第二章

過去 1


 寂れた林道の先には、朽ちた神社が建っていた。


 かつては鮮やかな朱色をしていたのだろう鳥居は、今や見る影もなく色褪せ、僅かに傾いている。左右に並ぶ稲荷象は苔に覆われていて、言いようのない不気味さを放っていた。

 境内も雑草で荒れ放題になっていて、奥にある本殿もボロボロだった。屋根には穴が開いており、要所要所に使われている金具は錆付いている。

 今にも外れて倒れそうな扉の向こうには、曇りきった丸い鏡が置いてあるのが見えた。


 あんなにうるさかった蝉時雨が、今は聞こえなくなっている。鬱蒼と生い茂る木々が日差しを遮っているからか、気温も少し低い。まるで、別の世界に迷い込んだかのようだった。


「凄いね。廃墟ってやつかな、これ」

「そ、そうだと思う。合宿所の近くに、こんなところがあったなんて……」


 隣に立つ蓮華が、不安そうに僕の手を掴んだ。


「どうしたの、蓮華ちゃん。もしかして怖いの?」

「こ、怖くなんてないけど……不気味だから」


 普段は怖いものなしの蓮華が、不安そうな顔をしている。

 それは僕にとって衝撃的だった。

 蓮華も女の子なのだ。頭では解っていたつもりだったけれど、彼女は僕よりもずっと強くて、背が高くて、体力もあったから、いまいち実感がなかった。蓮華ちゃんに弱いところなんてない、というのが僕の中での当たり前だったのだ。

 それが呆気なく崩れ去って――何度負けても、ケンカをしても、いつも彼女の側にいたいと思う、その理由が解ったのだ。



 ――懐かしい夢を見た。


 七年くらい前、恋に目覚めた時の夢だ。だから起きるのが勿体なくて、僕は薄っすらと残る夢の残滓を追いかけるように寝返りを打つ。と同時に、右手に何か握っていて、左手を誰かに握られていることに気付いた。

「ん……?」

 薄暗い室内で目を開けると、隣に誰かいた。


 蓮華だった。


 そういえば、泊まっていったんだっけ。髪の長い蓮華は、寝る時には緩い三つ編みにしている。そんな姿も可愛くて、つい見蕩れてしまう。ただ、嫌な夢でも見ているのか、彼女の表情は曇っていて……って、「待て待て待て」


 軽く混乱しながら、僕は蓮華を起こさないように起き上がる。引き戸の隙間から入り込む僅かな光で、今が朝だと解った。

 そうだ。蓮華とすみれさんが泊まっていって、僕は書斎で寝たのだ。

 書斎は常に雨戸をしているので暗く、ナツメ球を点したままだ。蓮華の着ている無地の白いパジャマが、淡いオレンジ色に染まっている――って、そうじゃなくて、


「なんで蓮華がこっちにいるの……」


 すみれさんと一緒に、ベッドで寝ていたはずなのに。

 そう思ったところで、蓮華が小さく吐息を漏らし、薄く目を開いた。前髪がさらりと流れ、定まらない視線が僕を捉えて、繋いだままだった手を胸元に持っていった。

 不安そうな声が響く。


「直人……」

「どうしたの、蓮華」

「直人のね……直人の右手が、ずっと動いてて。だから、見てられなくて、私……」


 若干寝ぼけているのか、口調が昔のそれに戻っていた。

 凛と張った王子様ではなく、不安を胸に抱えるお姫様――

 だから僕は、蓮華の言葉に頷き、その手をぎゅっと握り返す。それから、右手にあるスマホへと視線を落とした。

 スリープを解除して確認すると、見知らぬドキュメントが二つ増えている。中にはびっしりと文章が書き込まれているのだろう。

 それを反射的に消しそうになり、ぐっと抑える。削除する、という行為も、書かれた文章に影響を与えるかもしれないのだ。放置するしかなかった。


「直人ぉ……」

「大丈夫だよ、蓮華ちゃん」


 ――嘘だ。

 水月は色々と言ってくれたけれど、こうして誰かの運命が決定付けられたという証拠を突きつけられると、心に来るものがある。

 どうか、僕の大切な人達の運命ではありませんように。そう強く願う。

 祈るような神は、見当たらなかった。


 暫くして、布団に顔を埋めていた蓮華がゆっくりと体を起こした。どうやらちゃんと目が覚めたらしい。

 少しずつ目が慣れてきた薄闇の中、無言の瞳に見つめられる。

 苦く笑い返すことしか出来なかった。

 蓮華が視線を下げる。沈痛な面持ちだった。


「……一晩中、直人の右手が動いていたんだ。昨日、色々なことがあって、頭では解っていたはずなんだが……予想以上の光景で、とても恐ろしかったよ。……これが、一生続くのか」


