絶望の始まり 4


「――と君! 直人君! しっかりしてください!」

「う……っ、すみれ、さん……?」

「直人君! よかった……」


 すみれさんにぎゅっと抱き締められて――でも、頭がフラフラしていて状況が掴めない。

 前後の記憶が繋がっていない。


 何があったんだっけ。

 何が起きたんだっけ。


 ――嗚呼、そうだ。

 次第に頭がはっきりしてきて、僕はどうにか体を起こす。体の下にはブレザーが敷かれていて、ブラウス姿のすみれさんの目には涙が浮かんでいた。


「大丈夫ですか、すみれさん。怪我とかしてませんか?」

「私は大丈夫です。でも、直人君は意識がないままここに運ばれてきたので、心配で……」

「運ばれてきた……ってことは、ここがあの人達のアジト、ですか」


 涙を拭うすみれさんの姿に胸を痛めながら、僕は周囲を見回した。

 頭の中に残っている、『すみれは男達によって捕らえられ、牢に監禁される』という記述。けれどこの場所は、牢、という言葉のイメージとは食い違っていた。


 一言でいえば、白い場所だ。

 壁も、床も、天井も、照明も真っ白。部屋の中には家具も何もなく、扉らしきものも存在しない。僕から見て右側の壁がガラス張りになっており、上下に白い枠がある。それが自動ドアのように開くことで出入り口になるのだろう。人力では開けられないのか、「つるつる滑ってしまって、どうやっても開けられませんでした」と、すみれさんが表情を曇らせた。


 ガラスの向こうは病院のような無機質な廊下が広がっていて、電気は点っているものの、人影はない。まるで、ゾンビ映画に出てくる研究所を彷彿とさせる場所だった。

 ここは生け捕りにしたゾンビを入れておく為の部屋で、どれだけ暴れてもあのガラスは破れないのだ。そういう意味では、牢屋と変わらないのかもしれない。


「すみれさん、蓮華は……」

「えっ、蓮華ちゃんも捕まっちゃったんですか?!」

「その可能性が高いと思います」


 御神家の玄関で、すみれさんと同じようにヒトガタに攫われた、と見るのが妥当だろう。なのに一緒じゃないということは、何か理由があるのか、或いは――

「…………」

 嫌な予感がする。混乱よりも不安が高まり始めたところで、小さくノイズ音が響いた。

 それに顔を上げた直後、天井に埋め込まれているらしいスピーカーから、氷雨と名乗った女性の声が響いてきた。


『目が覚めたようね、一樹・直人』

「……ここはどこです。蓮華はどこにいるんですか」

『それを説明する義務はないわ。貴方は捕らえられた。そして後日、貴方に宿った神との繋がりを削除します』

「削除? 出来るんですか、そんなこと」

『関係ないわ。貴方の手を切り落とすだけだから』

「――は?」

『物理的に書けないようにすれば、それで済む』

「……、……、……え?」

 言われた言葉の意味が飲み込めない。提示された言葉が強烈過ぎて、脳が理解を拒んでいる。

『混乱しているようだから、もう一度言うわ。――その両手を、手首から切り落とす。以上』

「な、なん、」「なんで、そんな!!」


 すみれさんの叫びに驚き、真っ白だった頭に冷静さが戻ってくる。

 そして理解した現実は、絶望以外の何物でもなかった。


『私達は崇高な目的の為に動いているの。それを邪魔される訳にはいかない』

「答えになってません!」

『これは決定事項。命が残るだけ、幸運だと思いなさい』


 無慈悲に、ノイズが消えた。


「ふざけないでください! ちゃんと答えて!」


 すみれさんが立ち上がり、声を上げる。けれど、返答はない。空調の回っている音だけが響いてくるだけだ。

 返事はない。

 すみれさんが、ふらふらと崩れ落ちる。

 宝石のような涙が、零れ落ちた。


「ごめんなさい、直人君……。私が、馬鹿なことを考えなかったら……」

「それは……別に、いいですよ。僕を助けてくれようとしたんですよね?」


 涙を拭うすみれさんの右手には、僕のアザに似たマークがある。恐らくあの場で書き込み、自分が執筆者だとヒトガタに思い込ませたのだろう。


「でも、なんで……」

「……私は、頭に文字が流れてくるだけで、何かを変えることは出来ないですから。でも直人君なら、私の運命だって変えられると思って。口ではやらないって言ってても、いざとなったら運命を変えるんだろうなって思ってたんです。だから、玄関で二人の話を聞いている時に、私が囮になれば――って考えて。制服のポケットにサインペンが入ったままになっていたので、それでこれを書いたんです。……でも、間違ってました。直人君は、本当に運命を変えなかった。私を助けに来てくれました」

