竜の爪は愛を知らず・2


 流緒が忍んで紗羅の部屋に通うようになったのは、最近のことだった。

 最初は、おずおずと訪ね、恐る恐る紗羅に触れた。まだ慣れぬ行為に戸惑いながらも、紗羅は流緒を許していた。

 当初はお互い満ち足りていたのだ。

 だが、ひとつの欲望が満たされれば、次の欲望が湧いてくる。唇を許せば乳房を求め、乳房に触れればさらに隠された部分を望み、受け入れられればさらにその先を求めてしまう。

 どんなに与えられても、与えられた分余計に欲してくる。骨の髄までしゃぶりつくしても、いや、紗羅という存在を食いつくし、すべて我が身の肉となっても、まだまだ満たされないだろう。

 いつからだろう? 紗羅は徐々に流緒を拒み始めた。

 寄り添いつつも、体を硬くした。触れると反射的に身を引いた。流緒は敏感に紗羅の変化に気がついた。

 体の拒絶から始まり、今ではまるで心すら拒んでいるかのようだ。

 流緒は苛立ちと焦りを感じ、ますます紗羅を欲し、自分のものとしようとした。だが、体を結べば結ぶほど、心は遠くなった。


 そして――愛の行為は暴力に変わった。




 流緒は一睡もできぬまま、翌朝を迎えた。

 日の出の時間を向かえると、一人の男が流緒の部屋にやってくる。流緒が公に姿を出すようになってからついた付き人である。

 流緒が紗羅の兄であり、沙地の国の王子であれば、たとえ王宮の中とはいえ、ひとりで歩くのはおかしかった。それなりの付き人がいてしかるべきである。


「さがれ、睡世すいよ。ひとりでできる」


 不機嫌に言うと、男は軽く頭をさげ、扉の向こうに消えた。

 この睡世という男は、かつて珠耶の下で働く下人だった。年齢は流緒よりもやや上で、貧民窟の出。それまでは、主に厠の掃除や汚物の運搬をしていた。

 顔立ちは悪くはないが、やや浅黒い色で、いかにも外で暮らしていたかのよう。なぜか頭をきれいに剃り上げ、髪の代わりに布を巻いている。眉もない。おそらく、筋肉質な体でなければ、老人に見えるだろう。

 今は流緒の寝具を片付け、着替えを手伝い、付き従う。彼にとって出世と言えるが、流緒にとっては失笑の種だった。 

 このような男を流緒につけたのは、珠耶の意向であろう。

 竜人には、貴人を侍らせる必要がない、女などつけたら犯すに決まっている、などと、影でこそこそ触れ回っているのだ。

 だが、流緒はこの睡世を気に入っていた。

 最初は不要と思ったが、無口で余計なことはしない、そのわりに気が利く。どこか品がいい。おそらくそれなりの衣装ならば、貧民の出とは思えまい。それに他人の失笑など、今に始まったことではない。

 だが、心を許せない。彼は、珠耶の間者でもあるだろうからだ。おそらく事細かな報告をしていることだろう。

 毎夜の紗羅との逢瀬は、まずはこの男を遠ざけることから始まっていた。

 ただ命じれば従うので、楽ではあった。さほど頭が良くないのか、それとも影で探っているのか――流緒にはわかりかねた。



 朝の礼の儀に遅れる。

 流緒は日差しよけの布をすっぽりと被り、渡り廊下を急いだ。

 年間を通じて沙地の国は暑いのだが、雨季のこの時期は蒸し暑い。日中は容赦なく陽が照る。そして、夕に激しい雨が落ち、あちらこちらに川を作る。そして、翌日の昼に川は姿を消し、夕に再び姿を現す。

