輝〜テル〜

輝・1


 てるを捕まえた。


 この洞窟の空気は動かない。水たまりの水面が自然に揺れることもない。

 だが、その風は確かに私の頬に当たり、去って行こうとした。私は足を忍ばせ、通り過ぎた風にそっと近寄り、静かに手を伸ばした。


 どこから入ってきたのかはわからぬ。

 どこから来たのかもわからぬ。


 手触りも重さも感じなかった。

 だが、それは確かに私の両の手の間で、かすかに光を放って震えていた。

(放してくれ……)

 と、声がした。

 かと言われて、誰がせっかく捕まえたものを放すだろうか? 否、誰もいない。ましてや、私は先日、唯一の友を失ったばかりなのに。

 しっかりと閉じた両の手を、ほんの少しだけ緩め、中を覗く。

 光が若干強まって、手と手の間から漏れそうになった。慌ててまた、ぎちりと塞ぐ。


 私はそのまま走り出して、岩屋の奥へと急いだ。

 そして、開くことができない有様の手と足で、小さな虫籠の入り口を開き、そっと風を入れて閉じた。

 先日まで、その籠には居留(オル)という名の友がいた。そして、今日からは……。


「輝(テル)。今、そう名をつけた。今日からは、おまえが私の唯一の友だ」


 輝く風は、籠の中でくるりと回り、四方八方の壁にぶち当たっては跳ね返された。出口を探しているらしい。


 出口など、ない。

 この小さな籠が、輝の世界――。




 私の世界は、陽光のない世界だった。

 生まれた時から、この岩屋に住み、母を知らなかった。乳母は私をひどく憎み、嫌っていた。

 光がなくても夜目がきく私と違って、乳母は暗闇が嫌いだったから。蛇や蜥蜴も嫌いだった。そして、人とは違う私の爬虫類のような目が、大嫌いだった。


 乳母は、乳を私に与える時も、一度も私と目を合わせようとはしなかった。私も、眼球を裏返して乳を吸った。


「おお、まるで鼠を飲み込む蛇のようだ」


 乳母はそう言って、唇を噛み締めた。時々は、我慢がならなくなったのか、私を床に叩き落とすことさえあった。

 私は特異体質だった。

 乳母はよく私を放置したり、殴ったりした。

 人の子であったなら、死んでいたであろう。人の子であったなら、乳母もそのような仕打ちもしなかっただろうが。


 赤子の頃、私の知りうる人物は、この乳母とその夫だけだった。

 まだうら若かった乳母は、時々、仕事を抜け出してきた夫と、この岩屋が誰もこないことをいいことに、淫らな行為を繰り返していた。


「赤子とはいえ、見られているのは気がとがめる。だいたい……放っておいていいのか?」


 気の弱い夫は、時々私の存在を気にしたが、乳母はまったく気にしなかった。


「どうせ、赤子よ。しかも、白雉はくちよ。竜人だから、乳を飲ませなくたって、そう簡単に死にやしない」


 乳母は無知だった。

 確かに竜人の男は、白雉になると言われている。だが、それは長年の近親婚の影響でそうなっただけであって、実際は人よりもずっと早く知恵がつく。もちろん、その時の私には、知らぬ知識ではあったのだが。

 赤子であっても、乳母の悪意は伝わってきた。仕事怠慢も感じていた。だから、長じてからも、この乳母のことを好くことができないでいる。


 赤子から幼子に変わる頃、乳母は私の前から消えた。

 そして、私の世話をする者たちは、短い時間で入れ替わり立ち替わりとなった。時々言葉を教えるものや、本の読み方を教えるものが現れたが、誰も喜んでその仕事をしなかった。

 私は、わずかな人との交わりしかなかったにも関わらず、言葉を覚えた。だが、それを発することは稀だった。

 幼子から少年になる頃も、それは変わらなかった。

 私は醜く、呪われた存在。だが、祖末にすると竜神に祟られる。だから、この世界に閉じ込められている。でも、そのことに絶望するほど、私は他の世界を知らなかった。

 一日の大半を、岩屋に続く洞窟を探検して過ごした。そして、成長していった。



 最初の友は、小さな蜈蚣むかでだった。

 世話係がくれた虫籠に、自分の食べ残しを入れて飼った。

 蜈蚣は、たくさんある小さな足を必死に動かし、籠の中を歩き回り、私を楽しませてくれた……が。三日後に動かなくなった。


 次の友は、ねずみだった。

 洞窟の奥で見つけて、捕まえた。小さくて耳が丸く、灰色の毛に覆われていて、常に口を動かしていた。蜈蚣以上に、私を慰めてくれた。

 私は、鼠に話しかけた。そして、鼠になったつもりで答えた。ほんの少しだけ、私の回りに現れては消える人々のことや、彼らが話していく世間話やら。鼠は、常に私に相打ちをし、口を忙しく動かして、賛同した。が……しばらくすると、鼠は籠を食い破って逃げてしまった。


