竜の爪は愛を知らず
竜の爪は愛を知らず・1
圧された空気が満ちている。
ぬめりつくような湿気と熱。それらを発散させるための窓も扉も硬く閉ざされている。
音も漏れぬ。秘密も漏れぬ。
部屋の灯りはひとつだけ。壁のくぼみに置いた油坏。だが、その火は、風もないのに重厚な空気に負けたのか、大きくなったり小さくなったり、ゆらゆらと揺れた。
硬く閉ざされた木製の扉に、二人の影がいびつに映る。
ひとつになり、ふたつになり――だが、明らかにひとりは逃げ、ひとりは追っていた。
「あぁ……」
紗羅が声をあげ、身をよじった。
その息は、吐き出されたとたん、重たい空気と交わった。部屋の気は、ますます密度をあげてゆく。
まるで誰かに助けを求めているような声。流緒は、紗羅の口を手で塞いだ。
呼吸は早くなる。苛立ちは募る。
宙を彷徨った紗羅の手が、明らかに流緒の手を払った。
風はない。気は動かない。
ねっとりと暑い空気が、二人を包み込む。涼を求めるように、紗羅の体は柔らかな寝具から離れ、固く冷たい床に落ちた。杉材で組まれた黒塗りの艶やかな床を、紗羅の息が白く濁らせた。
空気はますます濃密に凝縮してゆく。
熱い息を吐きながら、流緒は紗羅の首筋に唇を這わせた。その口元から、しゅるりと二股の舌が現れる。紗羅のうなじの産毛が浮き立つ。
重い空気に、窒息しそうになる。
気が急いた。
攻める手を休ませることはできない。完全に紗羅を征服するまでは。いや、それでもまだ足りない。きっとまだまだ満たされない。
流緒は紗羅の上に覆いかぶさった。既に生まれたままの姿。紗羅の滑らかな肌は汗に濡れて、ぬるり……と、流緒の手を拒んだ。
腕が、肢が、そして全身が流緒に抗う。その抵抗が許しがたい。
流緒の爪が脇腹に食い込み、紗羅は悲鳴をあげてのけぞった。うなじから汗の匂いに混じって髪の甘い香りがした。
その香りに、流緒は紅玉の瞳をくるり……と裏返した。
捕まえた。もう逃がさない。
紗羅は再び小さな悲鳴をあげ、こわばった。
だが、流緒は容赦がなかった。
紗羅の奥の世界をまさぐる。そこは、湿気のせいか――それとも既に一度、強引に押し入ったせいか、こわばった体とは裏腹に、しっとりと潤って柔らかだった。
流緒はやっと紗羅を支配した。
だが、まだまだ満たされない。何かが、まったく足りていない。今や自身を紗羅の中に置き、その鼓動すら感じているというのに。
扉に映った影は、たったひとつの揺れる固まりとなり、上下に揺れた。炎のせいか、空気のせいか、影はゆらゆらと熱に歪む。
まるで、弦楽器と手練の奏者――流緒は、まるで音を奏でるように、紗羅は張りつめた胡弓のように。紗羅が音をあげる。その声は、楽器から子猫の鳴き声のように、か弱く高く変化していく。
濡羽色の髪が大きく揺れた。揺れるたびに、黒塗りの床に水滴が散った。紗羅の汗、もしくは涙。
床と紗羅の両手の間から、きりきりと音が響く。
さらに、さらに、さらに強く――。
さらに、さらに、高く激しく――満たされるまで。
だが、飢えは収まらない。
紗羅が床を舐めるように首を振り上げ、懇願した。
「……兄様、堪忍……」
張りつめたものが突然プツリと切れた。
――抗うな!
おまえは私のものだ! すべて私のものだ!
