過去 2


 御神・蓮華は、お嬢様である。


 資産家の一人娘であり、文武両道の才女だ。そして御神家は女系であり、婿養子を迎える場合が多いという。蓮華の夫となる男も、そうなるに違いない。

 である以上、それに相応しい教養と素養、何より――家柄が必要だ。

 ブランドとも言える、個人に付随する価値。

 先天的な、自分ではどうしようも出来ないレッテル。


 一樹家――僕の家は、普通だ。父方は勤め人で、母方は農家。特に目立つところのない血筋だ。逆立ちしたって、御神家には釣り合わない。

 僕の母さんと蓮華のお母さんが、同じ産婦人科に通い、出産日も一緒だった――という偶然がなければ、会話をすることすらなかっただろう関係、だ。

 僕がそれを理解したのは、小学一年生の夏のこと。蓮華に誘われ、御神家の敷地内にある社を見学しようとしたところで、師範に見付かって叱られた時だ。

 その時、師範に言われたのだ。


『いくら仲がよくても、立ち入ってはならねぇ領域がある。それは生まれによって決まる絶対的なもんだ。覆せるものじゃねぇ――』


 人は平等です。そうでなければいけません。と学校で教わっていた頃に突きつけられた現実は、僕にとって衝撃的だった。

 僕が一樹家に生まれ、蓮華が御神家に生まれたから出来る違い。

 見えない壁。

 僕達は成長するにつれて、その高さと厚さを痛感することになる。


 ただ、蓮華の両親や師範は、僕を認めてくれていた。幼い頃から蓮華と一緒に遊び、勉強していたこともあって、僕の性格や成績は筒抜けだったからだ。師範の厳しい指導に耐え、半泣きながらも必死に食らい付いていた姿も、高評価であったらしい。


 でも、うちの両親はそれに戸惑っていた。僕が御神流剣術を習うようになって、御神家の大きさを知った頃から、怯えや卑屈さが顔を出すようになり、僕が蓮華とケンカをした日など、この世の終わりだと言わんばかりの顔をしていた。


『蓮華ちゃんに何かあったら大変だから』

 

 いつしか、それが両親の口癖になっていた。

 僕はそれが嫌で嫌で仕方なく、反発するように蓮華と遊ぶ時間を増やして……

 一緒にいる時間が増えれば増えるだけ、僕達は惹かれ合っていったのだ。


 時は過ぎ、僕達が小学六年生になった春、蓮華のお婆さんが亡くなった。

 葬儀は大々的に行われ、面識のあった僕も両親と共にお通夜に参加した。

 そして式が終わり、涙する蓮華を慰めていたところで、視線を感じたのだ。


 それは御神の親族からのもので、明らかに僕と、僕の両親を品定めするものだった。


『あれは誰だ』

『誰の子供だ』

『一樹? 聞いたこともない』

『どうしてここにいる』

『馴れ馴れしい子供だ』

『貧相な顔だ。覇気がない』


 聞こえないと思ったか、或いは理解出来ないと決め付けていたのか――口々に告げられた言葉の全てを、僕は今も覚えているし、たまに悪夢に見る。


 蓮華のお婆さんは、沢山の物語や昔話を知っていて、それを僕達に聞かせてくれる人だった。稽古の終わりに出してくれたおにぎりはとても美味しかったし、めげそうになった時には何度も励ましてくれた。本当の祖母のように慕っていた人だった。だから僕も悲しくて泣いていたし、覇気がない顔になっているのは当然だった。

 何より、お婆さんが亡くなった場で、故人を偲ぶでもなく、僕の品定めをしている人達が許せなかった。

 そして……それと同じくらい辛かったのは、居場所がなさそうに、ずっと下を向いていた両親の姿だ。蓮華の両親から話しかけられても上手く対応出来ないその姿が、言いようもなく哀れで、僕は見えない壁の厚さを思い知ったのだ。

 

 それからというもの、僕は顔を覚えられたのか、蓮華の親族と顔を合わせる度にゴミを見るような目で見られ、嫌味を言われ、舌打ちをされるようになる。

 その上、僕と付き合いがある、という一点だけで蓮華に対する扱いも悪くなっていって、だから僕は言い返すことも睨み返すことも出来ず、ただただ無心で聞き流すしかなかった。