 次の友は、かえるだった。

 水たまりに産みつけられた卵を拾ったのだ。卵は不思議な物体だった。透き通った粒の中に、黒い粒が入っている。ぬめり……とした感覚が、指の隙間からこぼれ落ちた。黒い粒が、かすかに揺れ動いている様に気がつかなければ、私はそのまま捨てておいただろう。

 直した籠に卵を入れ、みつけた場所と同じように、岩屋の近くの水たまりの中に、籠ごと入れた。水に入った卵は、黒い粒以外は見えなくなったが、かわりに私の顔が映っていた。まるで、籠に閉じ込められたかのように。


 蛙は、この時代の私にとって、一番長く友でいてくれた存在となった。

 卵のうちの半数がオタマジャクシになり、そのうちの数匹が蛙となった。だが、籠の中に残ったのは、たった一匹だけだった。

 私は、その蛙に居留(オル)と名をつけた。

 ずっとそこに居てほしいという願いと、音で選んだ。オルという音は、私の名前とも呼応して、響きが良かった。

 私が言葉を発するのは、居留にだけ……といってもよかった。居留は、ゲロゲロと言葉ではない音しか発しないので、私は一人二役だった。


「居留、元気か?」

「ああ、元気だ。流緒(ルオ)はどうだ?」

「ああ、私も元気だ」


 そんなつまらぬ一人芝居が、私に至福の喜びをもたらした。

 居留は、籠の中を飛び回ったりした。吸盤のある足で天井や壁に逆さでいることもあった。私は、時々籠から居留を出しては、手の上で遊ばせたり、追いかけっこをしたりした。

 ある日、岩屋の掃除にきた男が、飛び跳ねていた居留をほうきで叩いた。居留はその場でひっくりかえって、二度と動かなかった。


 蜈蚣が動かなくなった時、私は死という意味を知らなかった。でも、居留が動かなくなった時、これが死なのだ……と、初めて知った。


 私は泣いた。

 とても悔やんだ。

 唯一の友をなくした悲しみと、また一人になってしまった寂しさに泣いた。


 ――籠から出してさえいなければ。


 だから、輝を捕まえた時、二度と籠から出さないと心に決めた。

 出してしまえば、私は、唯一の友をまた失うだろう。


 


 輝は、居留と違った。

 まず、姿がない。掃除婦や世話役など、他人には見えないようだ。私の目には、透き通ったものに見え、時々ぼんやりと光ったり、強く輝いたりした。虫籠の中を激しく動き回ったかと思えば、ただずっと止まったままだったりもした。

 私は、時々居留にしてあげたように、籠ごと水たまりに浸した。

 輝は、水の中でもほぼ変わらず、そこにいた。水面に私の顔が映り、まるで虫籠にいるのは私のようにも見えた。輝は、私の額で輝いていた。私の鏡像が、まるで輝そのもののように感じた。


「輝、元気か?」

「元気……なわけがないだろう」


 水面の輝の顔が歪んだ。否、私が顔を歪めたのか?

 輝と居留の大きな違いは、一人芝居ができないことだった。輝は、なんと言葉を発したのだ。


「なぜ、元気ではないのだ?」

「このようなところに閉じ込められていては、私の役割は果たせないからだ」

「役割? 役割とは何だ?」


 水面の輝は、厳しい顔をした。だが、返事はなかった。

 私は苛々して、虫籠を水深く沈め、岩屋の居室へと戻り、布団をかぶってふて寝した。



 輝は、時々私の心を逆撫でした。

 一人芝居の都合よさはなく、常に私の思いもよらぬ言葉を発した。

 そして、必ず言うことは……。


「このようなところに閉じ込められていては、私の役割が果たせない」


 私は、どうしても輝のいう役割というのが理解できなかった。

 なぜに、輝は役割とやらにこだわるのか? 役割とは何であろうか? やがて、私は、その疑問を疑問とも思わず、受け流すようになった。


「輝は、ここにいればよい。私の友であればよい」


 輝は、煌めきながら、虫籠の中をくるり……と回った。まるで冷笑するかのように。


「私は、おまえの友ではない。物語の語り部であるから」

「語り部? 語り部とは何だ?」

「おまえは質問ばかりだ。だが、三日もすれば、質問の意味さえ、意味がなくなる」


 確かにそうだった。

 私は、知らぬことを知りたい。だが、知っても何もならないことを知っている。言葉すら、覚えたところで話す相手はいないのだから。


「私は、様々な世界を渡り歩き、語るべき物語を探す風だ。だから、このような虫籠にいては、役割が果たせないのだ」

「役割が果たせないことは、そんなに悪いことなのか?」


 輝は一瞬無言になった。

 そして、かすかに光りを放ったのち、小さく一言つぶやいた。


「あわれなものだな……」


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