怒鳴り散らしたい言葉は、胸の奥に吸い込まれ、激しい動悸となった。抵抗も懇願も許しがたい。
言葉のかわりに、流緒は紗羅の腕をとり、激しくひねり上げた。あっという間に紗羅の体は裏返り、仰向けになった。
がつん、と、床に頭を打ちつける音がした。
この夜にあって流緒が久しぶりに見る紗羅の顔は、頭を打ったせいか、蒸し熱すぎる部屋のせいか、朦朧としていた。
半開きの口が空気を求めてぜいぜいと音を立てる。そこには、何の喜びもない。
許しがたかった。
紗羅は……望んでいない。
苛立ちの原因はこれだった。
怒りと欲望が結びつく。手で手を抑え、胸で胸を抑え、脚を脚で抑える。そして、唇を唇で。
紗羅の半開きの口に舌を押し込み、強く強く吸う。
紗羅はもがいた。流緒の口づけよりも空気を欲した。
それすらも許しがたかった。
そこに沙地の国の女王の姿はなかった。
きちりと結い上げられていた髪は既に乱れ、床に打ち広げられ、一部は汗で額に貼り付いていた。多くの民を魅了する瞳は輝きを失い、頬にはいくつもの涙の筋があった。
民に命令を発する唇は、激しい息づかいにさらされて乾き、かすかに震えていた。
支配者ではなく支配される者――支配に甘んじる者――まるで奴隷だ。
なんと淫らな姿だろう。白い大腿に頬ずりしながら、流緒は流緒だけが知る沙羅をみた。あとはもう、思うがままにするだけだ。
切ない声がした。
絶頂に達する瞬間、耐えきれなかったのか、紗羅は反射的に身を捻り、体を起こそうとした。
何の抗いも許さない。流緒はその頭を掌で床に押さえつけた。
――壊してやりたい! 何もかも。
目的は達せられたはずだった。
が、終息を迎えると、気分も萎えた。
まるでぽかりと空いた部分に、虚しさが詰め込まれてゆくように。
力なく紗羅の体の上に崩れ落ちると、むさぼるように空気を求めた。
気がつくと、いつの間にか油が切れたらしく、あたりは暗かった。とはいえ、竜人の目を持つ流緒には、闇はさほど暗くはない。
「紗羅……」
声をかけて、流緒はあわてて飛び起きた。
紗羅は息をしていなかった。紗羅の頭を押さえつけたその時、親指が首に食い込んでいたのだ。
圧された気の中、紗羅は苦しみもがいたかも知れない。確かに何度も抵抗したのだ。だが、流緒は手を緩めなかった。
「紗羅! 紗羅っ!」
激しく揺すると、紗羅はピクリと痙攣し、ごほごほと咳き込んだ。ほっとしつつも、流緒はぞっとした。
いったい何を望んでいた?
壊して……次は、どうする?
――殺してやりたい。
欲望に取り憑かれ、流緒はそう願い、そうするところだった。
息を吹き返したものの、紗羅は激しく呼吸を繰り返した。
ここの空気は息苦しすぎた。
流緒は立ち上がると、部屋の窓という窓を開けて回った。上部の透かし窓だけではなく、扉の上半分も。
外は月夜だった。
窓を開けたとたん、月の光と爽やかな風が部屋に押し入った。流緒は、大きく深呼吸した。すっかり苦しさに慣れてしまっていたが、密室となっていた部屋は、酸素が足りなかった。
振り返り、紗羅を見て……流緒はぞっとした。
黒塗りの床に、紗羅の白い裸体が浮かび上がって見えた。まるでボロ切れのように落ちている。その姿は、先ほど流緒を歓喜させたものだったが、今はまるで逆だった。
まるで死んでいるよう――流緒はすっかりうろたえていた。
首筋にはっきりと親指の痕。青白い肌に青い痣。脇腹と胸に、爪の痕と噛んだ痕。月の光で見なければ、それは赤く腫れ上がって見えるだろう。
寝乱れた褥の上には、ほんのりと赤い染みがあった。既に何度か体を重ねている二人。紗羅はもう処女ではない。だが、明らかに彼女は血を流した。
くるくると頭の中で、記憶が蘇る。
