2

「こらこらお二人さーん。公衆の面前で二人の世界に入られると困るんだけど」

 呆れたような笑い声は初めて聞く男性のもの。

「ナイジェル」

 ライルはばつが悪そうに顔を背けた。


 ライルに近づいてきた青年は赤茶色の髪をしていて年の頃はライルと同じに見える。ライルよりも優しい目つきをしている。隣には美しい女性、アメリカを連れていた。ということは彼がアメリカの夫なのだろう。


「きみの婚約者に僕を紹介してくれないのかい?」


 ナイジェルは人好きのする笑みを浮かべた。声も優しげだ。

 ライルがコーディアに自身の学生時代の友人だとナイジェルを紹介する。

 コーディアも先ほどと同じように丁寧に挨拶をした。一度経験していたから今回の出来はよかったと思う。


「こんばんはコーディアさま」

「こんばんはアメリカさま」

 アメリカは唇をほんの少しだけ持ち上げた。コーディアはしっかりと彼女の目を見て挨拶を返した。

「ドレスとても似合っているわ」

「ありがとうございます。アメリカさまもとても美しいです」


 二人が会話をしているとナイジェルが自然に入ってきた。

「僕の妻とはもう何度か会っているって聞いているよ。これからは四人で会う機会も増えると思うんだ。よろしくね、コーディア嬢」

「はい。よろしくお願いします」

 コーディアは緊張した面持ちで答えた。


「そんなにかしこまらなくてもいいよ。そうだ、百貨店には連れて行ってもらった? 彼生真面目だから最初は取り扱いが難しいと思うけど、いいやつなんだ。よろしく頼むよ」

「なんだその、母親みたいな台詞は」

 ライルはナイジェルの言い方に文句をつける。

「あはは。きみが悩んでいたのを知っている者としては」

「余計なことを言うな」

 ナイジェルとライルは気の置けない友人同士なのだろう。口調や会話の間の取り方かそれが伝わってくる。


「まあ、百貨店ですか……」

 アメリカが呆れたような声を挟んだ。

「え、いいえ。その……」

 コーディアはしどろもどろになる。


 ライルにはあれからもう一度連れて行ってもらっている。確かに店内には中間階級と思しき女性の方が多かった。

 きっとアメリカなどは昔からひいきにしている店から人を呼ぶなりして買い物をしているのだろう。


「僕も行ったことがあるよ、百貨店」

「あなたが?」

 アメリカが隣の夫の顔を見やる。


「ああ。カレント・リデルと言って僕の大好きなおばあ様と一緒にね。一度評判のパーラーでアイスクリームが食べてみたいなんてわがままを言われてね。女性のわがままに振り回されるのが男性の役目ってね」