 罵詈雑言も、

 人生の否定も、

 理由のない怒声も、

 何もかも。


 特に、本家当主である蓮華の叔母は僕への当たりが悪く――蓮華の目の前で、彼女への気持ちを否定され、『御神の女に相応しい男とはどんなものか』、というご高説を喰らったことがあった。

 蓮華のお母さんは本家の人間だから、娘である蓮華は優秀な男を選び、立派な子供を生むのが義務であるらしい。


 流石に耐え切れなくなって、その時ばかりは蓮華の手を取って逃げた。

 俯いていた蓮華はずっと泣いていて、それが心から辛かったのを覚えている。

 憎しみで人を殺せるならば、僕は蓮華の叔母を殺していただろう。

 そんな日々が続いた。

 

 中学生になり、僕と蓮華は、一旦見えない壁について考えるのを止めた。

 通学路が変わったこともあり、家を出る時間や、待ち合わせの場所などを変え、本家の人間とは一切顔を合わせないように行動するようになった。


 僕は蓮華に告白し、蓮華はそれを受け入れてくれた。

 同時に、『一生忘れないくらい濃密な三年間を過ごそう』と決めて、それを実行した。


 輝ける日々。

 一日一日が宝石のように煌めいていた。


 そして……中学三年生の終わりに、僕達は『恋人』から、『親友』になったのである。


 言い出したのは、僕だ。

 告白した時に話をしていて、だからこその濃密な三年間だった。

 見えない壁に屈した訳ではない。ただ、向き合うことに耐えられなくなっていた。


 全ては蓮華の為。彼女が傷付かなくていいように、僕は身を引いた。

 今も好きだと言ってもらえるのは、涙が出るくらい嬉しい。

 でも、僕はそれには頷けない。


「……僕達は、もうあの頃には戻れないんだ」


 僕達の関係を、蓮華の両親や師範は祝福してくれるだろう。でも、親族はそれを認めない。もし結婚しようものなら、死ぬまで嫌味を言われ続けるのは明白だ。

 他に相応しい男がいただろうに――そんな言葉が聞こえてくるようだ。

 だから、僕は『親友』という立場を選んだ。その『相応しい男』とやらが現れても、僕達の関係が変わらぬように。

 二人涙を流し、嫌だと叫びながら――そういう風に、決めたのだ。

 それなのに、


「――嫌だ」


 蓮華が言う。僕の手を握ったまま、迷いのない瞳で。


「この一年、我慢してきてよく解った。私達は間違っていたんだ。あんな決断が正解であるはずがない。あんなものが正しいのなら――こんな世の中なんて、滅んでしまえばいい」

「蓮華……」


 手を握る力が強くなる。痛いほどのそれに対し、僕は彼女の名を呼ぶことしか出来なかった。


 御神・蓮華は、清く、正しく、全うに生きている――ように振舞っているだけだ。

 王子様の仮面が分厚いから、みんなそれに気付かないけれど、その内面は儚く、脆い。人を恨むし、嫌うこともある。

 そんな蓮華が、僕の右手を掴んだ。


「昨日、直人が『運命を変えるつもりはない』と言った時、私は勿体ないと思った。与えられた力は、無駄にせずに使うべきだ。それが自由に人を操れる力ではないのは解っているが――例えば、私ならどうだ。誰よりも直人の側にいる私の運命ならば、自在に書き換えられるだろう」

「そんなこと、」

「そうすれば、」


 僕の言葉を遮って、蓮華が言葉を続ける。

 その視線は下を向き、薄暗い中では表情を窺えなかった。


「……そうすれば、間接的に叔母達の運命を変えられるはずだ。直人を侮辱し、私達の関係を否定した、あの人達の人生を」

「そんなことをしたら、蓮華の人生まで狂うかもしれない」

「構うものか。直人の描く運命になら、私は殉じられる。……私は、直人が側にいてくれるだけでいいんだ」


 ――嗚呼。一年の空白が開いたことで、より明確になった。

 蓮華は嫉妬深く、依存しがちだ。

 でも、だからこそ、僕は蓮華の言葉には頷けないのだ。


「蓮華の気持ちは解るよ。でも、僕は運命を変えようとは思えないんだ」



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