絶望の始まり 2


「「「ッ?!」」」

 反射的に振り返った瞬間に、もう一度玄関が揺れた。

 すりガラスに映るのは――小さな、人の形をした白い影。

 直後、爆竹を爆ぜさせたかのような音を上げて、すりガラスが真っ白に染まっていく。

 さっと血の気が引き――最初に動いたのは、蓮華だった。


「直人! 土足でも構うな!」

「ッ!」

 声にハッとし、僕は理解と共に頷いた。

「解った! 行きますよ、すみれさん!」

「え、で、でもっ!」

「いいから早く!」


 さっきは口にしなかったけれど――狙われているのは、すみれさんである可能性もあるのだ。

 彼女は、神様と執筆者の間に入り込んだイレギュラーだ。水月を介しているのか、僕を介しているのか、どうもはっきりとしていないけれど――その辺りを含めて、すみれさん本人すら気付いていない『何か』が、彼女にはあるのかもしれないのだ。

 ただ、さしもの蓮華もそこまでは気付いていないだろう。単純に、誰かを護る戦いが出来るほど、蓮華は器用ではないのだ。常に一緒にいた僕がそこそこ戦えてしまうから、余計だった。

 それに、外とは違って、玄関を開けたら一気にヒトガタが飛び込んでくる状況だ。いくら御神家の玄関が広いとはいえ、二人で戦うには無理がある。だったら、この場は蓮華に任せてしまった方がいい。それが最善だ――

 と、頭では解っていても、相手は異形の化け物だ。蓮華を一人にしたくないし、一緒に戦いたい。けれど、それですみれさんに何かあったら意味がない。


 後ろ髪を引かれる思いで、僕は美しい木目の廊下を土足で駆け抜ける。そのことにも胸を痛めつつも、すみれさんと共に屋敷の中を抜け、立派なキッチンから勝手口へ。

 後続の蓮華の邪魔にならないよう、扉は開け放ったまま裏庭を駆け抜け、裏口から外に出た。


「こ、これからどうするんですか?!」

「とりあえず逃げます!」


 いつの間にか風が強まり、分厚い雲が広がり始めた空の下を、走る。


 どうしたらいい?

 どうすればいい?

 安全な場所はどこだ?

 アパートは駄目で、蓮華の家も駄目なら、僕の実家も当然駄目だ。

 他に、追っ手を撒けそうな場所はないか。

 どこか、

 どこか――


 ――そうだ、水月のいるホテルなら!


 そう思った瞬間、右腕が勝手に動き出し、ポケットからスマホを引っ張り出した。

「ちょ、水月?! なんでこんな時に!」

 背後を確認し、追っ手がないことを確認してから、足を止めてスマホを確認する。すると、右手は文章を打ち出してはおらず、オフラインのドキュメントを開いていた。

 それを読め、と言わんばかりに眼前にスマホが突きつけられ――息が止まった。


「――嘘だろ」

「ど、どうしたんですか?」

「今、すみれさんの名前が!」


 次々と文章が打ち込まれ、勝手に画面がスクロールしていく。

 その中に、確かに『すみれ』の名前があった。

 でも、僕の指は動いていない。

 オンライン同期していないにも関わらず、勝手に文章が綴られているのだ。そのスピードはそこまで速くないものの、確実に文章量を増やしていく。

 こんな芸当が出来るのは、神の力しかない!


 咄嗟に文章を消そうとして、僕は慌てて思い止まる。それがすみれさんの人生にどんな影響を与えるか解らないからだ。

 かといって、ヒトガタに襲われている以上、悠長にしている暇はない。こんなことはしたくないが、この記述を読み進めて、それを裏切る行動を取るしかないだろう。僕がそばにいる限りは、それが可能なのだから。

 文章は続いている。それを数行分読んでから、僕はすみれさんへと視線を向け――


「――あれ、すみれさん? すみれさん?!」


 すぐ隣でスマホを覗き込んでいた彼女の姿が、ない。

 忽然と消えていた。

 嘘だろ、と焦りながら慌てて周囲を探すと、何故かすみれさんは数十メートル引き返していて、俯いて何かを行っているようだった。


「ちょっと何やってんですか、すみれさん!」


 思わず叫んだ直後、御神家の裏口から吹雪のようにヒトガタが噴き出した。

 僅かに顔を上げ、こちらを見ようとしたすみれさんの横顔が、白に多い尽くされ――

 ぐるりぐるりと、竜巻のように紙の奔流が空へと舞い上がり――


 すみれさんの姿が、消えていた。




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