竜の爪は愛を知らず・10
このところ、睡世が起こさなければ目覚めないという汝水。
既に寿命は尽きているのだろう。おそらく睡世の力で生きながらえているのだ。
とすれば、死人を生きかえらせる竜巫女にも似た力を、睡世――いや、盧葉は持っていることとなる。
時間は残されていないのだろう。だが、流緒は躊躇した。
「睡世、外してほしい」
睡世は汝水を支えていた。彼にとって育ての親である汝水は、もはや自身で体を支えることも困難である。
だが、睡世は流緒に絶対服従。彼は、そっと会釈をすると、肘当てを老師の脇に押し込み、その場を去った。
申し訳ないと思う。
情けないことだが、同じ竜神の血を引く者として、睡世には聞かれたくなかったのだ。ましてや、彼はその血を制御しているのだから。
その気持ちを知ってなのか、汝水はうんうんとうなずいた。
真正面にどかりと座ると、流緒はいきなり本題に入った。
「私は紗羅を愛しく思う。だが、竜人の血に逆らえず、どうしても優しく接することができない。この竜人の血をどうしたら抑えられるのだ?」
汝水は答えなかった。じっと見えない目で、流緒を見つめていた。
少しひるんだが、流緒は続けた。
「私は、古の竜人と同じ白雉なのだろうか? 水に身を任せても、滝に打たれても、肉欲を消せない。竜神の声すら聞くことができなかった」
汝水はやはり答えなかった。
ただ、少し小さなうめき声にも似た声を発した。
――やはり、答えはないのか……。
流緒は、拳を握りしめた。その手は震え、掌から血がにじんだ。
「お願いだ! このような邪な気持ちでは、もう紗羅と会うことはできぬ! 紗羅とは一緒にはなれぬのだ! このままでは、おまえたちの願いとて叶わぬのだぞ? 私は一体どうしたらいいのだ?」
うつむいた流緒の耳に、くくく……と苦しげな声が届いた。
顔を上げてみると、なんと笑い声だった。
「王子よ、古の竜人は、近親婚故に白雉となったのじゃ。その因子を持たぬおぬしが同じわけがなかろうに」
「でも、確かに血がうずくのだ。紗羅を見ていると、体の中の竜の血が……」
ぞっとする感覚が戻って来た。
指先が紗羅の首に刺さり、呼吸が止まる。その瞬間、流緒は快楽の絶頂にいた。それが、何よりも恐ろしかった。
「このままでは、きっと紗羅を殺してしまう……」
「それが、竜の血故のことならば、とっくに女王は死んでおる。それどころか、葉希も生きてはおらぬだろう。あれの色香は感じなかったかの?」
ややあきれたように、汝水は言った。
流緒は顔が熱くなった。
確かに、葉希は色香の漂う女で、明るく楽しい。だが、睡世の女という意識が強いのか、抱こうなどとは思ったこともなかった。
「おぬしの悩みは、人故のもの。血のせいにしてはならぬ」
体中の血が引くような想いだった。
汝水の言うことが正しいならば、流緒は人として紗羅を殺したいのだろうか? そのようなことはないはずだ。
人として生まれさえすれば、紗羅を幸せにできたはず。
人でさえ、あれば……。
「もしも、情欲を抑えきれぬ竜人であれば、今のような悩みを持つかのう? 何日も女王に会わずにすむものかのう? おぬしは女王を大事に想う。故に、悩んでいるのではないか? これが人の悩みでなくて、何であろうのう?」
惚けている流緒の前で、汝水は再びくくく……と笑った。
「王子よ、ずいぶんと遠回りしたのう? 竜神は、人の悩みに答えては下さらぬ。人の悩みは人に聞くものじゃよ」
――人の悩み。人故の……。
流緒は小さく首を振った。
「私の場合、そうとは思えぬのだ」
