竜の爪は愛を知らず・9
夜、目が覚めた。
紗羅が泣いているような気がして。
日中は、笑いっぱなしの葉希やそれをとがめる睡世、流緒を慕う子供たちと過ごしていて、紗羅のことを忘れることができる。
だが、夢の中まではどうともしがたい。
闇の中にたたずむ紗羅は、絢爛豪華な沙地の女王の衣装を着て、濡羽の髪を結い上げている。うなじの白さが際立ち、匂い立つような美しさ。
だが、その群青の瞳には、女王らしからぬ涙が浮かび……。紗羅は、ついに衣の袖を持ち上げて、涙を拭う。
ただ、慰めたいと思った。
しかし、夢の中の流緒は、なぜ泣くのか? と聞くこともせず、のしかかり、押し倒し、豪奢な衣装を引き裂いた。暴れる紗羅を押さえ込むと、金銀宝玉の髪留めを引き抜いた。女王の威厳はすべて消えた。
髪を鷲掴みして、上半身の自由を奪う。激しく反抗する脚を、体ごと預けて押し留める。乱れた衣の裾から、真白な大腿があらわになった。そこに、手を滑り込ませる。
重ねが緩んだ胸元に唇を這わせ、乳房の柔らかさと香りを舌で味わった。
――私のものだ。すべてすべて、私のものだ!
黒髪に埋め尽くされた紗羅の口から、うめき声以外の声が漏れた。
「あ、兄様……堪忍……」
流緒は、はっとした。
気がつくと、王宮の渡り廊下を歩いていた。
雨上がりのぬめった空気が、風に運ばれた砂のざらりとした感触が、流緒の鼓動を押し上げていた。体の芯が熱く煮えるようだった。
冷たいしずくが、流緒の頬を濡らした。
庭からせり出した樹木の葉から、ぽたりと雨水が落ちたのだ。だが、その冷たさは、闇で静かに泣く紗羅の姿を思い起こさせた。
遠くに紗羅の部屋が見える。
窓を閉め切っているのだろう、灯りが漏れず、気配も感じない。闇の中にあってますます暗い存在だった。
流緒をここまで連れて来たのは、荒れ狂う竜の肉欲だった。
たぎる想い・熱い体はそのままでも、流緒はどうにか我に戻った。だが、このまま紗羅に会えば、夢に見た状況が繰り返されるだけた。
紗羅を想い通りに支配し、滅茶苦茶にし、壊し尽くす――恐ろしいことに、それを望んでいる己が、確かにいる。体の芯が、飢えてうずくのだ。
今度、流緒の頬を濡らしたのは、雨ではなく、熱い涙だった。
翌朝、流緒は久しぶりに朝の礼の儀に出た。
だが、役人頭たちの視線は前にも増して冷たくなった。大臣たちは、見向きもしなかった。
そして……。
女王紗羅は、たった一度だけ流緒に目を向けたが、その後、二度と視線を合わせようとはしなかった。流緒には、それが一番堪えた。
会わない時間が長くなっただけ、紗羅との隙間も広くなった。埋め合わせが不可能なほど、二人は遠くなった。
そして、一月後に土夏の要人を国に招待することを知ったのが、次に堪えた。流緒が公に姿を現さないうちに、様々なことが移り変わっていた。
紗羅は、このままだと土夏の王子との結婚を決めてしまうだろう。
「土夏は、唯一神を信仰している国。王子はその神官でもあります。流緒様、このままでは……」
珍しく睡世が冷静さを失っている。
「わかっている」
このままでは、紗羅を失うだけではなく、睡世の願いも奪ってしまう。
だが、流緒にできることは何もない。
木刀が唸る。風を切る。
激しくぶつかり、甲高い音を立てる。
何もかも、忘れ去りたいがために、さらに激しく……。
「待って、待って! もう降参だよ!」
砂地に転んだ越砂が、木刀を投げ出して、手を広げた。
振りかざした木刀を、流緒は慌てて打ち捨てた。
被り物や足袋、手袋。そして、この暑さ。けして、流緒にとって楽な状態ではない。だが、実戦経験はないとはいえ、流緒は武芸に秀でていた。少年と本気でやり合うなんて、愚かだった。
「ああ、すまん。やりすぎた……」
ぜいぜいと息をしながら、越砂に手を差し伸べる。その手を頼ることなく、越砂は跳び上がった。
「流緒様、火傷している!」
夢中になりすぎた。
つい、風で被り物が舞い上がったのに、気がつかなかったのだ。手首がすっかりただれている。
茶々が苦茶苦茶の頭を突き出して、流緒の手を覗き込む。
「うわ、痛そう……」
「日影に避難しようよ、早く早く!」
「越砂が悪いんだ。流緒様が光に弱いことを知っていて、剣術に誘うんだから」
背後でぼそぼそと緑青が呟いた。
「何を!」
越砂が食ってかかる。
「それより日影に避難だよ! 早く家に入ろう!」
留架が喧嘩を止めに入った。
「何、馬鹿やっているんだか……」
一番幼い茶々がため息をついた。
――何を馬鹿なことをしているのだろう?
