竜の爪は愛を知らず・4
かつて足を引きずり進んだ道を、翼竜の翼にて戻ってゆく。
だが、気分は以前にもまして憂鬱だった。
もはや、流緒の苦悩を癒してくれるものも、頼れるものもない。今後、紗羅とどう接すればいいのかもわからない。ましてや、彼女は別の男のものとなるかも知れないのに。
そう思っただけで、流緒の中の血は騒ぐ。
心の中に、理性の欠片ひとつない竜が住んでいて、紗羅という名を鍵にして暴れまくる。
体をひとつにしても、まだまだ足りぬ。もっと結びつかねば、足りぬ――邪な竜は、紗羅のすべてを奪っても、けして満足しないのだ。
いっそのこと、紗羅を殺して自分も死のうか? とすら思う。
おそらく二人は一人であるべきだったのだ。死してひとつになるのも、正しいあり方なのかも知れない。
砂地と同じ色に空が染まる。
夕暮れは、流緒を攻め立てる陽光が死ぬ時間。ほんのわずかだが、楽になれる。
黒塗りの壁に囲まれた赤い日干し煉瓦の都。規則正しい箱が並んだかのような街並みの中央に、黒々とした岩山がそびえている。その麓の緑豊かな中、やはり黒塗りの城壁に囲まれた王宮がある。
が、沙地の王宮上空にたどりつくと、流緒は眉をひそめた。翼竜が降りるべき王宮の屋上に、人影を見たからだ。
沙地の国の衣装ではない。胸と首を隠すマフが風に舞う。透かし編した羊の手袋。だが、異国の民ではない。
土夏の衣装を身に纏った紗羅だった。
確かにこの衣装は紗羅に似合った。だが、今後のことを予知しているかのようで、二度と見たくはない衣装だった。
あの夜から既に五日。
しかも、流緒は朝の礼の儀にも顔を出していない。久しぶりに会うのだが、できれば会いたくはなかった。
翼竜が降り立つと、紗羅は駆け寄った。
偶然ではなく、待っていたらしい。おそらく睡世が珠耶に報告していたのだろう。
「兄様」
女王然とした態度。やや怒ったような。
流緒は答えなかった。紗羅を無視するように翼竜をねぎらい、首筋を愛撫した。
「兄様!」
再びの声。
愛撫された翼竜は、喜びの声をあげ、巣穴に戻るために飛び上がった。紗羅を無視する術はなくなった。
「兄様、なぜ、竜神の滝などに向かわれたのです? 何を望まれたのです? 教えてくださいませ」
陽は瀕死の光を投げている。流緒は被り物をとり、真白の髪をかきあげた。
「何が足りないというのです? 何がお望みなのです? はっきりおっしゃって!」
言えるわけがないだろう。
流緒が望んでいるのは、飢餓にも似た紗羅への想いを遂げること。死に至るほどに、愛をむさぼり尽くすこと。
「流緒!」
ついに紗羅は名を呼んだ。
その場を去ろうとする兄の背にすがりつき、抱きしめた。
「竜人の力など、得ないでください。もういいのです。力を使い果たせば、またあなたは……。私は、あのような辛い悲しい想いは、もうしたくはないのです」
すがりつかれて体がうずく。
どうして妹はこうも無防備なのか。つい数日前、無理矢理犯した相手に対して。
流緒の戸惑いに気がつくことなく、紗羅は涙声になって訴えた。
「もう私を置いて黄泉の国を覗かないで……。私のために、沙地の国のために、犠牲になろうとは思わないで。竜人の力など使わなくても、私はこの国を守ってみせる……」
とたんに、流緒は耐えきれなくなった。
振り向き様に、自分の体に巻き付いた紗羅の手を締め上げた。
「そうして! そのために土夏の王子と結ばれるのか! 異国の王子に抱かれるというのか!」
歯止めが利かなくなっていた。
燃えたぎる血を持つ竜が、流緒の内で暴れまくった。もう一人の流緒が必死に抗った。が、無駄な抵抗だった。
手袋の透かし模様が肌に刻印されるほど腕を強く握られて、紗羅は苦痛に顔を歪めた。その表情さえ、流緒を苛立たせた。
