神との対話 3


「なんか、現実感がないな……」

 晴れ間の見えてきた空と、巨人のようにそびえ立つホテルを振り返りながら、僕は呆然と呟きを漏らす。

 中にいた時間は一時間程度だと思うけれど、既に数日経っているかのような疲労感があった。


 ずっと緊張し続けていたからか、全身が凝り固まってしまっているし、精神的な疲弊も大きい。何より、提示された情報が予想外過ぎて、水月の言葉通り上手く頭に入ってきていない。

 いや、納得出来ていない、という方が正しいか。

 瓢箪から駒だ。受け入れるにも時間がかかる。


「ごめん、蓮華。まさかこんなことになるなんて……」

「気にするな。むしろこんな事態になった以上、私は全力で直人を支えよう。墓まで付き合うから、安心してくれ」


 微笑む蓮華が頼もしい。彼女がいなかったら、もっと困惑し、動揺していたのは確実だった。


「……それじゃあ、帰りますか。すみれさん、行きましょう」

「お邪魔していいんですか?」

「これからどうなるか解りませんけど、長い付き合いになるのは確実でしょうから。自己紹介したり、連絡先を交換したりしときましょう」


 何より、すみれさんがどういう立場になるのか、水月から説明がなかったのだ。伝達と案内だけ、という訳ではなさそうだし……すみれさん自身が、運命改変についてどう思っているのか、ちゃんと聞いておきたい。

『事情があるなら運命を変えてもいい』と考えているとしたら、諦めてもらわなければいけないからだ。


 相手が犯罪者であろうと、善人であろうと、僕は他人の人生に干渉出来るほど図太くない。

 自分の人生ですら思い通りに進められなくて、諦めて、今に至っているのだ。他人の運命など背負えない。

 薄情と思われるかもしれないが、それが僕という人間だった。


「蓮華はさ、一人の犠牲で百人を救えるとしたら、どうする?」

「何もしないな」

「だよね、僕もだ」

「え、それは、」


 すみれさんが驚いている。そんな彼女に苦笑しながら、僕は奇妙な静けさを持つホテルの敷地内から、喧騒の響く外へと出た。

 神の御座す領域から、人の根ざす土地へ。

 僕には後者の方が性に合っているようだ。


「あの、今のお話、せめて悩むとか、そういうことは……」

「すみれさんは優しいんでしょうね。でも、例えばそれで百人を救った時、今度は別の選択を迫られることになります。その救った百人を犠牲に、一万人を救う選択です」

「そんな……」

「そして次は、一万人を犠牲に一億人を救うか否か。最終的にはぐるっと回って、七十億人を犠牲に一人を救うか否かになるでしょうね。『誰かの犠牲で誰かを救う』っていうのはそういうことだと、僕は考えています。だったら、何もしない方がいい。――誰かを救えるなんて、傲慢に過ぎる。それを絶対的な力で行うというのなら、尚更です」

「直人君……」

「……とまぁ、そういうことも含めて、話し合う必要があるかなって思う訳ですよ」


 唯一例外があるとすれば、蓮華だけだ。彼女を護る為なら、僕はなりふり構わず運命を変えるだろう。

 蓮華の運命ならば背負って――

「――ハ。今更何を言うんだか」

 一人ごちる。

 背負えなかった癖に、調子のいいことを言うものじゃない。


 色々と嫌になるけれど、だからって不機嫌な顔をしていても意味はない。どうにか笑顔を作って、僕は歩き出した。

 背後から、すみれさんと蓮華の会話が聞こえてくる。


「……二人は、大人なんですね」

「そんなことはありません。周囲よりも、少し考える時間が多かっただけです。割り切れているのなら、直人はああして悩んでいないでしょう」

「でも私、能天気に浮かれていたのが恥ずかしくて……」

「恥じる必要はありません。むしろ、すみれお姉様の『困っている人を救いたい』と思う優しい気持ちこそ、私達に足りないものです。私達は、二人で完結した『親友』同士ですから」

「親友? 蓮華ちゃんと直人君は、お付き合いしているんじゃ……」

「していません。今は。――なぁ、直人」

「……そういう絶妙に返事に困る言い方するの、止めようね」


 T字路の途中で足を止めて、振り返る。

 その間に言い訳を考えるものの、全く思い付かないのだった。


「つまりですね、あー……」「私達は『親友』ということです」

「答えになってませんね……?」


 ただ、これ以上語るつもりはない、という部分は暗に伝わったようで、すみれさんからそれ以上の言及はなかった。

 内心安堵しつつ、今度は蓮華達の一歩後ろを歩き出す。その途中、僕は無意識に路地の向こうへと視線を向けていた。


「……」


 景色は流れていく。

 目的の建物――御神流の道場はもっと奥にあるから、ここからは見えない。

 それは解っていても、つい見てしまうのだった。


「……気になるなら、久しぶりに道場に来ないか? お爺様も喜ばれる」

「……ごめん、蓮華。誘ってくれるのは嬉しいけど、まだ合わせる顔がないよ」


 蓮華は、御神流剣術、という剣術を習っている。

 実を言えば、僕も一年前まで一緒に習っていた。


 その名のとおり、御神流は蓮華の家が受け継いできた伝統ある流派であり、彼女もそれを継承しようとしている。

 その間口は広く、駅の南側にある立派な道場では、多くの門下生に剣術や護身術を教えていて、更にはダイエットのサポートなども行っているほどだ。


 とはいえ、僕は正式な門下生という訳ではなく、かつて道場で講師をしていた、蓮華の祖父から指導を受けていた。

 幼い頃、蓮華に誘われて、先の路地の向こうにある古びた道場へと遊びに行ったのがきっかけだ。そこから御神流を習うようになり……後になってから、蓮華の祖父こそが今代の師範であり、蓮華は師範代となるべく直接の指導を受けているのだと知ったのだ。

 当時はピンと来なかったけれど、月謝を払っている訳でもなく、ただ幼馴染のよしみで教えてもらっていただけだったから、両親が慌てに慌てたのを覚えている。


 でも、蓮華の祖父は――師範は、両親の包んだ謝礼を受け取らなかったという。

 理由は解らない。その後も色々あったけれど、師範は僕と蓮華の味方でいてくれた。

 僕や蓮華の考えが大人びているとしたら、師範から多くを教わり、瞑想をして内面を見つめる時間を重ねていたからだ。

 そして師範は言っていた。


『多感な年頃のお前達は、悩むことも多いだろう。だが、七十年以上生きてきた俺だって、今も悩むことがある。人生に正解はない。悩み続けろ。答えはその先にある』


 まさか師範ほどの人が悩むとは思ってもいなかったから、衝撃的だったのを覚えている。本当に、多くのことを教わった。

 だというのに、僕はろくな挨拶もしないまま、とある事情から逃げるように道場へ通うのを辞めてしまった。師範を裏切ってしまったのだ。

 蓮華から事情は伝わっているものの、それは本来僕の口から話さなければならなかったことだ。その後悔と後ろめたさが、道場に向かう足を重くする。

 思考が止まる。

 それが一番駄目だと解っているのに。



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