竜の爪は愛を知らず・6


 ――貧民窟。


 流緒はそこに足を踏み入れていた。

 今までの豊かな人々の家の壁を隔てた裏手に当たる場所だ。外壁が崩れ去ったことにより、その場は打ち捨てられ、壁で閉ざされた。そこにかつて奴隷だった者や近隣の村々から人々が流れ、細々と生活している。

 掃き寄せられているとはいえ、砂は深い。砂嵐のたびに吹き込んできりがないのだろう。足袋の中で、砂がじゃりじゃり音を立てる。

 風にすえた臭いがする。

 集落の奥を見ると、人気のない市があり、怪しげな食料を売っているのが見えた。まばらにいる人影も、商人の姿も、先ほどの活気ある市に比べると、雲泥の差だった。

 布の下で顔を歪めていると、睡世が呼んだ。


「こちらです」


 これ以上、不快な奥へ進まなくていいのだと思うと、流緒はほっとした。呼ばれた方向には、崩れた建物に簡単な屋根を掛けた粗末な家があった。


「私の家です。そして、私の妻です」


 家から出てきた女を差して、睡世は言った。


「おまえは……妻があったのか?」

「はい、昨年所帯を持ったばかりではありますが」


 睡世は、流緒の付き人となってから、休みなく一日中王宮で働いていた。まさか妻がいるとは思わなかった。しかも、このような集落で暮らしているとは。

 睡世の妻は、やや浅黒かった。が、それは砂のせいで汚れていたせいである。よく見れば若く、美しい顔立ちをしていた。その顔を、ややすすけた布で半分覆って、流緒と同じく日除けとしていた。

 彼女は軽く会釈して、やや甲高い通る声で言った。


「流緒様、よくいらっしゃいました。葉希ようきと申します」


 流緒はすっかり動揺して、女の挨拶を無視し、睡世の顔を見た。


「おまえが会わせたいと言ったのは……この者のことか?」


 睡世の妻に会うことが、なぜ、我が身の救いになるのだろう? 流緒には全くわからなかった。

 だが、睡世は微笑んだ。


「会わせたいと思ったことは事実です。ですが、お会いしていただきたい方は……」

「ああ、あなた。老師様は、まだお眠りになっていて……」


 残念そうに葉希が言った。睡世も顔を曇らせた。


「ああ、それは……。私は老師様の様子を見に行く。悪いがおまえは流緒様を。流緒様、申し訳ありませんが、しばしお待ちを」


「まって、あなた。まずは日影を」

「ああ、そうだ」


 急いで家の奥に入ろうとした睡世だが、再び外に出て行った。家の影に回ったかと思うと、するすると音がし、屋根が少しだけ前にせり出た。家の手前まで日影が広がった。

 屋根は小枝を繋ぎあわせ、その上に水牛の皮を張り合わせた軽いものだった。

 流緒が不思議そうな顔をすると、葉希は面白そうに微笑んだ。


「王宮の屋根よりも便利なものでしょう?」


 睡世が家の奥に消えると、流緒は困り果てた。

 何枚にも重ねて羽織った布を、葉希がそっと脱がせてくれる。何とも照れくさい。思えば、流緒は紗羅以外にこのような若い女と二人きりになったことはない。何を話せばいいのかわからない。