何もかも許しがたい。
強く抱きしめ、噛み付くような口づけをする。舌を吸い、舌で絡めて味わい尽くす。それでもまだ足りない。まだまだ――足りない。
「このような! このような衣を纏うな!」
流緒は土夏の衣装の胸元に手をかけた。
「や、やめて!」
紗羅の声と布が裂ける音が同時だった。
白い胸がこぼれる。五日前に流緒が残した痣は、もう既に消えかけていた。同じ場所に流緒は唇を押しつけた。痛みを伴う口づけに、紗羅は小さく声を漏らした。
その時だった。
「流緒様」
低い男の声が響いた。睡世の声だった。
流緒はやっと我に返った。
と、同時に、己の手の中で片胸を出し、震えている紗羅に気がついた。目には涙があり、既に何筋かが頬を伝わって落ちていた。
流緒の手が力なく緩んだとたん、紗羅はその手を振り切った。そして、首に巻いていたマフをとり、胸元に押し当てると、はじけ飛ぶように走り去った。
――また……やってしまった。
おそらく声をかけられなければ、流緒は紗羅を押し倒し、衣をはぎ取り、滅茶苦茶にしてしまっただろう。
それだけではない。この屋上という開けた場所だ。万が一、甲高い悲鳴でもあげようものなら、珠耶どころか大勢の人に、二人の禁忌を暴露することになっただろう。
流緒は、もう既に必要がない日除けの布を深く被った。恥知らずな顔を、誰にもさらしたくはなかった。
「お帰りなさいませ」
睡世は頭を下げた。
朝の挨拶もおざなりの付き人が、主人の帰りをねぎらう。二人に間違いが起こらぬよう、気を利かせて声をかけたに違いない。
だが、珠耶のところで働いていた男が、彼女の間者でないはずはない。今日のことは、すぐに珠耶の耳に入り、淫乱な竜人から紗羅を助けるために、どんな手でも打ってくるだろう。
――いっそのこと、また追放されれば気が楽だ。
あの滝の中で竜人と化して、ただただ紗羅のことを思い出して生きるのも。竜人であれば、また再びの危機が紗羅に訪れた時、命を投げ打って救うことができる。
そんなことを考えながら、流緒は部屋に戻ろうと歩き出した。
「流緒様……」
ふだんは口をほとんどきかない睡世が、再び流緒の名を呼んだ。珍しいこともある。何か、差し出がましいことでも言い出すのか?
「実は、お会いしてほしい者がいるのです。明日にでも時間をいただけませんでしょうか?」
付き人のお願いとしては、珍しい。
「……珠耶…か?」
「いいえ」
「……誰だ?」
流緒には思い当たらなかった。
「街中にいる者です。おそらく、流緒様のお力になれるかと……」
流緒は、ついに朝の礼の儀にも会合にも現れなくなった。紗羅を避けているとしか思えない。
王子などと言っても、所詮は卑しい竜人の取り替え子よ――と、役人頭たちがひそひそ耳打ちしあっても、紗羅は唇を噛み締めて無視するしかなかった。
――このままでは、兄様は一生日影に住むしかなくなる。王子どころか、人とも見てもらえなくなる。
どうにかしなくては……。
だが、どうにもできない。
あれほど近しいと思っていた心が、今は遠い。話す事も、まともにできないとは。
傷も癒え、そろそろ沙地の衣装を着るつもりだった。
だが、屋上での一件以来、再び土夏の衣装を纏う日々が続いている。これでは、土夏との婚姻を押し進める一派への激励ともとられかねない。
今の政局は、微妙なところで釣り合いが取れて安定している。女王として、難しい駆け引きを強いられている身だというのに……。
紗羅は、鏡の前で、そっと衣装の前を開けた。
そこに、新たな赤い痣ができていた。さらに衣装をおろすと、白く艶やかな肌が現れる。数日前まで、隠すのに苦労したいくつもの痣があった。それはもはや消えている。
