麗しきかな・5
流緒が生き返った後の人々の反応は様々だった。
大概の者は喜び、流緒を讃えた。しかし、同時に恐れもした。流緒を蘇らせた紗羅さえも、人々は恐れた。
民というものは
紗羅は竜巫女、恐れ敬い、拝み奉れば、すべての願いを叶えてもらえる……と信じ込んだのだ。
紗羅が力を使い果たして寝込んだと聞き、若い男を従者として提供してきた村さえある。
珠耶は、腹を立ててその男どもを村に追い返した。
「紗羅様は竜人などではありません! 人であるものを!」
誰もが困惑しているのである。
紗羅に、人であって欲しいという願い。と同時に、力ある竜巫女であってほしいという矛盾した希望。
誰もが口にして言うことはなかったが、珠耶はっきりと感じた。
紗羅に力を与え続ける流緒の存在を許しつつも、流緒に公の場に出てきて欲しくはないという気持ち。紗羅に、竜人の影を背負わせたくはないという思い。
それは、流緒の願いとも重なるものでもあった。
――紗羅には、光の中が似合うのに。
白髪の紗羅も紅玉の瞳の紗羅も、流緒には愛しい紗羅に違いない。
だが、やはり流緒が長年愛してきた紗羅は、漆黒の髪と群青の瞳を持つ光に愛される少女なのである。
紗羅が寝込んでいる一ヶ月の間、光あふれる紗羅の部屋に、灰色の被り物を纏った流緒がいた。
この時ばかりは、誰も、珠耶さえも文句どころか、感謝さえして、二人を見守った。
流緒は、紗羅を癒し続けた。
むさぼるようにして奪い取った力を、優しくゆっくりと戻したのだ。
そして、心を決めた。
――妹は忌み嫌われる存在ではなく、やはり愛される女王としてあり続けて欲しい。竜人を感じさせる存在の自身は隠れていた方がいい。
流緒は日陰に潜み、日々を送ることにしたのだった。
しかし、紗羅のための決意も、竜巫女の色香の前に歪んでしまった。
たった一冊の本が引き金となり、愛しき者を手に入れ、思うがままに扱いたいという欲望に、流緒の心は屈したのだ。
竜巫女の持つ強大な力をちらつかせても、紗羅は自己を失わず、惑うことなく流緒を拒絶した。
流緒は悔しさと恥ずかしさで頬を染め、きりきりと歯ぎしりした。
そのまま、軽く会釈をし、謁見の間を出て行こうとした。
「流緒!」
紗羅の声が呼び止めた。
その声に打たれたように立ち止まったが、振り返ることは出来ず。流緒は吐き捨ているように呟いた。
「今日のことは忘れてくれ。血迷ったようだ」
呼び覚まされた肉欲の前に、献身愛はもろくも敗れ去った。これ以上、紗羅の前にいることは恥の上塗りである。
流緒は竜人。じめじめした闇の世界が似合っている。
だが、背中に似つかわしくない温かさと柔らかい感触が伝わって来た。光の世界が似つかわしい紗羅の感触である。
「なぜ、そのようなことを言うのですか? あなたは、私の夫ではありませんか」
背骨に伝わるような響きで、紗羅が囁いた。
――夫。
確かに地底湖の水の中、二人は結ばれた。
身も心も契りを交わした。
だが、沙地の王国で定められた正式な婚姻を結んでいるわけではない。そのような話にもならなかった。
今の世は、古とは違う。
異国の教えが広まった今、兄妹で契るのは禁忌。
竜人の世界から現世に戻った時、流緒は契ったことを忘れようとし、紗羅もそのことに触れなかった。
紗羅も、忘れようとしていたはず。
ましてや、先ほどまで流緒を『兄』と呼んでいた妹が、突然『夫』と呼ぶのも奇妙だった。
「だが、おまえは!」
私に下がるように命じたではないか? 振り返り、そう言おうとして、流緒の言葉は途切れた。
紗羅の瞳に涙が潤んでいた。
「竜巫女の力など、欲しくはありません。私が欲しいのは……」
ついに耐えきれず、紗羅の瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。
拒絶された衝撃も忘れて、流緒は呆然と紗羅を見つめていた。
「流緒は卑怯です。私と契っておきながら、なぜ、私を避け続けるのです? 沙地の王子であり、我が夫であれば、力になってくれてもいいものを……」
あの時……。
やっとひとつになれたはずなのに。
なぜ、またふたつに別れて歩まねばならぬのですか?