それは、そのまま流緒の心の言葉となった。
やるべきことがわからなくて、子供に八つ当たりだ。
屋根は張り出ていて、日影を作っていた。
砂地に台座を置き、葉希が座るように言う。そして、薬を塗ってくれた。
顔をゆがめる流緒の横で、越砂が申し訳なさそうに覗き込んでいた。
「ごめんよ、おいら、強くなりたくて。いつか沙地の国を守る兵士になりたくて」
それは、少年らしい真剣で純粋な願いだった。
葉希の話では、越砂の両親の村は戦火で焼かれたらしい。村人は誰も助からなかったと思われたが、数日後、当時葉希たちが住んでいた村に、砂漠を越えて一人の女がやって来た。
彼女は、瀕死の状態で一人の子供を産み落とし、息絶えたという。
身重で砂漠を飲まず食わずで越えるのは、まさに奇跡。いや、腹の中の子故に成し遂げられたのだろう。
故に、生まれた子供は【越砂】と名付けられ、村人に引き取られたのだと言う。
越砂だけではない。茶々は茶壺の中に捨てられていた子、留架は乾いた川に置き去りにされた子、緑青は親が毒をあおって死んだのだ。
ここの子供たちは、皆、陰を背負っている。
越砂は、目を輝かせて夢を語った。
「おいら、立派な兵士になって、紗羅様を守るんだ! そして、紗羅様をお嫁さんにする!」
「だめだ!」
流緒は思わず立ち上がった。
あたりは静まり返った。越砂は目を白黒させていた。葉希も笑わなかった。
その静けさを破ったのは、なんと一番幼い茶々だった。
「嫌だわ、流緒様ったら。こんな
わずか七歳の子供に言われて、流緒は焦った。
「……ざ、戯れ言?」
ふらふらと倒れるようにして、台座に腰を下ろす。
ぷっと吹き出したのは、葉希だった。続いて緑青と留架が笑いだした。
越砂だけが笑わずに、ぶすっと呟いた。
「そりゃあ、どうせ夢だけどさ」
――子供相手にむきになって……。
笑い倒された余韻で、流緒は真っ赤な顔をしたまま、葉希に足を洗われていた。
激しい打ち合いをしたせいか、汗と砂が混じりあい、余計に汚れた。丁寧に洗い落としながらも、思い出すのか、葉希は時々くすり……と笑った。
「そんなにおかしいのか?」
流緒が聞くと、葉希は首を横に振った。
が、笑っている。
「流緒様は、とても素直で正直なんですもの」
「素直で正直だと……おかしいのか?」
「そう、そこがおかしいのです。いえ、悪いことではありませんのよ」
洗った足を布で拭きながら、葉希は微笑みを絶やさなかった。
この女を見ていると、幸せという言葉が当てはまる。紗羅にこんな微笑みはない。
睡世のせいなのだろうか?
流緒の場合、紗羅に会えば、常に乱暴に扱いひどいことをしてしまう。思わず聞いてみた。
「睡世は優しいか?」
忙しく足を拭いていた手が止まった。
見ると、葉希は真っ赤になっていた。
「……流緒様のおかげで、最近水入らずで過ごせる時間が増えました。ありがとうございます」
急に色香が漂った。
それだけですべてはわかってしまう。同じ竜人でありながら、なぜ、睡世は竜の血に抗えるのか? 流緒にはできない。紗羅に優しくできない。
砂を払ったサンダルの上に、葉希はそっと流緒の足を置いた。
「この足は……昨夜は途中で引き返してしまったのですね」
「え? 足?」
ふと漏らした言葉に、葉希はあわてて口を塞ぐ。
「いいえ、あの……紗羅様は……」
ちょうどその時、家の奥から睡世が現れた。
「流緒様、老師様が目を覚まされました。お会いになりますか?」
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