それだけ長い間、流緒は現れない。
そっと胸にできた痣に触れる。目を閉じれば、流緒の唇の感触が思いだされる。紗羅は、小さな息を吐いた。痣をなぞった指先を、そっと乳房に移して……。
「失礼いたします」
突然の珠耶の声に、紗羅は我に返った。
慌てて衣装を整え、胸元をマフで覆い隠した。だが、顔は火がついたように熱かった。
「何事です?」
今、感じていたことを打ち消すように、紗羅は女王然として返事をした。
母代わりとも言える珠耶には、自らの想像を見抜かれたのでは? とおびえながら。だが、珠耶は自身が持ち込んだ話に興奮していたのか、紗羅の動揺を見抜かなかった。
「紗羅様、流緒様のことで、とんでもない噂を耳にしたのです。心落ち着けて聞いてくださいませ」
珠耶はもったいを付けたのか、本当に言いにくかったのか、咳払いをした。
「私は落ち着いています」
何を、とでも言わんばかりに紗羅は強がった。
付き人たちに噂話はつきもの。それをいちいち気にしていては、女王は勤まらない。だが、何も知らないのでは、あまりにも間が抜けている。
「実は、最近、公に姿を見せない流緒様ですが。どうやら王宮の外へ出歩いているようなのです」
「それが悪いのですか?」
紗羅はいぶかしんだ。
竜人の特徴を色濃く持つ兄は、陽光の下にはいられない。故に外出は滅多にしない。それに、爬虫類の目や白髪、先割れした人ならぬ舌先を気にして、人との交流を嫌っていた。
その兄が、いったいどこへ?
「まこと言いにくいのですが……売春宿に通っているという噂が、下々の者にまで広がっているようで」
「ばいしゅんやど?」
「言葉にするのもはばかられますが……女を金で買うところです」
紗羅は真っ赤になった。
言葉にしなくても、売春宿を知らないわけではない。ただ、兄とその言葉が、あまりにもそぐわなかったのだ。
「その噂を確かめるべく、一人が流緒様のあとをつけたそうです。すると、流緒様は貧民窟に入っていってしまい、それ以上は追えなかったと。ただ、遠目に女が流緒様を家に招き入れるのを見たと……」
「嘘です!」
「嘘ではありませぬ! その者は、流緒様が女に足を洗わせているのを見たと。そして、仲睦まじく微笑みあっていたと。そこまでは確かだと申しております!」
紗羅は思わず両手で顔を覆った。
「信じません!」
「信じなかろうと、真実でございます!」
思わずよろめいてしまった。
信じてはいるが。執拗に体を求められて、それを拒んで以来、現れないことを思えば……。
珠耶は抱きかかえるようにして、紗羅を支えた。
「ああ、紗羅様。おかわいそうに……。ですが、長い目で見れば、いいきっかけでございました。これで吹っ切れることでしょう」
「何を吹っ切るというの? 流緒と私は……」
ふたりで一人なのだ、という言葉が、音にならなかった。
「あの竜人めは、単なる痴れ者。きっと体がうずいたのでしょう。女を求めて、貧民窟通いを始めたのです。浅ましいことです」
「流緒は……兄様はそんな人では……」
珠耶はぐっと胸を張り、低く力強い声を出した。
「ええ、あれは人ではなく、竜人です。好色で肉に対する欲を抑えることができぬゆえ、下賎な商売女にも手を出すのです」
何度も首を振る紗羅に、容赦なく言葉を投げつけた。
「目をお覚ましになってください。竜の爪は愛を知らぬ故、紗羅様を己のはけ口に利用しただけです」
「これ以上、兄様を愚弄するのはおやめ!」
紗羅の語気に押され、珠耶は固まった。だが、すぐに胸を張った。
「ようございます。人をやって証拠を見つけましょう。それで、紗羅様が納得なさるのであれば」
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