 百聞は一見に如かず。眠っている人間の腕が勝手に動き続けるというのは、かなり不気味な光景だったに違いない。

 手の甲のアザ以外、表面上は何の異常もなく、普段通りに笑って、一緒に映画を見て、料理を作って食べていたのだ。蓮華にとっては余計に衝撃的だったのだろう。


「背負おうとしなくていいよ。たまに話を聞いてくれるくらいでいい。蓮華がいてくれるだけで、僕は、」

「――嫌だ。私は墓まで付き合うと決めたんだ。こんな恐ろしい思いをしている直人を、一人には出来ない」

「……ごめん。ありがとう、蓮華。でも、執筆そのものに関しては、そんなに心配しなくても平気だから。寝てる間は一切気付かないし、疲れもないし」

「それならいいんだが……不安なんだ。直人が直人でなくなってしまったかのようで」

「蓮華……」

「……今朝の稽古も休もうか?」

「大丈夫。原因は解ったし、右手が動く時間も調節出来るから」

「それでも、何かあったら言ってくれ。すぐに駆けつけるから」

「うん、解ってる」

「……」

「……、……」


 沈黙が広がる。普段は気にならないそれが、今は少し辛くて、僕は話題を探し……ふと、さっきまで見ていた夢を思い出した。


「そういえば、さ。蓮華って、今も幽霊が苦手なんだっけ?」

「幽霊は平気だぞ? 気配があるなら斬れるからな。……ただ、廃墟のような不気味な場所は、今も苦手だ」

「廃墟……。じゃあ、昨日のホテルで口数が少なかったのは……」

「直人を護らねば、と気を張っていたのもあったが……ちょっと、怖かったな」

「ごめん、忘れてた。無理させちゃったね」


 蓮華は強いから、つい甘えてしまうけれど、その本質は普通の女の子なのだ。無理はさせたくなかった。

 繋いだままの手をぎゅっと握られて――握り返す。

 少しだけ表情が和らいだ蓮華に、問いを重ねた。


「……蓮華はさ、この一年、どうだった? 学校で見る限り、楽しくやってるようだけど」


 同じ高校で、偶然にも同じクラスになれて、この一年蓮華の姿を遠巻きに眺め続けていた。

 中学の頃からの友達も多かったから、蓮華の王子様キャラはすぐに受け入れられて、その身体能力の高さから男子からも一目置かれるようになった。

 一部の女子はそんな蓮華を嫌っていたらしいけれど、当の本人は清廉潔白な王子様だ。相手がギャルであろうとオタクであろうと分け隔てなく接するから、陰口を叩いたところで意味がない。五月に行われた全校マラソン、六月の球技大会、遠足などを経て、夏休みが始まる頃には嫌味を言う女子もいなくなっていたようだった。


 蓮華の周りにはいつも誰かがいて、蓮華がかっこよくキメる度に黄色い声や歓声が上がる。先生や先輩達からの信頼も厚く、いつだって輪の中心だ。

 そう、蓮華のかっこよさは形だけのものじゃなく、実際に行動し、結果を出すものだ。時には失敗する時もあり、完璧という訳じゃない。それが親しみやすさを生み、より蓮華の魅力を高めている。

 バレンタインなんて凄かった。クラスメイト用に持ってきた友チョコよりも、もらった数の方が多くなっていたのだから。


 そうして、日々は過ぎてきたのだ。蓮華の日常は、きらきらと輝いているように見えた。

 中学の頃と変わらず、特に目立つでも、沈むでもなく、普通に日々を生きている僕とは大違いなのだ。

 でも、僕はそれでいいと思っている。何の問題もないと感じている。

 そうあることを僕達は望んで、『親友』になったのだから。


 なのに、蓮華の表情が暗くなってしまった。

 学校では絶対に見せない顔だった。


「そう見せていただけだ。胸に開いた穴は、どうやっても埋まらなかったよ。何より、直人に距離を置かれるのが辛かった」

「それは、ほら、学校じゃあんまり話さないようにしてたしさ、昔から」

「中学以前とは、明確に違った。仕方ないのは解っていたが、辛かったんだ。……だから、直人は気付いていないだろうな」

「何に?」

「何度か、告白されている」


 息が止まった。


「ッ! っ……そ、そりゃ、蓮華はモテるからさ。そのくらい、別に、」

 心臓を刺されたかのように、胸が痛む。

 蓮華が小さく言った。

「……ばか」

「……だって、さ」


 無様で、身勝手な独占欲。涙が出そうなくらい情けない。

 そんな僕に、蓮華は微笑むのだ。

 僕だけにしか、見せない顔で。


「安心しろ、全て断っている。――私は今も、直人のことが好きだからな」

「蓮華……。……でも、駄目、だよ」


 視線を上げられない。それでも、言わなくてはならなかった。


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