくことができる。混じりけのない感情は何よりも早く澱んでいってしまう。ほら、あじゃ子が最後のナゲットを食べてしまったせいで、私の好意は既に濁ってしまった。

 私はその時生じた心のさざ波を悲しみと名付けることにした。

 悲しい。

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