お風呂 3

 

「ちょ――!」

「ん? 何か問題があるのか?」

「な、ないですけど?!」

「ならこのままで、な。それと、返事は返さんでいいのか?」

「返事?! ――あ、忘れてた」


 色々とはぐらかされた気がしつつも、風呂板の上のスマホを再び手に取る。

 画面を見ると、

『イツキさんらしいですね。私は使ってしまいそうです』


「……、……」

「さて、直人に一つ問おうか」

「……聞きたくないです。知ってどうなる話でもないでしょう」

「まぁ、それもそうだな」


 スマホを置く。そうすると、水月を抱き締めるような形になる。……幼い蓮華の姿がちらついて、クラクラした。

 だから余計に、問いかける声は低くなっていた。


「……神が二柱いたとして、それぞれが同じ人物の運命を変えたら、どうなるんですか?」

「竜巻と噴火が同時に起きたら、どうなるだろうな?」

「聞くだけ野暮でした……」


 神による影響力は変わらないのだ。その人の運命は滅茶苦茶になるのだろう。その結果どうなるのかは、記述された文章次第。どちらが優先されるということはなく、同時に実行されていくに違いない。

 酷い気分だ。それなのに、どこか頭の中に冷静さが残っている。それが一番嫌だった。


「……これからの執筆作業、僕が寝てる間だけでお願いします。その間は勝手に手を動かしていいですけど、紙には限度があるので、スマホに文章を打ち込む形にしてください。まぁ、電池の減りが凄いことになりそうですけど」


 溜め息が出る。色々と衝撃的過ぎて、遠慮がなくなってきているのが解った。

 それに水月が悲しそうな顔をしたように見えたけれど、すぐに彼女は笑みになり、体を捻って僕のスマホを手に取った。


「なら、問題がないようにしておこう」

 ふっと、水月がスマホに息を拭きかける。

「――よし。これで儂と繋がっている限り、電池は減らなくなったぞ」

「減らなく? ……本当だ、100%になってる」


 半分を切っていた電池が復活している。これもホテルの電気を点けたのと同じ、神の力なのだろう。

 それに沈んでいた気持ちが少しだけ回復し――けれど、すぐに冷静な自分が脳裏で囁いた。

 ――これに甘えたら、駄目になる。


「甘えていいのだぞ? 快楽に従順になった方が、人生楽だぞ?」

「堕落に誘わないでください……。自滅するって話をしたばっかりじゃないですか」

「それは他人の人生を意のままにした場合だ。だが、これはまた話が違う」

「いえ、同じですよ」


 まるで魔法のような力なのだ。あれもこれも、とすぐに甘えるようになって、駄目になっていく自分がありありと想像出来る。


「僕は自立したいんです。誰かに甘えるんじゃなくて、頼られる人間になりたい――いえ、なるんです」

「それで幸せになれるとは限らんのに?」

「怠惰に生きるよりは、よっぽど幸せでしょう。……別に、それで見返せるとは思ってませんよ。例え大企業の社長になったって、あの人達は僕を見下すでしょう。そんなものです。でも、そんなものだからこそ、負けたくないんです」


 思い出したくもない冷笑や罵倒が脳裏に蘇り、僕は軽く頭を振って過去を追い払う。

 綺麗な思い出だけ記憶しておきたいのに、恨みや憎しみはいつだって顔を出すタイミングを伺っているのだ。……本当に嫌になる。

 水月が優しく微笑み、僕の頬に触れた。


「ナオトは真面目だな。あの者達に、『死んだ方がマシだ』と思えるような人生を歩ませることも出来るというのに」

「蓮華に関わりがある以上、思っても出来ませんよ」

「それもそうか」

 それもそうだな。そう言いながら、水月が距離を詰めてきて――

 ぎゅっと、抱き締められた。

「……すまんな、不便な力で」

「別に――不便でよかったですよ。もっと便利でピンポイントだったなら、僕は不安を感じたりしてなかったでしょうから」


 今とは逆に、他人の人生を操れる誘惑に耐えることになっただろう。


 誰にだって、憎い人はいる。『苦しんで死ねばいいのに』と思うような人が。

 僕にだっているのだ。

 だから、水月の甘言には頷けない。


「心配するな。思うだけなら自由だ」

「でも、水月はここにいるじゃないですか」

「だから、こう……な」

「ちょ、」 


 ぐっと腰を押し付けられて、黒く濁っていた思考が揺らぐ。だから水月を押し返そうとするのに――

 宝石のような紅い瞳が、僕を覗き込んでくる。

 吐息の触れ合う距離から、動けなくなった。


「儂はここにいる。嫌な思考に押し潰されそうになったら、それを全部ぶつけるといい。――気持ちいいぞ?」

「そういう、のは、」

「なら、蓮華に慰めてもらうといい。或いは――すみれに受け入れてもらうとかな」

「な、なんですみれさんの名前が出てくるんですか」

 驚くしかない僕に、水月が目を細めた。

「ナオトを介して繋がっておるからな。思考までは読めんが、感情は把握出来る。すみれは、ナオトが思う以上にナオトに心を開いている様子だ。イケる」

「根拠がないですって!」

「なら、作ればいいさ。これから、長い付き合いになるんだ」

「それは、そうですけど…………でも、」

「ん?」

「なんで、そんなに僕に優しいんですか」

「ナオトに惚れているからだ」

「っ?!」


 予想もしていなかった言葉に、一瞬頭が真っ白になった。

 対する水月は、そんな僕に甘く微笑んだ。


「ナオトと繋がった瞬間に、儂はその出生から今日までの人生を把握した。その喜びを、苦労を、悲しみを、全てな。もちろん、蓮華とのことも」

「…………」

「小説を読んで、その主人公を好きになったようなものだ。ナオトという人間を知って、好意を持った訳だ」

「で、でも、ほら、僕が想像したってことは、水月は僕の味方な訳で、その、」

「それはそれ、だな。むしろ、繋がってから出逢うまでに三日間あったことで、より深くナオトの内面を知ることが出来た。それもあったのかもしれん。もしナオトがいけ好かない男だったなら、味方ではあれ、ここまではせんかったさ。――ナオトには、一生迷惑をかけるんだ。その分は、返したい」

「けど、僕には好きな人がいるので……っ、だめ、ですって!」


 細い腰を掴んで持ち上げ、僕自身も体を起こして距離を取る。……危なかった。

 だというのに、水月は妖艶に笑うのだ。


「ふふ、この状況でもまだ耐えてみせる。そういうところが愛おしい。いじめてやりたくなる」

「水月……」

「儂のことは好きに『使って』構わん。……儂も、ナオトを好き勝手に使うのだからな」


 最後は少し悲しげに言った水月に、僕は何も言うことが出来なかったのだった。





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