気丈なふりの女王の仮面ははがれ落ち、紗羅はついに心のうちを訴えた。
紗羅が望んだのは、女王としてこの地に平和と安息の日々を取り戻すこと。そのためには、身を犠牲にしてもやらねばならぬことがある。それが、王族の使命だと。
だが、紗羅には重たすぎる使命でもあった。
幼き頃より聡明だと褒めたたえられてきた紗羅は、弱音を他人に見せることができない。相手がさっと身を引いてしまっては、素直に助けを求めることができない。
紗羅の本当の孤独を、流緒はどうやら理解していなかったらしい。
確かに、流緒は沙地の王子としての扱いを受けてこなかったが、思えば王族としてふるまったこともなかった。
紗羅が何を望んでいるのかも、全くわかっていなかった。
勝手に女王を立てるなどと自分に言い聞かせ、やっと通い合わせた心を閉ざし、身を引いてしまったのだ。
「たとえどんなに私の力が至らないとしても、古の力など欲しくもありません。竜巫女の傲慢な力で民を導く気はないのです。私が欲しいのは、別の力……」
きれいに整えられた衣の袖口をほんの少し引っ張り、その手で紗羅は目頭を押さえた。
「私はただ……流緒に側にいて欲しいのです」
女王として君臨する力のためならば、紗羅は竜巫女になりはしない。そこから流緒は間違っていた。
今度こそ、流緒は自らを心より恥じた。
流緒は竜巫女の力を餌に、紗羅の体だけを求めた。
だから、紗羅は傷ついたのだ。
「紗羅、悪かった。泣くな」
怒りのせいなのか、抱き寄せた紗羅の肩は震えている。
「泣きたくなどありません。今はまだ、謁見しなければならぬ者が……」
流緒は紗羅の腕を取り、代わりに唇で紗羅の涙を拭き取った。それから、唇に唇を重ねようとし……拒絶された。
流緒の瞳がぐるりと回る。
「なぜ?」
「……なぜって……。これ以上、耐えられませんわ」
紗羅は目を伏せ、艶やかな唇から言葉を漏らした。
「あ……あんなことをなさっておいて……。私がどれほど我慢しているのか……気がついてもくださらないのですか? ひどい人」
竜人の鋭い耳に、珠耶が次の謁見待ちの民人を連れて、歩いてくる音が聞こえた。
今度は、流緒の顔色が変わった。竜巫女のように情欲に溺れた顔をして、紗羅が民と謁見するのは許せない。
紗羅は女である。だが、女王でもある。
近づいてくる人の気配に、みるみるうちに泣き顔が引き締まり、毅然とした面持ちになった。
それでも熱を帯びた群青の瞳をゆらし、紗羅は流緒の耳元に吐息のような言葉を漏らした。
「あと一人で公務は終わりです。部屋でお待ちになっていて。すぐに参りますから」
珠耶が民を連れて部屋に入ったとき、流緒は別の戸口から部屋を出ていった。後には、女王らしき気品をたたえた紗羅が玉座で微笑んでいた。
珠耶の合図で民人は女王に敬意を表し、自身の村の陳情を伝え始めていた。
その頃、流緒は灰色の被り物を羽織り、長い回廊を暗い自室に向かって歩いていた。
だが、足取りは軽かった。
生きていることすら嫌われる身で、何故に死から蘇り、生を得たのか?
流緒は、初めて知ることが出来た。
紗羅の側にいて、力になるために、共に歩むために。
そのために生きている。
それから。
……あと一人。
おそらく他人が見ていたならば、気持ち悪るがるだろう微笑みを、流緒は抑えきれなかった。
張りつめた胡弓の弦のように、紗羅の声は流緒をうち震わせた。ほんの一瞬を待ってしまったら、弾き切れてしまうほど、声は切なく震えた。
あと一人の間だけ、紗羅は張りつめて女王であることを保つ。
それからは……。
二人の望みは同じである。
流緒は紗羅をつま弾くように愛撫する。だが、紗羅も流緒を奏でるのだ。
昼というのに薄暗い部屋にあって、美しい和音となって響くように、二人は愛し合うだろう。
麗しきかな……。
沙地の国は、穏やかな昼下がりである。
=了=
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