竜の爪は愛を知らず・5


 屋上で紗羅と別れた翌日。

 流緒は、あきれるほどの多くの布を纏い、全身を隠した。沙地の国では皆素足にサンダルだが、流緒は足に木綿の袋を被せ、紐で足首を縛って足袋とした。手も同様、何も掴めない不便さになった。

 雨季の湿気ある暑さだ。このような衣を纏う者はいないだろう。白い髪や透き通るような肌、紅玉の瞳を隠したところで、人目を引いてしまう。

 人の中に出ることを、まったくためらわなかったわけではない。だが、ふだんは無口な睡世が、しつこいくらいに願うのだ。しかも、流緒のためと言うのだから、しぶしぶつきあうつもりになった。


 まだ、陽も上りきらないうちに、王宮の裏門から外に出た。

 朝日がほぼ真横からあたり、通りに王宮の門の長い影を落としていた。

 飛び交う罵声や石を思い出し、流緒はあたりを見渡した。だが、そこには人もまばらで、流緒と睡世に声をかける者はいなかった。

 拍子抜けするほどである。

 途中で誰かに襲われ、この身を知らぬ場所に打ち捨てられて、何の後悔があるというのだろう。どうせなら、そのほうがましだった。

 己で命を絶つよりも、打ち殺されたほうが、残された者にとって衝撃が少ないだろう。

 半ばやけくそになりながら、いつもは流緒の後ろを歩く睡世の後ろをついて歩いた。

 駱駝に荷を乗せた男や、頭に大きな籠を乗せた女が、裏門から王宮へと入ってゆく。警備の者がいちいち荷を調べたり、通行証を確認したりしている。

 流緒が珍しそうに見たのに気がついたのか、睡世は説明した。


「毎朝のことです。王宮で使われる食材や物資を運び込んでいるのです。その量たるや……未だ、見慣れることはありません」


 流緒は、布に隠れた口をぽかんと開けた。が、睡世に置いて行かれそうになり、あわてて後を追った。


 沙地の都の大通りは、早朝というのににぎやかだった。大きな市が立ち、商人や買い物客でごった返している。

 やや埃っぽい中、客寄せの声が飛び交い、流緒は圧倒されていた。

 何もかもが珍しい。思えば、流緒の世界は岩屋と王宮だけだった。この道をとぼとぼと歩いた時もあったが、下を向いて通り過ぎた。上空を飛んだこともあったが、やはり飛び越した。

 砂漠の要所である沙地は、異国の商人が多数出入りしていた。

 見たこともない衣装や、黒い肌の色、かと思えば、黄色い肌の人もいた。耳を澄ませば知っている言葉もあったが、聞いたこともない言葉もあった。

 布で視界が狭い流緒は、体ごと動かして、あちらを見たりこちらを見たり、忙しかった。時に歩みが遅くなり、睡世の足を止めさせた。


 突然、流緒の腕をとる者がいた。浅黒い顔の商人だった。矢継ぎ早に何かを言っている。商人は終始にこやかだったが、わずかな隙間からのぞく流緒の目に驚き、悲鳴を上げかけた。