 透き通った肌を赤く染めたのがおかしかったのか、葉希がくすり……と笑った。よく笑う女だと思う。


「流緒様、足を洗ってさしあげます」


 勧められるがまま、流緒は台座に座った。家の入り口の近くにある樽から、葉希は桶に水を汲んだ。そして、砂地に両膝を着くと、流緒のサンダルと足袋を脱がせた。

 サラサラと足袋から砂が落ちると、まあ……と言って、葉希が笑う。何が起きても楽しいのだろう。明るい女だ。

 ゆっくりと桶の中に足を入れた。葉希が手で水をすくい、ちょろちょろと掛けてくれる。水は元々少し淀んだ色だったが、疲れた足に冷たくて気持ちがよかった。

 上から見下ろすと、うなじに後れ毛が掛かって見えた。ふと、紗羅のことを思い出して、切なくなった。


「すまぬな……」

「いえ、このようなこと」

「いや、睡世のことだ。妻がいるとも気がつかず、一度も暇を与えずにいた。寂しい想いをしていただろう?」

「あら」


 またくすりと葉希は笑う。

 今度はよほど面白いことを考えたのか、口元に濡れていない手の甲を当てた。


「私も王宮の仕事をいただいていますの。日が昇るまでに、床を磨く仕事です。そのわずかな間、夫とお話ができますもの」


 たったそれだけの時間だ。

 あの仏頂面の睡世が、この集落に近づくにつれ、表情が明るくなったわけがわかった。


「夫婦が別々なのはよくない。これからはできるだけ暇を与える。約束しよう」


 葉希は手を止めた。笑ってもいなかった。


「ありがとうございます」


 噛み締めるように言ったのち、流緒の足を替えて洗い始めた。


「……流緒様もいい人がいらっしゃるなら……あら、私ったら差し出がましい」


 話を勝手に収拾したかと思うと、葉希は再び笑い出した。

 今度は水が震えるほどに笑うので、流緒は不安になった。


「私が何か変なことでも?」

「……い、いいえ、申し訳ありません。私、笑い出すと止まらなくて」

「私が悪いのか?」

「……いえ、そのようなことは……。ただ、私、流緒様の足が……」


 容姿に劣等感を持ってはいたが、足の形を言われたことはない。少し大きめで、中指が長めだと思うが、目や髪ほどに変わっていない。

 笑ったのが男だったら、流緒は怒り出しただろう。だが、明るく陽気な女だと思えば、怒鳴る気持ちにもなれず、ついつられて苦笑いした。


 やっと睡世が戻って来た。


「お待たせしまして申し訳ありません」


 堅苦しくお辞儀をすると、今度は妻に向かう。


「葉希、おまえ、へんなところで笑ったりして、流緒様に失礼はしなかっただろうな?」


 妻の顔が赤く染まった。


「ま、あなた、なんて疑いを! 私、へんなところで笑ったりなんて!」

「……したな?」

「へんなところではありません」


 夫の追求に、葉希は肩をすくめた。睡世はため息をついた。


「流緒様、申し訳ありません」


 剃り上がった頭を低くさげ、睡世はしつこいくらいに謝った。

 流緒は微笑ましかった。無口で仏頂面の睡世が、これほどまでに面白い男だとは思わなかった。それに、妻も明るい。いや、この女の性格が、ともすると暗い男を明るくしているのだろう。

 気にするな……と言いかけて、流緒は振り向いた。誰かの視線を感じたのだ。日向に黒い影だけが、ちらりと見えて消えた。


「流緒様?」


 突然、流緒の顔に緊張が走ったのを見て、葉希が恐る恐る声をかけた。


「いや、何でも」


 向き直ると、再び誰かが見ている。背に視線を感じるのだ。再び流緒は振り返った。


「誰だ!」


 叫ぶと、影は再び消えた。

 流緒には正体が見えなかった。だが、元々流緒と向かい合っていた睡世には、誰なのかわかったらしい。


「子供です。ここに客人は珍しいので、覗き見に来たのでしょう。お許しください」

「……子供…か」


 流緒は息をついた。

 子供でも許しがたかった。追放された時、大人だけではなく、子供も流緒に石を投げた。大人より露骨に侮蔑的な言葉を投げつけた。

 客人が珍しいのか? それとも、竜人だからか? 知れたものではない。

 流緒が再び布を被り、顔を隠すのを、睡世はじっと見つめていた。そのことには何も言わず、流緒を陽のない屋内へと導いた。




 家の中は思った以上に広かった。

 地上部分は狭いのだが、奥に細い階段があり、地下に続いている。かつては貯蔵室だっただろう場所に、睡世が【老師】と呼ぶ男がいた。

 薄暗い。

 入り口の他にも窓があるのだが、時間の都合で光が差し込まない。ただ白く浮き上がっているだけだ。竜人である流緒の目にも暗いのに、慣れているせいなのか、睡世は足早だった。


「老師様、流緒様をお連れしました」


 老師と呼ばれた男は、部屋の奥まった場所に座っていた。そこはますます暗く、流緒は男の顔を見ようと目を凝らした。

 骨と皮だけの老人だった。

 土の間に麻の敷物があり、その上に座っていた。白い布を体に巻き付けるだけの衣装。それでも粗末にされてはいないのだろう、この家には不釣り合いの肘当てが置いてあった。そこに寄りかかって、老人は上半身を少し持ち上げた。


「おお、王子が来たか。懐かしいのう……」


 懐かしいとは何であろう?

 流緒には、この老人がわからない。


盧葉ろようよ、教えてくれ。王子はどんな感じかのう?」


 盧葉と呼ばれた睡世は、事細かに流緒の容姿を説明した。白い髪に紅玉の瞳、竜人の特徴である舌のことまで。


「あなたは何者だ」


 睡世の言葉を遮って、流緒は訪ねた。


「申し遅れた。わしは、汝水じょすい。先王の占い師だった」


 にわかに信じがたかった。

 王宮占い師といえば、長老と同等の特別な相談役だ。よほどのことがない限り、死ぬまで王宮で大事にされる。よほどのことがあったとしても、このような貧民窟にいる存在ではない。


「信じられぬだろうの。だが、わしの見たものが、王には耐えきれなかったのじゃよ。わしの目をつぶし、追放してくれたわ」


 く、く、く……と引き攣った声が漏れた。苦しいのかと思いきや、笑ったらしい。


「追放されたおかげで、わしはさらにこの世がよく見える」


 睡世が流緒の前に敷物を敷いた。流緒はその上にどかりと座った。

 油断がならない気がした。

 おそらく、これは珠耶が企てた出会いであろう。先王の占い師ならば、珠耶との繋がりも深いと思われる。流緒の説得にあたって、何かの報酬を得るつもりなのだろうか?

 次から次へと、目の前の老人への疑惑が浮かんでは消える。


「先王の占い師が、私に何のようなのだ? 復権の願いなら、私には何の権利もない」


 くくくと、闇に声が響いた。次には、ごほごほと咳き込む。

 睡世が駆け寄り、背中をさする。口はなかなか達者なようだが、汝水はかなりの年らしい。


「王宮の腐ったしがらみから解放されたというのに、なぜ、今更戻らねばならぬのかのう? もっとも、この盧葉は、名すら変えて王宮に潜り込んだのだがな。わしらが願いのため故に」


 睡世がうつむいた。


「睡世?」


 流緒は驚いた。

 てっきり、睡世は珠耶の手の者だと思っていた。それが、どうやら違うらしい。珠耶の願いと汝水の願いが、どう考えても一緒とは思えない。

 闇に汝水の引き攣った笑い声が響く。


「気がつかれなかったかの? 王子は竜神の血を濃く引かれたと思ったが……。人として暮らす時が長くなって、能力がそがれたかの?」


「どういうことだ?」


 苛立ってきた。

 どうも汝水は歯にものを着せぬ物言いをする。これでは、先王が追放してもやむを得ない。

 つぶやくような小さな声で、睡世が白状した。


「流緒様、私は竜神の末裔なのです」

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