7
◇◇◇
その日、コーディアは屋敷の二階、表玄関を見渡せる部屋の窓辺から外を眺めていた。
彼はいつ帰ってくるのだろう。
(わたしは、結局全部から逃げてばかり)
ライルの婚約者だと胸を張る自信もないし、自分から表に出て行くことを拒絶している。
ライルとエイリッシュが優しいから甘えているだけ。
新しい世界に入っていくには、自分から道を切り開いていかないといけないのに。
ずっと小さくて居心地の良い巣の中で庇護されてきた。寄宿舎の中はとても温かく、コーディアはただ守られているだけだった。
ぬくぬくと与えられる恩恵だけを受け取っていた。
けれど、今は違う。
確かに決められた縁談だったけれど、コーディアはライルのことを知っていった。
彼の住む世界がどういうものか垣間見たし、自分だってインデルクで育っていたら、この世界の中で過ごしてきたのだろう。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、馬車が一台屋敷の敷地内へ侵入してきた。
帰ってきたのは誰だろう。
今日はコーディア以外みんな出かけている。
馬車は馬車寄せに停まり、中から人が下りてきた。
コーディアにはすぐにわかった。
背の高い、洗練された紳士。
コーディアの婚約者。
(どうしても結婚したいわけでもない、なんて言ってごめんなさい……)
ライルに対して申し訳なく思った。
正直なところ、彼でないと嫌かと問われれば、わからないと答える。だって、まだライルとは打ち解け始めたばかりだから。
けれど、勝手に酷いことを言って罪悪感を覚えるくらいにライルのことが気になり始めている。
彼の笑った顔を見ていると胸が騒ぎ始めるし、他愛もない話をするのが好き。
きっとライルはコーディアに対して言いたいことだってあるはずだ。自分はまだ淑女には程遠いし、インデルクの女の子たちの常識だって全部把握できていない。
それに、ライルの仕事のことや役割や義務について知ろうともしなかった。
父のことも同じ。コーディアは完全に守られる側だった。アメリカはちゃんと知るべきことは知ろうとしているのに。
コーディアは恥ずかしくなった。
今まで何も行動を起こそうとしなかった。
きっとライルもエイリッシュも待っていたに違いないのに。
わたしがまずしないといけないこと。
コーディアは一人決意を固めた。
◇◇◇
夕食が終わり、一度それぞれの部屋へと戻った後。コーディアは控えめにライルの書斎の扉を叩いた。
「誰だ」
扉の中から誰何の声が聞こえてきた。
「わたしです。コーディアです」
コーディアが答えると、少しした後ライル自らが扉を開いた。
「すまない。てっきりエイブか誰かだと思った。寒いだろう、ここは。居間に行こう」
「いえ。わたしのほうこそ夜分遅くに申し訳ございません」
「いや、いい。そういうほど遅くもない。きみはもう寝支度をしているものだと思っていたが。寒くないか?」
ライルはコーディアが肩から羽織っている厚い羽織りを目にとめて、口元を緩めた。上質な羊毛で織られた大きな肩掛けは彼からの贈り物だった。
「これがあるので暖かいのです」
「そうか」
ライルに促されてコーディアは居間へと足を運んだ。エイリッシュはすでに自身の私室へと引き上げた後だった。
「そういえばこの間アメリカ・リデル夫人が訪ねてきたと聞いた」
「はい」
「仲良くなったんだな」
コーディアは首をかしげる。
「仲が良いというか……叱咤激励? を受けました」
「激励?」
「はい。きっとわたしの弱気な態度にイライラしたのですね。わたし、ずっと逃げていましたから」
コーディアは先日の出来事を思い出して自嘲の笑みを浮かべた。ライルが不思議そうに見守っている。
「ライル様。あなたはこの間からわたしのことや、ムナガルのことをたくさん聞いてくれました。わたしも、ライル様の子供の頃の話とか聞かせてもらいました。でも、その……わたし、あなたのお仕事のこととか領地のこととか、なにも質問をしませんでした」
コーディアはゆっくり話を始める。
これまでの溝を埋めるように、これまでのお互いのことを交互に話した。コーディアの寄宿学校での生活や、ムナガルの様子。ライルも学生時代の話をしてくれた。それはとても楽しい時間だった。
「わたし、恥ずかしいことに父が行っている慈善活動についてもまったく知らなかったんです。知ろうともしませんでした。エイリッシュ様も行っているのでしょう?」
「ああ。そうだな。母上は領地の慈善病院や孤児院に定期的に訪問している」
ああやっぱり。
エイリッシュは生まれながらの貴族だ。たしか、公爵家の出身だと聞いている。
この国で公爵家というのは王族の血を引いた高貴な血筋だと聞いている。
「わたしにライル様の、お仕事のことや貴族のことを教えていただきたいのです」
コーディアの積極的な申し出にライルは目を見張ったようだった。
何かを思案するようにしばらくの間口を閉ざしていた。
彼は突然従僕を呼びつけた。
従僕は居間から一度出て行き、もう一人と一緒に本を抱えて戻ってきた。
コーディアの前にたくさんの本が置かれる。
今度はコーディアが息を呑んだ。
「これは……」
目の前に置かれたのはコーディアの愛する小説『探偵フランソワの冒険』シリーズ。
「きみが好きだと言っていたから、ロルテーム語版を探してそろえたんだ。あいにくとインデルク語版はまだ途中までしか翻訳出版されていなかった」
「え、インデルク語版もあるんですか?」
「調べたらあった。で、最新刊を含めて全部そろえてみた。今日ようやく揃ったんだ」
コーディアは最新刊という言葉に反応した。ムナガルでこのシリーズを追いかけようにもなかなか手に入れることができずに、実は大好きという割に既刊全部を読破したわけではなかった。
コーディアは背表紙を見分する。
今まで読んだことない巻があり、心が浮足立つのを感じた。
「ライル様……ありがとうございます。で、でも、その……いいんでしょうか? だって、その……ライル様は女性が探偵小説なんて、って思っていらっしゃったので」
ライルとよく話をするようになっても、コーディアはあえて自分から読書の話題に触れることはなかった。
彼がコーディアの本の趣味について内心どう思っているか測りかねていたからだ。
ライルがどういう風の吹き回しでこれをコーディアに買ってくれたのかが分からない。
「私は、あの母を持ったせいで色々と大変だった……」
突然話がエイリッシュのことになった。
「エリーおばさまは素敵な貴婦人だと思いますよ」
「それはまだきみ相手に母上が猫をかぶっているからだ。けれど家族の前ではそうでもなくて、今はだいぶましになったけれど、昔はもっとひどかった」
ライルはどこか遠い目をした。
きっと在りし日の苦労を思い出しているのかもしれない。
コーディアは返答に窮し、とりあえず黙って聞いていることにした。
「だから私は余計に女性には、女性らしさを求めるようになったのかもしれない。母を反面教師に真面目で融通が利かないと、友人にも言われたことがある。けれど……、私も反省した。きみはその……素敵な淑女だと思うし、きみの好きなものに私が何か言うのはよくないと思った」
ライルの長い告白を聞いたコーディアは彼が彼なりに色々と考えてコーディアのことを尊重しようと決心したのだと感じた。
「あ、ありがとうございます……」
大っぴらにしなければ、別に家の中で探偵小説を愛読するくらい、いいじゃないとはエイリッシュの言である。
世の中はまだ女性に女性らしさを求める時代だ。けれど、好きなものは好き。それを彼は認めてくれた。
コーディアはじんわりと心が熱くなるのを感じた。
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