 涙を拭いながら、すみれさんが僕へと頭を下げた。

「ごめんなさい、直人君……。こんなことになって、蓮華ちゃんまで捕まっちゃって……」

「謝らないでください。すみれさんが無事だったなら、それでいいんです」


 僕は有言実行を主義としている。それを守ったまでだ。蓮華も同じことを言うだろう。

 ただ――すみれさんが暴漢に襲われる、というような記述があったなら、僕は迷わず文字を消していた。

 僕は博愛主義者じゃない。ただの欲深い人間だ。蓮華との関係がなかったら、あっさりと誘惑に負け、神の力を自分の為に使っていたに違いない。

 僕の主義なんて、そんなものだ。

 ただのカッコつけだ。

 でも、僕の隣には蓮華がいる。彼女の期待に沿える男になりたいと、常に思っている。だから僕はカッコつけ続けるのだ。


 とはいえ――

 この状況は、想定外。


 切断、の二文字は重過ぎる。

 見栄を張るにも限界がある。


 思わず視線が下がり――

 見下ろした右手には、アザが消えてなくなっていた。


「――?」

 余計に混乱する。僅かに残っていた冷静さが、一瞬で消え去ったのが解った。


 ……水月。

「……水月?」


 返事がない。

 反応がない。

 答えたのは、すみれさんだった。


「……駄目、なんです。私も何度も神様に呼びかけてるんですけど、まるで圏外になっちゃったみたいに、ぷっつりと反応がなくなってて……」

「……、……」


 何か言おうとして、失敗する。場の空気をどうにかしたいのに、頭が全く動かない。

 それでも、ここから逃げ出す手段が完全になくなった、というのは理解出来て、

「あー……」

 ぐらりと、世界が揺れた。


 なんだこれ。

 なんだこれ?

 手首を切断?

 切り落とす?


「……嘘、だろ」


 蓮華。

 見えない壁を二人で壊していくと決めたばかりだというのに、彼女の手を握ることすら出来なくなってしまうじゃないか。


 世界が揺れる。


 理不尽な状況に対する怒り。

 訪れる喪失と痛みに対する恐怖。

 閉ざされた未来に対する不安と絶望。

 それを打開出来ない自分に対する嘆き。

 

 あらゆる感情がない交ぜになり、けれど上滑りしていく感覚。


 どうしていいのか、解らない。

 脳が思考を放棄しているのが解る。


 何も考えたくない。

 何も感じたくない。


 呆然と両手を見下ろすと、震えているのが解った。

 握ってみる。

 開いてみる。

 動く。

 動かせる。

 蓮華に触れ、木刀を握り、キーボードを叩いてきた両手。

 これが、なくなるのだ。


 なくなる。

 無くなる。


「直人君っ」


 両手をぎゅっと握られて、驚いて顔を上げると、すみれさんが泣いていた。

 ぐるりと感情が渦巻き、けれど上滑りして、思考を放棄する。


 ここで、嘆いたり、怒鳴ったり――感情を爆発させれば、少しは楽になるのだろう。

 でも、それに何の意味もないことも解るのだ。

 見えない壁と同じだ。

 見上げるほどの理不尽さを前にした時、人は希望を失くす。『それでも』、と奮起する為には、別の希望が必要なのだ。

 今は、それがない。

 あるのは絶望だけだった。


 辛うじて、出た言葉は、

「……蓮華に、なんて言おう」

「ッ――!!」


 すみれさんが視線を下げた。そして声にならない泣き声を上げて……僕は、呆然とそれを見つめる。

 ただただ耐えるように涙を流すその姿は、蓮華の泣く姿にそっくりだった。

 だから余計に辛くて、苦しくて……何か言いたいのに、何も言葉が出てこない。

 頭が全く動かない。


 暫くして、すみれさんが涙を拭い――顔を上げた。

 泣き腫らした目は真っ赤で、けれどそこには決意があった。


「何でも、しますから。ご飯も、お風呂も、トイレも、全部私がお世話します」

「すみれさん……」

「本当は、ここから逃げ出せるのが一番ですけど……でも……」

「……」


 ……何で、こんなことになっているのだろう。


 僕はただ、平和に生きていたいだけだった。

 蓮華と一緒に幸せになりたいだけだったのに。

 それなのに、

 それなのに。


 あらゆる感情が混ざり合って、涙となって溢れ出す。

 そうしたら止まらなくなって――すみれさんに抱き締められた。

「私がそばにいます」


 嗚咽もなく、ただただ流れ続ける涙が引くまで、僕はすみれさんに抱かれ続けた。



「何か、触れておきたいものはありますか?」

「……そういう気分じゃ、ないですよ」

「でも……これが最後、ですから」

「……だとしても、です」

「私が、してあげたいんです。……蓮華ちゃんの代わりには、ならないですけど」

「すみれさん……。でも、何で……」

「一目惚れ、でしょうか。直人君にならいいかなって……直人君がいいなって、そう思うんです。不思議と、貴方のことはよく解っていましたから」

 でも、と彼女が泣きそうに微笑む。

「でも、本当に肝心なところを解っていませんでした。直人君の強さと、優しさ。凄く素敵です」

「……ただのカッコつけですよ」

「そんなことないです。直人君は、かっこいいです」


 暖かな人だ。本当に、女神のような人だ。

 状況が状況で、すみれさんの安全が確保された訳じゃない。だから僕は、この両手が失われるとしても、彼女を護れるように奮闘しなければならない。その上で、別所に捕らえられているだろう蓮華を助け出すのだ。それが僕の『カッコつけ』だ。

 でも今は、それが全く出来なくて、


「――今だけは、私に甘えてください」


 ぎゅっと、すみれさんに抱き締められた。

 そして、右手を豊かな胸に誘われて、僕は――




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