変化の始まり 1
「――おはようございます、すみれお姉様。昨晩はよく眠れましたか? 今朝も気持ちのいい天気です。散歩日和になりそうですね。あ、私ですか? 私は朝の稽古があるので朝食の時間が少々早いのです。なので、直人を起こして甘えてしまおうかと思いまして、こうしてこっそりと寝起きドッキリをしかけていた次第で。そうですね、次はお姉様もご一緒に」
と、淀みなく嘘を告げる蓮華の隣で、僕は『寝起きドッキリを受けました』という顔を作る。
色々と吹っ切れたからか、蓮華は絶好調だ。それを嬉しく思いながら、僕は朝の支度を始めたのだった。
朝食は、残っていた食パンを焼き、ハムエッグ、サラダ、インスタントのコーンスープを並べてみた。普段の食事とは違って、ちゃんと盛り付ける。彩りも考えてみる。するとどうだろう、見慣れた食器でもお洒落な朝ご飯を演出出来たのだった。
そうして朝食を食べ、別室に分かれて着替えを済ませた後、蓮華を見送る為、僕はすみれさんと共に外へと出ていた。
「木刀は向こう?」
「いや、家だ。だから一度戻ってから道場に向かおうと思う」
「気を付けてね。それと、師範によろしく。後でご挨拶に向かいますって、伝えておいて欲しい。僕からも連絡入れるつもりだけどね」
「解った、伝えておく。――では、行ってきます」
「行ってらっしゃい、蓮華」「お稽古、頑張ってくださいね!」
僕達の言葉に笑みで頷いて、蓮華が階段を下り……駐車場を真っ直ぐに抜けて歩いていく。
幼い頃からの鍛練の積み重ねもあり、蓮華は体の軸が定まっている。その立ち姿は美しく、歩く姿は見惚れるほどだ。
曲がり角で振り向いた蓮華に軽く手を振って、その姿が見えなくなるまで見送り続けた。
一つ、息を吐く。
溜め息ではなく、明るく気持ちを切り替える為の呼吸だ。こんな風に気持ちを切り替えられるのは、一年ぶりだった。
「――さて、これからどうしましょうか。僕は買い物に行こうと思うんですけど」
部屋に戻りながらすみれさんに問い掛けると、笑顔が返ってきた。
「なら、そのお手伝いをさせてください。頂いた分はお返ししないと――って、あ、ごめんなさい、お財布持って来てないんでした……」
「そういえば、昨日も手ぶらでしたね」
キッチンに入り、冷蔵庫の中身を改める。見事に空っぽだった。
「何も持っていない方が、直人君に警戒されないかなって思いまして」
「その割には、結構ノリノリでしたよね?」
「直人君が本当にいたっていうのが嬉しくて、ついテンションが上がっちゃって」
えへへ、と誤魔化すようにすみれさんが笑う。可愛らしい。
「超可愛い……。ちょっと写真撮って蓮華に送ってもいいですか? いいですよね」
「そ、そういうのは駄目です!」
「食材費とか、そういう心配は一切しなくていいんで! 撮るだけ! 撮るだけなので!」
「それだけじゃ済まない気配がします! っていうか、直人君も絶好調ですね?」
「色々と悩んでいたことがあったんですけど、吹っ切れまして」
右手のことを忘れそうになるくらい、絶好調だ。
心に引っ張られて、体も軽くなっている気がした。
「普段の僕は、こういう感じなんですよ。嫌でしたらすみません」
「いえ、不安そうな顔をしてるより、元気で明るい方がずっと素敵だと思います」
「ありがとうございます。んで、話を戻しますけど、本当にお金とかは平気ですよ。ご飯奢ってもらえた、くらいに思っててくれれば」
「そういう訳にはいきません。まだまだ見たい映画や本がたっぷりあったので――なんて」
悪戯っぽく、すみれさんが笑う。
そういうところも可愛いと思える人だった。
「頂いた分は、きっちりと返す。それが私の主義なんです。過不足ない感じ、と言いますか……均整の取れた天秤みたいな状態が、ベストだと思ってるんです。人生、山あり谷ありなんて言いますけど、私は平地が一番です」
「解ります。僕もそういう風に考えてるので」
人生に起伏なんていらない。ただただ平穏に、昨日と同じ今日を繰り返せることこそが、一番の幸せだろう。
それに気付けるか否かで、人生の幸福度が変わるのだ。
「ただ、僕はすぐに悩み込んで、自分で谷を作っちゃうタイプなんですよね……」