最初、紗羅を優しく抱こうとした。だが、触れているうちに気持ちが高まり、つい……。
紗羅は反射的に身を引いた。それに激高した流緒は、手を挙げた。そして、何の準備もしないまま、紗羅を組み強いて何度も攻め立て強引に押し入った。紗羅は身をよじり、流緒から逃れ……そして。
愛を分かち合ったのではない。強姦したのだ。
おろおろしながらも、まずは寝床を整えた。そして、紗羅を抱き上げた。
力なく落ちる腕。その指先に目をとられ、流緒は激しい後悔に襲われた。指先から出血している。
きりきりと床が鳴ったのは、何故か? 流緒が欲望に身を任せていた時、紗羅は床に爪を立てた。流緒に抵抗した証として、両手の爪が割れたのだ。
見るに耐えない。隠すように、綿布を掛けた。
「……すまない」
虚しく詫びの言葉が響く。
寝かしつけると、紗羅の虚ろな瞳に涙が浮かんでいた。
「兄様……。ひとりにさせてください」
だが、これだけ傷つけておいて置き去りにはできない。
「紗羅」
「ひとりになりたいのです」
何も言えない。
かつて、ふたりでひとりと言ってくれた紗羅。今はひとりになりたいと言う。
流緒は、立ち上がると、床に散らばった着物をさっと羽織った。
部屋を出て扉をしめると、奥からかすかな紗羅のすすり泣く声が聞こえた。抱きしめて慰めたいが、今は全くの逆効果であろう。
命に替えて守りたい愛しい妹――それが、何故? こうも壊したくなるのか?
流緒はわからなかった。
【竜の爪は愛を知らず】ということわざがある。
時代を経て神から遠ざかった竜人には、人の愛はなく、ただただ肉欲があるだけだと言うのだ。
そもそも竜神は好色な神。竜神と人との混血は、その竜の容姿と共に好色で残忍な血を伝えた。そして、多くの
その血が、流緒を肉欲に走らせている。とすれば、抗い切れぬ運命。
そう思えば、気がますます萎えてきた。
流緒の部屋は、紗羅の部屋とは真逆にある。
月に照らされた廊下は長い。
渡り廊下の柱の影が、月の傾きを教えてくれる。さほど時間は過ぎていない。愛した――いや、紗羅を奪っていた時間は短かった。
流緒は歩を進めた。が、その足は数歩で止まった。会いたくない人に会ってしまったのだ。
月の光の中、紗羅の付き人である
あれだけ閉め切ったのに、声は漏れていたのだろうか? 確かに今夜、流緒は何度も紗羅に悲鳴をあげさせてしまった。そして、自らも……。
寝屋の窓は、外からは開けられない。珠耶はおそらく部屋のそばで、きりきりしながら、情事が終わるのを待っていたのだろう。
かつて、血を分けた身内で契り、力を得たという竜巫女の伝説は、遠い過去となった。
今や異教徒の教えが沙地の国を支配している。事実はどうであれ、紗羅と流緒は、建前は兄妹。
当然、禁断の仲であり、二人の逢瀬は秘められたものでなければならない。
竜神の力を欲している珠耶は、表立って二人の邪魔はしない。竜人である流緒の力を恐れてもいる。
だが、二人の仲を認めているわけではない。
むしろ、その逆であり、我が子のようにかわいがっている紗羅を、竜人の流緒には渡したくはないのだ。
珠耶は流緒を睨みつけた。
細々と文句を言われるのだろうと思った。だが、珠耶の口から出た言葉は、たった一言だった。
「
いつもは、言い返す流緒だった。
珠耶をあざけ笑い、真っ赤に怒らせるのが常である。
が……。
さすがに今日は言葉がなかった。
彼女が紗羅の様子を見れば、軽蔑はますます加速するだろう。わなわなと震える珠耶の横を、何の反論もなく、こそこそと部屋に戻るしかない。
流緒は足早にその場を離れた。
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