 ナイジェルは気障ったらしく片目をつむった。

「まあ。おばあ様と。初耳だわ」

「今度きみも付き合ってあげてよ。いたくお気に召したようだ」

「……考えておきますわ」


 アメリカはしばしの間の後、そう答えるに留めた。アメリカの夫はコーディアの想像とは少し違っていた。もっと、ライルのように真面目な男だと思っていた。


「ああそろそろ行く時間かな」

 ナイジェルは懐中時計を胸ポケットから取り出した。気が付くと入口ホールの人はまばらになっていた。


「コーディア。お茶会の招待状受け取りましたわ。エイリッシュ様と連名ですのね。楽しみにしているわ」

「はい。わたし、もう逃げることはしません」


 コーディアの宣言にアメリカはほんの少しだけ目を丸くした。それを周囲に気取られないくらいに一瞬のことだったけれど、彼女はゆるりと微笑んだ。

「それは楽しみにしているわ。それではまたのちほど」

 そう言ってリデル夫妻はコーディアたちから離れていった。


 ライルに促されてコーディアも階段を登り始める。

「茶会を開くのか?」

 ライルは驚いたような声を出す。

「え、はい。そうなんです。エリーおばさまに相談をしたら是非にと賛成してくれたので」

「重荷にならないか? 別に無理をすることはない」

「いいえ。大丈夫です。わたし、わかってもらう努力をしていなかったんです。だから、一度ちゃんとぶつかろうと思いまして。頑張ってみたいなって思ったんです」


 これはコーディア自身の決意表明。


 決められた婚約という言葉に逃げるのはやめにする。ライルの隣に相応しい自分であるためにできることから始めてみようと思った。

 自分でも不思議だった。


 ライルを知るたびに彼との距離が縮まって、彼をもっと知りたいと思うようになった。それともう一つ。アメリカに失望されたことが悔しかった。


 そう、悔しかったのだ。

 彼女と対等になってみたいと思ったから。失望されたままでは嫌だなと思った。


「そうか。何か手伝えることがあれば私に行ってほしい」

「その言葉だけで充分です。ライル様」


 コーディアは微笑んだ。

 今は隣にいる彼のことがこんなにも頼もしい。


◇◇◇


 コーディアとライルが劇場の入口ホールにある左側の階段を登り終えて、客席へと向かう通路に差し掛かった時。

 目の前の男性が二人の行く手を阻むように立っていた。


「こんばんは、デインズデール子爵」


男性にしては長めの琥珀色の髪を後ろになでつけ、やや派手な色のクラヴァッドを身につけた顔に薄笑いを張り付けたライルと同じ年代の男性だ。背はライルの方が高い。


「こんばんは」

 声を掛けられたライルは返事を返した。

「隣に連れているのがコーディア・マックギニス嬢かな」


 コーディアは咄嗟にライルの顔を確認する。彼の知り合いだろうか。青年の口調はまるで旧知の友人に会ったかのように親しげだが、ライルの方は顔を固くしている。


「ふうん……これが僕の従妹か」

「従妹……?」

「僕はローガン・マックギニス。きみの御父上と僕の父上が兄弟なのさ」


 ローガンと名乗った青年はずいっと一歩前に進み出てコーディアを上から下までじろじろと眺めた。不躾な視線にコーディアは隣のライルの背に隠れるように一歩足を引いた。


「挨拶もなしだなんて礼儀のなっていない女だ。ま、租界育ちなんて所詮はそんなものか」


 彼は独り言のように小さく言葉を吐いた。小さい声だったがばっちりコーディアの耳に届いた。

 コーディアは羞恥に顔を白くした。久しぶりに悪意の塊のような言葉と感情をぶつけられた。


「そちらこそ初対面の女性に対する態度ではないようだが。私の婚約者に対して無礼な振る舞いは控えていただきたい」

 コーディアが口を開くよりも早くライルがローガンに向かって低い声を出す。

「きみの、婚約者だって? まさか。彼女は僕の婚約者だ。父親同士がそういう約束をずっと前にしていたんだ」


 衝撃的な発言にコーディアは息を呑んだ。そんなこと、初耳だった。

 父からは何も聞いていないし、そもそもコーディアは自分の親戚について話をしてもらったことがほとんどなかった。


「そんなことは聞いていない」

 ライルの声が一層固くなる。

「叔父上は勝手に約束を無かったことにしたんだ。ひどい話だろう。だから私は直接きみたち侯爵家に話をつけに行こうとしたのにデインズデール侯爵夫人に何度も門前払いをくらっていてね。だから今日きみが演奏会に顔を見せるかもしれないって噂を聞きつけてね。こうしてわざわざ出向いたってわけさ。従妹の顔も見ておきたかったしね」


 ローガンはコーディアに向かって笑みを深めた。コーディアは自分の背中から嫌な汗が噴き出るのを感じた。

 彼の目つきはライルのそれとはまるで違っていた。コーディアを物のように、価値を見定める視線だった。


「そんなわけだから、きみの身柄は私が預からせてもらうよ」


 ローガンがコーディアの方へ近づき腕を伸ばしてきた。

 コーディアは怖くてライルの背中に隠れた。ぎゅっと彼の上着を握る。


「そんな話急に言われてもすぐに信じられるわけがない。とにかくこの場で彼女を引き渡すことなど出来ない。言い分があるならヘンリー氏を交えた場にするべきだ」


 ライルの声は平素通りだった。

 彼の声がコーディアの心の中にしみわたると自分の心がゆっくりと解きほぐされていくようだった。今この場でローガンに連れ去られたらどうしようかと本気で怖かった。


 ローガンはさすがに今日コーディアを連れて帰るのは無茶だとわかっていたのか「ま、いいさ。そのうちその娘を返してもらうよ」と言って劇場内へ入っていった。

 取り残された二人はどちらも何も話さなかった。

 とてもじゃないけれど演奏を聞く気分にはなれない。


「ライル様……あ、あの……これにはきっとなにか事情が……」


 親戚同士何かがあったのかもしれない。コーディアにはどんな事情があったかわからないけれど、言わずにはいられなかった。


 心情的には今すぐに父の元へ赴いて彼に問いたい。

 ライルはコーディアの方へ振り返った。

 コーディアが顔を上げると、彼の灰茶の瞳と目が合った。


「大丈夫だ。私がついているし、きみの嫌がることは絶対にさせない」


 ライルの声は大きくはなかったが、コーディアの胸の奥に染み込んだ。

 彼がそういうなら大丈夫、と納得してしまうような信頼できる声だった。


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