 砂漠に恵の季節とはいえ、大量の日差しを浴びれば死につながる流緒にとって、地獄の季節だった。ほどほどの湿度が、布を被れば被った分だけ、熱を閉じ込めてしまう。

 昨夜は音を立てぬよう素足で渡った廊下。今は、カツカツとサンダルの硬い革底が音を響かせる。耳障りだ。

 流緒のあとを数歩下がって、睡世が続いた。音はさらに二重に響く。何とも気が落ち着かない。


 彼は、今朝からの流緒の様子を、珠耶に報告するだろう。

 想像するだけで気分が悪い。

 そして、昨夜、あのような別れ方をした紗羅に、公の場で会うのが嫌だった。


 謁見の間に、大臣とすべての役人頭やくにんがしらが揃っていた。

 遅れて入った流緒に、一斉に視線が集まり、再び散った。ほぼ毎日のことである。

 この朝の礼の儀にて、女王に挨拶をし、今日一日のなすべきことを説明する――それが、役人頭の仕事である。

 何の役職もなく、発言権もない流緒は、ただ、部屋の片隅でそれを見ているのが仕事。さらし者になるようで耐え難いが、紗羅のためとあればやむを得ない。

 沙地の国の王子たらんことを、紗羅は流緒に望むのだ。流緒はそれに応えたかった。

 だが、何とも苦痛だ。

 奥に引きこもり、人目を避けたくてたまらない。王子の地位など、別に欲しくはなかった。


 ――そう……。

 欲しいのは。


 中央の高みの玉座に座る紗羅に、恐る恐る視線を向ける。

 何とも美しい。

 濡羽色の髪と白い肌。そして群青をたたえた瞳。柔らかな微笑み。まさに女王の姿――昨夜の面影をみじんもみせない。

 一瞬、あれは悪夢だったのかと思う。だが、紗羅は、いつもとは違い、隣国土夏りんこくどかの衣装を身にまとっていた。


 最近、再び勢力を広げようとしている大国風輪に対抗するため、沙地の国は土夏との連携を強めている。土夏の賓客をもてなすため、紗羅は時々この衣装を身にまとった。

 とはいえ、内政の席に異国の衣装で現れるのは、やや奇妙なことである。だが、役人頭で追求するものはいなかった。ただ一人、お調子者の料理長がお世辞を言った。


「異国の衣装もお似合いになる。まさに紗羅様は美しき女王であることよ」


 紗羅は、いつもと変わらない微笑みを持って、お礼を言った。

 流緒は顔をしかめた。

 土夏の衣装は、沙地の衣装と違い、マフと呼ばれる布で首を覆い隠す。胸元は肌を露出するが、首に巻いたマフが垂れるので、大半が隠れる。

 この衣装は、間違いなく流緒のつけた傷を隠すためのものだった。そして、子羊の革を透かしに編んだ手袋は、割れた爪を隠すためだろう。


 気丈にも紗羅は誰にも悟らせない。

 何の余韻も見せやしない。

 昨夜の秘め事は、手袋の中に押し込められているのだ。


 紗羅の手の動きが、流緒の目に残像を残した。紗羅はその手で役人頭を祝福し、励まし、書に女王の署名をする。

 か細い紗羅の腰が、凛と立ち上がる様を、流緒は虚ろに眺めた。昨夜、あの腰を引き寄せて、ひとつになったのだ。耳に届く通った声。昨夜はか細く鳴いたのだ。

 熱い感覚が蘇り、流緒は唇を噛み締めた。


 ――なぜにこうも取り繕い、万人に向けて微笑むのか?