 すかさず睡世が商人の口を抑え、手に何か光るものを握らせる。すると、商人はおとなしくなり、流緒と睡世から視線を外した。そして、再び客引きの声を張り上げたのだった。

 すっかり男との距離ができると。


「申し訳ありません」


 睡世が謝る。


「おまえが謝る必要はない。あの男が勝手に私の……」

「流緒様のお金を許可なく使ってしまいました。一葉ほど」


 一葉というお金が、どのくらいのものなのか、金に触れたことのない流緒にはわからなかった。


「それは……大金なのか?」

「流緒様の被り物ひとつの値にもならない金額ですが、我々にとっては大金です。あの男にははした金ですが、口止め料としては妥当でしょう」


 流緒はぐるりと目を回した。


「金が人によって価値が変わるとは……私は知らぬぞ? 金は物の価値を定める尺度でもあり、誰が持っても一葉は一葉のはず。書物にはそうあった」


 睡世は苦笑いをした。

 この男が笑う顔を、流緒は初めて見た。


「流緒様、それは正しい知識です。ですが、この世は正しいことのほうが少ないのでございます」


 言っている意味がわからず、流緒は混乱した。

 ただ唯一わかったことは、自分があまりにも何も知らないということだ。



 にぎやかな通りの向こうは、日干し煉瓦を積み上げた家が連なっていた。

 王宮ほどの豪奢さはないが、どの家も扉を美しい装飾で飾り、まるで競い合うがごとくであった。

 壁に十字をかたどった石を埋め込んでいる家が数件あり、さらに奥には、窓を十字に切ったやや高い建物が見えた。


「異国の教えを伝える家と、それを受け入れた家です。風輪の国から伝わって、徐々に増えつつあります」


 流緒もその教えを知っていた。

 歴史を辿れば、竜神信仰を悪としたのが、その教えだった。


 風輪建国よりはるか以前、やはりその教えは沙地の国にやって来て、竜神を『ドラグーン』と呼び、邪神と決めつけた。そして、血縁で契って力を得る竜巫女の儀式を野蛮とし、竜巫女を『魔女』とした。

 その結果、異国の宗教を信じる民により、沙地は一度滅ぼされたのだ。

 祟りを恐れて竜神の末裔を王としても、一度勢いを失った竜神信仰は、徐々に衰退していった。王族にかつての竜巫女のような力がないことも、民の心が離れてゆく要因となった。

 今や竜神信仰は、王家に残っていない。

 砂漠を挟んだ諸隣国が、やはりこの信仰を邪教扱いしたので、過去の悲劇を恐れた王家は、自らの血筋を王とするこの信仰を、禁じはしなかったが国教ともしなかった。

 今の時代に至って、貴族や裕福な家では、異国の文化と教えを身につけることが一種の教養と考えている者が多くなり、沙地本来の信仰を守る者は少なくなった。

 平和の時代であっても、文化の侵略は水のようにしみ込んでゆくもの。教えと教えが混じりあい、竜神は今や【祟る神】として、恐れの対象になっていた。


「沙地の国は、多くの民が交わる場所でもあります。それぞれの民族の風習や教えを縛らなかったからこそ、この国は繁栄している。でも……」


 いつになく饒舌な睡世の口が閉じられた。何か思うところがあるに違いない。


「いたしかたがないこと。失礼いたしました」


 それっきりしばらくの間、睡世から言葉がなくなった。

 二人は押し黙って歩き続けた。



 やがて、街並みはまた変わった。沙地の都の外壁に近づいたのだ。

 王宮の城壁と同様、黒塗りされた高い壁が、都の回りに張り巡らされていた。このような古い建造物には、未だ竜神への信仰の名残がある。壁の所々には、やや風化しつつある竜の紋章が彫刻されていた。

 竜神の敵である火虎かこを防ぐため――だが現実の外壁は、伝説の虎ではなく砂を防ぐための砦である。信仰の対象としての役割は、既に完全に風化した。

 壁伝いに進むと、道が砂地に変わった。

 今まで気にもしなかったが、都は固く締まった土の道だった。それは人工的なものである。石や煉瓦を敷き詰めて、にかわを混ぜた特殊な土を薄くかぶせて舗装するのだ。

 だが、この辺りまでくると、舗装は手直しされないのか、荒れ果て、石や煉瓦が顔を出し、砂が侵入していた。外壁も所々壊れていて、砂漠の砂の侵入を許していた。風輪との戦いと風化のためだった。そして、さらに進んでゆくと、道は完全に砂に変わった。

 砂地に足をとられることは、流緒に嫌な思い出を運んだ。サンダルの中に砂が入り、足を保護するためにかぶせた袋に刺さり込む。何とも不快だった。

 やがて、久しぶりに睡世が口を開いた。


「着きました」


 その声は、少し明るく聞こえた。顔も幾分ほっとした表情を見せている。

 流緒は頭をあげ、被り物の先を持ち上げた。行く手を見やる。

 そこには、壊れた家々が半分砂に埋もれていた。

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