竜の爪は愛を知らず・11


 流緒の母は、生まれ落ちたその日から、王妃候補であった。

 裕福な家に生まれ、何不自由なく育ち、美しく賢く育った。そして、彼女の占い師である汝水は、ひとつの予言をしていた。


美河みか様は、この世でもっとも気高き者の妻となる」


 彼女の両親は、それを王妃になる証として喜んだ。

 だが、彼女が匂うばかりに美しい乙女となった十六歳の夜、恐ろしい事件が起こった。

 嵐の夜、雷鳴が鳴り響く中、彼女の部屋に窓から男が押し入り、乱暴して逃げたのだ。それを見た付き人たちは、あれは竜神であったと騒ぎ、恐れおののいた。

 その話を聞いて、汝水は初めて自らの予言の解釈の間違いに気がついた。


 ――王の妻ではなく、神の妻となる予言。


 美河は、たいそうな衝撃を受け、長らく寝込んでしまった。

 家は、王妃候補の話が白紙に戻ることを恐れ、彼女をちょっとした病と触れ回った。しかし、噂は瞬く間に広がり、王の耳にも入ってしまった。

 当時の王は、若く美しく、優しい青年だった。

 多少、気が弱いところがあったかもしれぬ。だが、人々の反対を押し切って、美河を妻に迎える勇気と愛があった。

 まるで嵐の夜の事件は忘れ去られたように、二人の婚姻は華やかに催された。そして、幸せな結婚生活が続くうちに、多くの者は、本当に事件を忘れ去った。


「だが、わしには何かよからぬ予感があった。だから、美河様に望まれるまま、共に王宮に移り住んだのだ」


 当時の王宮には、今よりも多くの井戸があり、部屋の至る所に噴水があった。そして、美しい浮花が咲いていた。その水辺に寄り添う若い二人の姿は、沙地の国の未来永劫の繁栄を約束しているかのようだった。

 汝水は、やがて予感はただの気のせいと思うようになった。

 しかし、不幸はやってきた。

 二年後、産まれた王子が、竜人だったのだ。


「私が……やはり不幸を招いたのだな」


 もともと何の期待も抱かず、話を聞いていた流緒だったが、己の登場に落胆させられ、言葉を挟んだ。


「いや、おぬしではない。不幸は、二人が互いを信じられなくなったこと」


 意味深げに、汝水は小声でつぶやいた。


 

 産まれてきた赤子を見て、王は人が変わってしまった。

 彼は、押し入った男に無理矢理犯された美河を許し、受け入れた。だが、その後も不義密通を繰り返したことを許せなかったのだ。

 王は、嫌がる美河から赤子を奪い、一番近い井戸に捨てた。だが、竜神の子は人ならぬ力で生き延びた。三日三晩、井戸から赤子の鳴き声がこだまして、王宮どころか、街中の井戸から響き聞こえた。

 王は、赤子を殺そうとしたが、赤子は死なず。竜神の祟りを恐れる長老たちの言葉を聞き入れ、岩屋の奥で育てることにした。

 そして、美河を王宮の窓もない部屋に閉じ込め、毎晩訪れては、ねちねちと彼女を責めた。


 何故、裏切ったのか?

 何故、他の男と契ったのか?

 これほどまでに、愛していたのに。


 赤子が産まれて七日後、ついに美河は心を病み、赤子の声が聞こえると言って、汝水が目を離したわずかな隙に、井戸に飛び込み命を失った。


「美河様は、おぬしを求めて井戸に飛び込んだのじゃ」


 初めて知った出生の真実に、流緒は声も出なかった。

 多くに語られているのは、母が産まれた子を恥じ、井戸に身を投げたということだけ。

 気が狂ってという者もいれば、自らの不義を恥じてという者もいた。だが、いずれも流緒を疎んでのこと。


「王子よ、おぬしの母は、おぬしを疎んでなどいなかった。それどころか、必死で守ろうとしておった」


 愛してくれたのは、唯一、紗羅だけ――ずっとそう信じていた。

 流緒は、長らく母の存在を封印してきた。ただ、痛く悲しいだけだったから。

 喜びはなかった。ただ、動揺があった。戸惑いは、疑いになり、怒りさえ感じた。

 今更、母が愛してくれていたと知ったところで、いったい何になるのか?