 昨夜のことを露呈されることを恐れていたくせに、走りよって手袋を脱がせ、すべてをあからさまにしたい自分がいた。

 苛々が募り、耐えきれなくなる。

 流緒は、そっとその場を離れた。

 どうせ、傀儡なのだ。政には興味もない。誰も気にもとめないだろう。


「流緒様」


 付き添っていた睡世だけが、声をかけた。


「体調が優れないのだ。それだけだ」


 睡世は、その言葉を信じたのか、軽く頭を下げ、流緒に付き従った。



 朝には悔やんだはすなのに。

 昼には、もう。

 そして、夕には……。

 殺したいほどに、我がものにしたい。



 夕にあたりは暗くなる。

 雨雲が突然空を覆い尽くし、激しい雷雨となる。

 雨はほんのわずかな時間。雨季には、ほぼ毎日のこと。大地を潤す恵の雨である。

 だが、激しい雨音や稲光が、流緒の中の血をたぎらせる。竜人のよこしまな血だ。


 夜に雨は止んだ。

 しかし、流緒の血は騒いだままだった。

 雨上がりの湿気は、昨夜の熱くて重たい空気を、流緒の元に運んできた。

 体の芯が熱てる。耳に紗羅の喘ぐ声が響く。目を閉じれば、淫らな姿の紗羅が浮かぶ。何度も寝返りを打ち、気を紛らわした。


 紗羅の元へ行きたい。

 だが、行けば暴力に抗えない。おそらく彼女を殺しかねない。

 その恐怖は、流緒を押し留めるどころか、ますます欲望に火をつけた。


 ついに耐えきれなくなり、流緒は飛び起きた。

 昨夜を詫びたいのだ……と、言い聞かせ、抱きたいのではない、と、説得する。だが、紗羅を見てどうなるのか、自信はなかった。

 雨が打ちつけた渡り廊下は、もう既に乾いていた。鏡のように磨かれたはずの床は、砂がこびりついて、流緒の足元でざらざら音をたてた。

 もしも、廊下を急ぎ足で渡ってゆく流緒を見た者がいたとしたら、幽霊だと思ったことだろう。真白の髪が月明かりに浮き上がり、揺らめいていた。


 やっとたどり着いた紗羅の寝屋からは、明りが煌々と漏れていた。

 昨夜には閉め切った窓という窓は開いて、廊下の床に透かし模様の影を映し出している。その揺らぎから、灯火もひとつではないのであろう。

 誰か、先客がいる。流緒は、熱った体を抑えて耳を澄ませた。

 珠耶の声が響いてきた。


「もうあの野獣を近づけてはなりませぬ! 紗羅様は殺されるおつもりか?」


 その声を否定する紗羅の言葉はなく、流緒は焦った。

 どうにか紗羅の表情を見たいと思ったが、開いた窓は上部だけ。しかも、風だけが通るよう土を透かしに焼いた窓。中はほとんど見ることができない。


「所詮、あれも父親と同じ破廉恥な竜人。夜に忍んで王妃様を我がものとし、はらませた鬼畜と一緒……」

「珠耶!」


 やっと紗羅の声が聞こえた。


「兄様は、そのような人ではありません。それに、兄様は父上のお子です」

「今更何を。あれが生まれついたその日から、誰もそうは思ってはおりませぬ。あの容姿がまぎれもない証拠! あれの母……王妃様も、不義を恥じて自ら命を絶ったのです!」


 流緒は唇を噛み締めた。


 それは、まさに事実であって、誰もが知っている。知っているからこそ、長子として生まれながら、その扱いを受けてこなかったのだ。

 王が死ぬまでは【取り替え子】と呼ばれ、死んでからは【不義の子】と噂された。

 流緒は、最初に受けるべき母の愛情さえ知らなかった。生まれた我が子を見て、母は井戸に飛び込み、命を失ったという。すべては、人ならぬ血のためだ。


「……兄様は、竜神様の血を受けただけで、私と同じ父の子です」

「それを私生児というのです!」

「……」


 再び紗羅の声が止まった。

 この世に生を受けてから、初めて優しい声をかけてくれたのも、かばってくれたのも、紗羅だった。紗羅こそが、流緒のすべてだった。

 その紗羅が何も言わない。

 流緒は扉に寄りかかり、ぐったりと頭を垂れた。何でもいいから、自分を守る紗羅の言葉が聞きたかった。

 だが、聞こえたのはやはり珠耶の声だった。


「まぁ、いいでしょう。どちらにしても、もう弄ばれるのはこれっきりにしていただきます。ああ、そうだ。いっそのこと、今日のお話を進めるのもよろしいのでは?」


「……それは、まだ……」


 今日の話とはいったい何か? 乗り気でないような紗羅の声。

 珠耶の声が弾んだ。


「土夏の第三王子は、見目麗しい好青年という話。婿養子に入ってもらえれば、両国の繋がりは硬くなり、沙地の国は安泰です。よい話ではありませぬか?」


 流緒は、はっとした。

 婿養子――つまり、それは紗羅の結婚を意味する。

 朝の礼の儀も、そのあとの大臣たちとの会合も、流緒は顔を出さなかった。どうせ、王子として何も意見できない。することもない。だから。

 でも、その中でこのような話が出ていたとは。


「……それは、長老たちの意見も聞いてからのことです」


 ぴしっと響く紗羅の声。

 だが、縁談を否定したわけではない。いや、紗羅はつねに沙地の国の女王。国のために必要とあれば、政略結婚にも応じるであろう。

 流緒はよろよろとその場を離れ、走って部屋に戻った。

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