竜の爪は愛を知らず・8


 翌朝、流緒は睡世に起こされた。


「どうしたのだ? 葉希のもとには行かなかったのか?」

「行きました。が、葉希にも床磨きの仕事がある故、一緒に戻って参りました」


 そう言われて、流緒はすっかり朝になっていることに気がついた。

 外に出ることは、思いのほか精神的にも肉体的にも流緒を疲れさせていたらしい。紗羅への思いに苦しむ間もなく眠りに落ち、それが朝まで続いたのだ。


「お急ぎください。朝の礼の儀に遅れます」


 掛けていた綿布を蹴飛ばし、体を起こし、流緒は首を回した。


「朝の儀は……いかない」

「流緒様」


「それよりもおまえの家に行く。朝の礼の儀よりもずっと有意義で、王宮図書の間に籠るよりも、知りたいことがたくさんある」


 睡世は困った顔をした。

 しかめるべき眉がないので、何ともおかしな表情になる。


「朝の礼の儀に出ることは、我々にも流緒様にも有意義なことに繋がります」

「だがな、土夏の衣装の紗羅を見るのは、我慢がならぬのだ」


 ややあきれたような口調で、睡世は言った。


「紗羅様は、残念に思うでしょう。でも、流緒様がそうおっしゃるのならば、従うまでです」


 我侭と思われただろうか? だが、流緒はかまわなかった。

 実際、朝の礼の儀に出ても苦痛なだけだし、紗羅にも会いたくなかった。会えば、体の奥がうずき、どうしようもなくなるのだから。

 それに、今まで見たこともない街の活気や人々の営み。王宮では会ったこともない葉希のような明るい女。

 どれもこれもが、流緒には新鮮で興味深かった。




 貧民窟に足を踏み入れたとたん、道端で棒切れを振り回している子供たちにぶつかった。

 あきれるほどに元気である。砂埃を舞い上げながら、走り回っている。

 回りを気にすることもなく、わあわあ騒いでいた子供たちだが、流緒を見ると急に静かになった。男の子の手から棒切れがぽとりと落ちる。女の子が、ひゃあ……と言って物陰に隠れたのを合図に、皆、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

 忌み嫌われるのには慣れていた。石を投げないだけ、ましだ。

 しかし、睡世は子供たちの態度に我慢がならなかったらしい。突然、彼らしからぬ大きな声をあげた。


越砂えっさ留架るか緑青ろくしょう茶々ちゃちゃ! おまえら、出てこい! ちゃんと流緒様に挨拶しろ!」


 最初におずおずと出てきたのは、女の子だった。四人の中では一番年下らしい。梳らない髪が、くちゃくちゃと渦を巻き、まるで鳥の巣だった。


「だって……越砂えっさが悪いんだよ。越砂が、流緒様と知り合いだっていうのに、逃げちゃうから」


「ば、ば、馬鹿言うな! 茶々ちゃちゃが逃げたから、びっくりして逃げただけだ!」


 声だけするが、姿はない。

 かわりに留架るか緑青ろくしょうという二人の少年が、観念したのか、各々逃げ込んだ場所から出てきた。二人ともすり切れて薄汚れた服だった。


「越砂!」


 睡世の声で、やっと最後の一人がもじもじしながら出てきた。下を見、ちらりと流緒を見、また再び下を見る。


「越砂の嘘つき。知り合いだって言ったのに」

 責めるように留架。


「う、う、嘘じゃないやい! 昨日、見かけた……」


「見たのと話したのじゃ、意味が違うぞ!」

 追い打ちをかけて緑青。


 どうやら昨日、こそこそ流緒を探っていたのは、越砂という少年らしい。


「それより挨拶はどうした?」


 言い争いに無中になっていた子供たちは、睡世の声でぴんと整列し、声を揃えて流緒に挨拶した。


「は、はじめまして。流緒様」


 その子供たちの顔を見て、流緒はどこかで見たことがあると感じた。特に越砂――彼は……。

 流緒の脳裏に、白竜であった時の記憶が蘇った。

 紗羅が、子供達を連れて、中庭の花壇の影に隠れている。そのうち一人は、頭から血を流し、朦朧としていた。

 越砂の額にかすかな傷の痕を見て、流緒は爬虫類の目をぐるりと一回転させた。


「おまえは、あの時の……紗羅と一緒にいた子供だな?」

「お、おいらのこと、おぼえていてくれたんだね!」


 越砂のおどおどした態度は一転した。急に目を輝かせたかと思うと、大きな声で叫び出した。


「やっぱりだ! やっぱりだよ! ほら、おいら、紗羅様が呼びかけた声を聞いていたから、絶対にそうだと思っていた! 流緒様は、沙地を守るために舞い降りた竜神様なんだ! やっぱりそうなんだ!」


