三章 ケイヴォン散策とお茶の時間
1
屋敷へと連れ戻されたコーディアはエイリッシュから強く抱きしめられた。
叱られることもなくぎゅっと「よかったわ、無事で」と。
「ごめんなさい」と言うと「心配したのよ。何かしたいことがあったらちゃんと言うこと。いいわね」と言われた。
エイリッシュのコーディアを抱きしめる力が強くて、マーサのことを思い出した。力加減が彼女と一緒で、背中に回された腕から彼女の気持ちが流れ込んでくるようだった。
エイリッシュときちんと話をしたのは翌日のことだった。
「ねえ、コーディア。もしも、あなたがライルのことを好きになれないのなら遠慮しないでいいのよ。そうしたらわたくし、あなたに無理強いなんてしないわ」
コーディアは目を瞬いた。
エイリッシュは誰よりも熱心にライルとコーディアの結婚を進めていた。
コーディアの戸惑いを感知したのかエイリッシュが苦笑する。
「わたくし、あなたのことも大好きだもの。ミューリーンの娘だからっていうのもあるけれど、あなたに会ってみて大好きになったの。だからね、大好きなコーディアがライルと一緒じゃ幸せになれないのなら仕方がないわ」
「あの、でも。わたしライル様が嫌いというわけではなくて、その……苦手というか。男性自体に慣れていなくて。だからその、叱られているようで怖いとか、そういうことでもなく……」
コーディアは必死になって弁解した。必死になりすぎて本音がダダ洩れになっていることに気づかない。
エイリッシュは彼女の弁を聞いて笑いだす。
「そ、そうなの……ふふっ。ライルったら本当にまだまだよね。彼ってば一応侯爵家の跡取りでしょう。女性からちやほやされすぎちゃってて、コーディアにどう振舞ったらいいのか分からないみたいなの。ごめんなさいねえ、不出来な息子で」
「い、いえ。わたしのほうこそ至らなくって」
エイリッシュはコーディアにお茶を勧めた。
コーディアが淹れたてのお茶をちびちびと飲んでいると彼女が再び話を始めた。
「ねえ、コーディア。ライルにもう一度だけチャンスを与えてやってほしいの」
「チャンス……?」
チャンスとはなんだろう。
エイリッシュはずいっと顔を寄せてきた。
「あの子ともうひと月、一緒に過ごしてみて、ああこれはもうだめってなったら……わたくし潔くライルとあなたをくっつけるのを止めるわ。あの子との婚約は無かったことにしましょう」
「え……」
異例のことだった。そんなこと本当にできるのだろうか。コーディアがエイリッシュをじっと見つめると、彼女は不敵に笑った。
「わたくし、これでもインデルク社交界に顔が利くのよ」
「え、ええと……」
まだ新入りのコーディアとしてはどう返事をしてよいものか。
「ああでも、あなたのケイヴォンでの後見役はさせて頂戴な。おばさんあなたが安心してインデルクで暮らせるようにちゃんと取り計らうわ」
「わたし、でも……ムナガルに」
突発的な家出は反省した。みんなに迷惑をかけたし、メイヤーは責任を感じているだろう。
けれどムナガルが恋しいことには変わりはない。
「わかっているわ。ずっと暮らしていた大切な場所だったものね。でもね、あなたはインデルク人なのよ。だから、もう少しこちらに留まって頂戴。それで、インデルクのいいところも見つけて頂戴な」
「いいところ、ですか」
今のところあまり見つけられていない。
「わたくし少し性急すぎたわね。お友達が必要かなって思ったの」
エイリッシュが好意でしてくれていることはよくわかっていた。
けれどコーディアには目まぐるしすぎて息の仕方も分からなくなってしまっていたのだ。
「もっとゆっくりやりましょう。少し社交はお休みをして、あなたの好きなことをやりなさい。そういえばあなたのお父様から、あなたは読書が好きだと聞いているわ。どんな本が好きなの?」
コーディアは躊躇った。
たぶんコーディアの趣味は上流階級には合わない。現にアーヴィラ女子寄宿学校の先生たちもコーディアの読む本にはいい顔はしなかった。
「ええと……その……」
コーディアは言いあぐねた。
「わたくしもね、本を読むのよ。詩集はさっぱり。実は新聞に連載されている探偵小説が大好きなの」
「えっ! 本当ですか?」
エイリッシュがとっておきの秘密を言うときの煌めいた声を出す。二人きりなのに、ひそひそと声を落とすのは女性ならではのお約束だ。
「わ、わたしも……その……探偵小説が好きで。ロルテームで発売されている『探偵フランソワの冒険』シリーズが大好きなんです」
コーディアは身近なところに同士がいたことが嬉しくて自分の好みを打ち明けた。
「今度一緒に書店や貸本屋を回りましょうか」
「はいっ」
エイリッシュの素敵な提案にコーディアはにっこりと笑った。
◇◇◇
コーディアの様子が心配で、ライルは今日も必要最低限の予定だけをこなして帰路についた。
屋敷近くの道に差し掛かった時、通りに見知った二人組を見つけ、慌てて御者に止まるよう言いつけた。
ライルは慌てて馬車から降りた。
通りを歩いていたのはメイヤーを連れたコーディアだった。
家出騒ぎは二日前のことだ。
コーディアは突発的に家出をするほどに気を病んでいた。ライルとの関係や慣れないケイヴォン生活など、理由はいくつかあるだろう。
「コーディア」
呼びかけるとコーディアが立ち止まった。
「ライル様」
ライルはコーディアの方へ近寄った。
帽子をかぶり、外套を羽織った彼女のいでたちは華美ではない。散策をしているだけなのだろうが、また彼女が姿を消すのでは、とライルは勝手に焦燥感を募らせた。
あんな思いをするのはたくさんだった。
彼女を駅でみつけるまで生きた心地がしなかった。本当に、誰かに攫われでもしたら、街中で見知らぬ人から危害を加えられていたら、と思うと胸が焼けただれそうだった。
「何をしている?」
平素のような声を出してしまい、コーディアが顔を伏せたのを見てライルは内心しまったと後悔した。
意識せずに声を出すとライルの口調は詰問しているように聞こえるだろう。
ナイジェルにも言われた。もっと丁寧に、優しくと。
「コーディア様はお散歩の最中でございます」
コーディアに代わってメイヤーが答えた。彼女が答えてくれなかったことにライルは気落ちした。
「そうか……」
ライルは逡巡した。
つい、勢いで馬車から降りてしまったが、コーディアはライルと一緒にいること自体が嫌なのではないだろうか。
コーディアは黙ってライルのことを眺めている。その顔はほんの少し困った様子だった。
いつもこんな顔をさせている。
本当は笑ってほしいのに。ライルはコーディアに笑顔になってほしいと思っているのに失敗ばかりしている。
「散歩なら、案内したいところがある。ついてきてくれないか?」
ライルは今度はゆっくりと、高圧的にならないよう注意深く話しかけた。
ややしてからコーディアはぎこちなく頷いた。
コーディアは腕をライルの方に伸ばして、それから視線を揺らしてから腕を引っ込めようとした。
もしかしたら、ライルの腕を取った方がいいのか迷っているのかもしれない。以前ケイヴォン散策でそのことを咎めたのはライルだ。
「いや、いまは大丈夫だ。ゆっくり、一緒に歩いてくれるだけで構わない」
ライルの申し出にコーディアはこくりと頷いた。
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