「私が……愛されていたはずが……ない」

「ただ、知らなかっただけじゃ。知らないということは、不幸なことじゃ」


 汝水は話を続けた。


「わしは、王に何度も進言した。美河様は、あなたを裏切ったわけではないと。だが、嫉妬に目がくらんだ王は、真実を受け入れられなかった。王が、もう少し聡明であり、竜神信仰に興味がおありであれば、このような悲劇もなかったろうに」


 汝水の見えない目がかすかに震えた。


「竜のたねは、母親の体内に長く生きながらえる。時に、新しい種と戦い、乗っ取り、殺しあいながら。そうして、より強い竜の血を残す。王は、その知識を得ることなく、美河様の最期を知っている私の目をつぶし、嘘の予言をしたと罪を着せ、追放したのだ」

 

「母は……不義を働いてはいなかったのか?」

「もちろんじゃ。美河様は、心優しい王を愛しておった」


 もしも、王が真実を知っていたら。真実を受け入れる度量があったなら……。


 古の王国に、常に竜巫女が存在したのは、人ならぬ種の強さから。

 紗羅のあとを追うようにして、図書の間の本をほとんど読み尽くした流緒でさえも、その種の特質は信じがたかった。

 だが、考えられないことではない。むしろ自然だ。

 古の竜巫女は、従者である若者とも契っていたはず。なのに必ず竜の血をひく後継者を産み落としている。今の王家が、ほとんど竜の血をあらわさないことを思えば、竜の種の力を信じるしかあるまい。 


 流緒の脳裏に、紗羅の父でもある王の顔が浮かんだ。

 自らに流れる竜の血ゆえに疎まれていると思っていた。だが、母を愛していたが故のこと、むしろ、己の嫉妬に狂った愚行の末の憎しみだったのだろう。

 流緒が知っている王は、既に若くも美しくもなく、ただ愚鈍な男だった。そして、流緒に愛情のひとつも注ぐことがなかった。


 ――愛情を注げるはずがない。


 不思議なことに、母を破滅させた男だというのに、王を憎む気持ちはわかなかった。

 むしろ、今までのほうが憎んでいたかも知れない。ただひたすら、流緒に憎しみのみを向ける父親を。

 流緒は乾いた笑い声をあげた。


「王と私は、似ているのかも知れぬな。愛する女を破滅させるところは」

「王は、ただ優しいだけの弱い男だった。おぬしは違う」

「……違わない」


 流緒は、心がかたくなに閉ざされてゆくのを感じた。


 ――受け入れてはならぬ。


 愛されることもなく、愛することもなく、愛し方も知らず。

 それが、竜人。それが、おまえ。

 冷たい岩屋の奥の水の中で、ひっそり生きるのがお似合いだ。


「たとえ母が私を愛していたとしても、何も変わらぬ。私は、今まで憎まれすぎた。今更、どうやって人の心を取り戻すというのだ? 無理だ」


 珠耶のような女に、王のような仕打ちに、そして民人の冷たい視線や投石に、どうして心が開けるのだろう?


 ――竜の心に、今更愛などは似合わぬ。


 おまえの爪は愛を知らぬ。

 ただ、引き裂くためのものぞ。


 くくくく……と声がした。

 見ると汝水が苦しそうにしている。慌ててにじり寄ると、どうやら笑っているらしい。


「どうしてそうもせっかちなのだ? 何故、たった今、蒔いた種を、もう収穫しようとするのだ? もっとも、もう芽は出かかっているとは思うがな」


「私は!」


 流緒が真っ赤になって叫んだ時、上から越砂の声が響いた。


「流緒様ーっ! いるかー!」

「ちょっとぉ! 大変なのよぉ!」


 茶々の声が続いた。

 その声に、汝水の苦しそうな笑い声が絡まった。


「おうおう、おぬしの心の芽が呼んでおるぞ?」


 ――愛されることもなく、愛することもなく、愛し方も知らず。


 先ほどまでの心の声が遠く、薄っぺらになる。

 いつのまにか、子供たちは流緒の世界に必要な存在になっていた。人と接することで大人になるとすれば、まさに彼らは流緒と同年代の友人に等しい。


 こうして少しずつ、人となってゆくのだろうか?

 それが、人として、人の間で生きることなのだろうか?


 流緒は、何も答えずに立ち上がった。

 話をしてくれたお礼を言うのにも、何故か照れくさく思った。ひくひくと引きつった笑い声に送られて、足早に階段に向った。

 上がる前に一度だけ汝水を振り返った。

 暗闇に白い衣装が浮き上がって見えたが、まるで枯れた百合の花のようにくたびれて小さく感じた。

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