「え! じゃあ越砂の言っていたことは本当なんだ! すげー!」

「竜神様が降りて来てくれたら、もうお腹いっぱいご飯が食べられる?」

「病気のふりして、お金を恵んでもらわなくてもいい?」


 子供たちは、喧嘩しかけていたのも忘れ、今度は手を取り合って跳ね回っていた。

 流緒は、目をぐるぐる回しながら、子供たちの話に飲み込まれていた。

 先日の不愉快な視線は、この純朴な願い故の、恐れと期待の入り混じったものだったのだ。


「おまえたち、もういい加減にしなさい! 流緒様は竜神ではなく、沙地の王子だ。おかしなことを触れ回るんじゃないぞ」


 睡世が怒鳴ったので、子供たちはしずしずと去って行った。

 だが、睡世の声が届かないところまでいくと、再びはしゃぎ声をあげて、走って行った。

 睡世と流緒の前は、しんと静まり返り、乾いた砂が風に舞った。



 昨日は臭いがひどくて歩けないと思った街を、今日には慣れて歩いている。

 日干し煉瓦で街ができているのは、表通りと一緒だ。それもそのはず、ここは金持ちが捨ててしまった廃墟なのだ。

 崩れた壁に簡単な屋根を掛け、砂と日差しから身を守っている。屋根の下に樽を並べているのは、雨水を屋根で集めて利用するからだ。この貧民窟には井戸がない。

 中には、屋根が飛んだり、扉が壊れたりしていて、本当に人が住んでいるのか? と疑う家もある。だが、見れば戸口に竜の紋章を飾っている。

 集落の中を案内しながら、睡世が言った。


「驚かれましたか? この集落は、貧乏故に異国の文化に触れることもなく、ほそぼそと竜神信仰を続けているのです。ですから、子供たちは皆、何の疑いもなく、一年前の天変地異は竜神の降臨と信じているのです」


「風輪の撃退以来、流緒様は英雄ですわ」


 葉希が付け足した。

 流緒は眉をしかめた。先ほどの子供たちのはしゃぎようが、どうも重たくのしかかる。


「私は単なる忌み嫌われ者だ」


 確かに竜であれば力もあろうが、人であれば何も役に立てない。



 貧民の街は、人がまばらだ。

 この時間、仕事に出ているのか、それとも家の奥に籠っているのか。だが、すれ違った人々は、なぜか流緒に手を合わせ、頭を下げて通り過ぎる。竜人である睡世に対しても、視線が優しい。

 一人の老人が走りより、これこれ……と言いながら、串刺しにしたものを流緒の目の前に差し出した。見ると、砂蜥蜴すなとかげを干したものだった。

 己が竜と化した姿に似ていないわけでもなく、不気味である。思わず髪の毛が逆立ったが、あまりにしつこいので断れない。つい受け取ってしまった。

 横で、葉希がお腹を抱えて笑っている。


「滋養強壮の薬になるほど、栄養価が高いんですよ。あの人は蜥蜴とかげ捕りの仕事をしていますの。でも、二日に一匹も捕まりません。よほど、流緒様にお会いしたことがうれしかったのでしょう」


「……これを……私が食べるのか?」


 流緒は、忙しく目を回した。

 まじまじと、手の中の蜥蜴の串刺しを見る。見れば見るほど、気持ちが悪い。滋養強壮というのも間に合っている……と思い、恥ずかしくなった。

 顔を隠しているのに、真っ赤になったのがばれたのか、葉希の笑いは止まらなくなり、涙を流していた。

 だが、その横で睡世が神妙な顔をした。


「王宮で育った流緒様に比べ、私は運がよかったのかも知れません。場所は転々としましたが、常に貧民窟で暮らしました。故に、明日をも食えぬような日々でしたが、竜神信仰とともにあり、粗末にされたことはありませんでした」


 確かに、睡世は流緒よりも幸せに過ごしてきたのだろう。過去を懐かしむような、同時に、王宮育ちの流緒を哀れむような響きがある。


「流緒様が思っている以上に、竜神信仰は沙地の国の民の支えになっているのです」


 流緒は何も言わなかった。

 敬愛されるのには、慣れていない。愛されるのは、常に紗羅の役割だったから。

 葉希が流緒の手の串刺しに目を移した。


「無理をなさらなくても……。誰も急には変われませんわ。王宮ではこのようなものを食べませんでしょう。蜥蜴は老師様にいただけませんか? 最近、ぐっとお弱りになって……」


「汝水は……悪いのか?」


 睡世はうつむいた。


「もう二度召されてもおかしくはない年齢です。最近は、二日か三日に一度しか目覚められない」


「昨日は、竜人故の力で睡世が目覚めさせたのです。老師様は、どうしても流緒様にお会いしたいと言っていて……」


「私が竜人であるからか?」

「いいえ」


 睡世は、小さな声で答えた。


「老師様は、元々、美河みか王妃……つまり、流緒様の母君の占い師でした。王家に嫁いだ時、ともに王宮に上がり、その後、王の占い師となりました。ですから、残された王子のことをずっと気に病んでいて……」


「よせ!」


 母の名を聞いたとたん、急に流緒の内側から、耐え難いほどの怒りが湧いて来た。


「私のことを、気に病んでいた、だと? そんなことは知らぬ! 母ですら、この姿を恐れ、死を選んだのに? 誰にも愛されなかったのに!」


 ――愛してくれたのは、紗羅だけだ!

 気にとめてくれたのは、紗羅だけだ! 他に誰もいない。


「母だと? そんな存在は、頭の隅にもなかった。なぜ、今更、母のことを言い出すのだ?」


 なぜここまで心が騒ぐのかわからなかった。


「私は帰る!」


 足をじゃりじゃりさせたまま、流緒は速足で歩き出した。


「はい」


 急に不機嫌になった主人に、睡世は素直に返事をした。

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