「大丈夫ですよ。悩んだり、苦しかったり……大変な時は、構わず私に相談してください。すぐに直人君を谷から引っ張り上げますから」
優しい微笑みに癒される。すみれさんと知り合えてよかった、と心から思った。
■
買うべき物をスマホにメモすると、僕は家の鍵と財布を持って、戸締りを確認。
改めて二人で部屋を出て、近所のショッピングモールへと向かって歩き出した。
この一週間で一気に季節が進んで、外はもう春の陽気だ。ここ数日暖かかったから、桜の花も綺麗に咲き始めている。
昨日のあれこれが嘘のような、いい日和だった。
「そういえば……直人君と蓮華ちゃんは、今も親友のままなんですよね?」
「まぁ、そうですね」
決意を新たにしたけれど、表面上の関係はそのままだ。そう思いながらの言葉に、返ってきたのは変化球だった。
「じゃあ、私にもチャンスがあるかなー、なんて」
「えっ、」
「冗談かどうかは、直人君の想像にお任せしますね」
「いや、いやいやいや、そういうのは駄目です。好意的に解釈しちゃいます」
「いいんですよ? 直人君の優しいところとか、いいなぁって思いますし」
「攻めてきますね?」
「ようやく、二人きりになれたので」
頬を染めた嬉しそうな微笑みに、動揺を隠せない。と同時に、水月の『イケる』という言葉が脳裏を掠めるが、行く訳にはいかない。モテるのは嬉しいけれど、僕は蓮華一筋なのだ。
そして今更ながら、すみれさんに対する警戒心はなくなっている。というか、水月が本当にホテルにいた時点で、警戒も疑いも全て吹き飛んでいた。
「でも、僕は優しい訳でも何でもないですよ」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
例えば、すみれさんが中年のオッサンだったなら、話を聞くまでもなく玄関を閉めていただろう。水月と逢うこともなく、病院に行って首を傾げられ、今朝も大量の紙に埋まった部屋で頭を抱えていたに違いない。
そんなものだ。
そしてそれは、僕を蔑み、ゴミのように見下した人達の心理と全く変わらない。
……結局、僕は凡人なのだ。蓮華のように気高くあれない。なれない。
この一年、上手くなったのは笑顔くらいなものだ。それは本心を隠す仮面であり――
「でも、直人君は優しいですよ」
すみれさんの裏表のない笑顔で、思考が止まった。
「私の話を聞いてくれて、一緒についてきてくれました。自分で言うのもなんですけど、その右手のことがあったとしても、信じられるような話じゃありませんでしたから。だから、昨日は凄く嬉しかったんです。それからお部屋にお邪魔して、一緒に映画を見て、感想を話し合って、ご飯を食べて……そうして、直人君の人となりに触れられたような気がしました。だからこそ、言えます。直人君は、優しいです」
「そんな、ことは、」
「お風呂の時、蓮華ちゃんが直人君の話をしてくれて、ずっと褒めてたんです。あんなにも真っ直ぐな子から好意を向けてもらえている、というだけでも、十分な証明です」
「…………」
蓮華の名前を出されてしまうと、何も言えなくなる。これ以上の否定は、蓮華からの好意の否定になってしまう。それは出来ない。
「私は、直人君を信じます。そうじゃなかったら、初対面の男の子の家に泊まれませんよ」
「そ、それもそうでした……」
嗚呼、やってしまった。出逢いが出逢いだったから、どうも勘違いしてしまうけれど、すみれさんも僕と同じただの高校生なのだ。しかも僕と違って、完全に巻き込まれただけの被害者だ。
すみれさんを信じる・信じない、じゃない。僕の方が信じてもらう側だったのだ。状況が解明され、神の実在を知ったからこそ、立場が逆になっている。
何より、この春の日差しのような人には嘘がない。もしこれが全部演技だったとしたら、恐ろし過ぎる。神である水月すら騙していることになるのだから。
つまるところ――僕も僕で、すみれさんを泊めることに抵抗がなかったくらい、彼女を信じているのだった。
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