「人……故じゃよ。おぬしは、今まで女王……紗羅様しか頼るべき人がいなかった。故に、愛に飢えておる。餓え過ぎた者は、腹一杯になっても、たとえ腹がはち切れても、満腹になったとは思えん。さらに食らいたくなるのじゃ」
ひとつの欲望が満たされれば、次の欲望が湧いてくる。
唇を許せば乳房を求め、乳房に触れればさらに隠された部分を望み、受け入れられればさらにその先を求めてしまう。
すべてを奪っても、まだまだと己の中で餓えが叫ぶ。次は、次は、と、求め続ける。
その飢餓をいったい……。
「だとすれば、どうしたらいいのだ?」
「どうもせん。そのうち、満足するじゃろう」
「それではだめだ! 今、でなければ! このままでは、紗羅は!」
紗羅は、国策を考えて土夏の王子を婿に迎えるだろう。
流緒は汝水に詰め寄った。だが、汝水はさらに笑い、ごほごほと咳き込み始める有様だった。
今、たった今でも、紗羅に会いたい。会いたくてたまらない。もう我慢がならない。ほんの一刻でも耐えられない。
――身も心も、狂おしいくらいに、美しい妹を求めているというのに。
会えばきっと、壊してしまう。
「人はすぐには変われんものじゃよ。どうしてそうもせっかちなんじゃ? そのうち、世の中にある様々な愛を知り、想い想われれば、おぬしの視野も広がる。そうすれば、もっとゆとりを持って、紗羅様にも接することができよう」
「想い想われる――だと?」
流緒は嘲笑した。
そのような相手は、紗羅だけだ。誰も、流緒を愛さなかった。ただ忌み嫌われ、邪険にされた。
誰が、竜人である流緒を愛しただろう? 紅玉の目を嫌わなかっただろう? 白い肌をつねり、叩き、折檻するものばかりだった。
今まで出会った人々の仕打ちを思い出し、流緒は唇を噛み締めた。
「母にも愛されなかった私が? いったい紗羅以外の誰が愛してくれるのだ?」
汝水が押し黙った。
苦しそうな笑いも止まったので、息すらも止まったのかと思われた。だが、汝水はつぶれた目を閉じ、物思いに沈んでいたようだった。
「美河様は、おぬしを愛しておった」
白々しい嘘――母が、生まれた子を恐れ、井戸に飛び込んで死んだのは、誰もが知っている。
「では、なぜ死んだのだ? 私を見捨てて」
「見捨ててなどおらぬ。ただ、気狂いしてしまったのだよ」
はっ! と声をあげて、流緒は笑った。
「生まれた子供のおぞましさに気狂いするとは! 見捨てて死んだも同然だ!」
あまりにおかしくて笑えてきた。
笑いすぎて、涙が出てきた。次から次へと涙がこぼれ、ついに流緒は両手を顔に当て、泣き出した。
「私に……母などおらぬ」
流緒の脳裏に、幼い日々の辛い思い出が蘇った。
岩屋に幽閉され、光も知らず、母の愛も父の愛も知らず、ただ、乳母に邪険に乳を与えられ、時に折檻された日々。膝を抱えて泣くだけの日々。
紗羅に救われてからというもの、どのように辛いことがあろうと、甘んじて受けてきたというのに。
なぜ、今更、これほど泣けてくるのか?
骨張った汝水の手が、泣き伏した流緒の髪に触れた。
「わしは……だから生かされていたのだな」
汝水はしみじみとその髪の感触を味わいながら、ぽつりと言った。
「どうやら、わしだけがおぬしにおぬしの母の話が出来るのだ。そのためだけにこの寿命が与えられたと思えば、わしが不思議な縁で盧葉を育てたのも天命だったのかも知れぬ。あれがいなければ、わしは死んでいて、おぬしに何の話も出来なかっただろうから」
流緒は、情けなくも子供のように嗚咽を漏らしながら、ただ汝水に髪を撫でられるがままになっていた。
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