麗しきかな・3


 水底より呼び戻されて……。


 冷たくも清廉な水の中で、流緒はその手に紗羅を抱いた。

 かつて竜神の末裔たちが、互いに生気を受け渡したように、二人は交じり合いひとつになった。


 純粋に互いを欲した。

 清らかではあるが、むさぼるように激しく。

 水に冷やされながらも燃えるように熱く。


 愛だけではなく、死の際で生にも飢えていた流緒は、無我夢中で紗羅が与えたものをすべて受け取った。

 その時は、ただ幸せだけを感じていた。

 だが、紗羅の体が人であり続けるのに限界に達していることを察して、後悔すらした。


 水からあがった後も、流緒は紗羅の唇に何度も唇を重ね、冷たい体を抱き続けたが、それは温めるためだった。

 紗羅によって脱ぎ捨てられていた衣装は、白の死装束。流緒はそれを引き寄せると、紗羅の体を包み込んだ。白くなってしまった紗羅の髪を、結い上げるようにして手の中で丸め、水気を払った。

 だが、流緒自身は濡れたまま。ぽたりぽたりと髪からも衣装からも水滴が落ちた。


 珠耶が見たのは、そのような有様の二人だったのである。


 いつものように、食べられることのない食事を運ぼうとして、岩屋の入り口を少し入ったところではちあわせた。

 彼女は動揺して食事を投げ出し、その場でしりもちをついた。腰が抜けてしまったのである。


 死んだはずの竜人が生き返り、珠耶の大事な紗羅を抱きあげて立っていた。


 埋葬された時の衣装は、四十九日も水にさらされてぼろきれのようである。肩から羽織られているだけで、しかも、濡れて体に張り付き、竜人の透き通るような皮膚を浮かび上がらせていた。水から引き上げた藻草のような白髪も顔に体に絡み付いている。

 体が水で出来ているかのように、濡れていた。地底湖のほとりから、ずっとそうして紗羅を運んできたのだろう。水の跡が延々と続いている。

 そして、抱かれているほうは。紗羅こそ死人となったのでは? と思うほどの顔色。

 珠耶は、ひっ、と詰まった声を上げた。

 流緒が口を開かねば、珠耶は幽霊に会ったと思ったことだろう。


「良いところで会った。紗羅には医師が必要だ」


 立たない腰のまま、震えながら、珠耶はあとずさりした。


「死人が帰るはずがない! 必要なのは祈祷師です!」


 流緒は苦笑した。

 この事態に及んでも、人の心というものはすぐには変わらぬもの。

 特に異形に対する恐怖が強ければ強いだけ、恐れ敬われるか、恐れ忌み嫌われるか、二つしかないのだ。


「私も紗羅も生きている。だが、医師を呼ばねば明日も生きているかは、保証できぬ」


 珠耶は慌てて這いつくばってきた道を戻ろうとした。

 抜けた腰が立たず、これでは何の役にも立ちそうにない。

 このままの姿で王宮に向かえば、誰もが珠耶と同じ反応をするだけだろう。

 流緒は、そっと岩の上に紗羅を横たえた。そして、珠耶のほうへと歩み寄った。


「う、うわ、来るではありません! 悪霊めが!」


 珠耶はますます慌てて、流緒から逃げようとした。しかし、その腕を流緒は掴んでいた。

 すっと持ち上げる。

 ひゃぁ、という悲鳴とともに、珠耶の腰はしゃきと立った。

 すでにかつて折檻した子供ではない。流緒は成長し、大人となった。

 一度も珠耶にやり返しこそしなかったが、力の差は歴然である。背の高さも、腕の強さも、胸幅も……かつて岩屋で泣いていた子供ではなかった。

 ただ、目だけが以前と変わらず。

 血の赤い色の眼球がくるりと回って珠耶を見据えた。

 腰が立ったのも、人ならぬ力が働いたからであろう、並んで立って、珠耶はますます流緒を恐れた。


「紗羅のためだ。医師を呼んでくれ」




 あの時、竜人の力を持って珠耶の腰を癒した。

 だから、紗羅の凝った肩を楽にすることも、流緒には簡単なことかも知れない。だが、流緒はそうしなかった。

 もう少し、苦痛に歪む紗羅の顔を味わいたかったのだ。


「もっと肩の力を抜いて……楽になるべきだ」


 流緒は、耳元でささやいた。


「あぁ、でも……私は」


 沙地の女王であるから……という言葉は、紗羅の口元で留まって音にならなかった。

 のけぞる首筋。後れ毛のうなじ。

 流緒の瞳は一瞬釘付けになり、その後くるりと回ったところで瞼をおろした。

 竜人は、互いに交わることで力を得る。

 ただ、こうして紗羅に触れているだけでも、流緒は満たされてゆくのを感じた。だが、一度箍が外れた欲望は、更に募ってゆくものである。

 紗羅を抱き、ひとつになった感覚を思い出し、流緒は邪な感情に身をゆだねた。

 醜悪に感じられた古の竜巫女の絵は、今や美しくも鮮やかさを持って流緒の頭の中に描き変えられていた。

 淫らな竜巫女は紗羅。美しく描かれた聖女を妖しく艶やかに惑わせるのは、流緒だけが為せること。

 しゅるる……と、細長い舌が紗羅の耳を撫でた。


「……あ、兄様?」


 ぴくんと反射的に体を硬くしながらも、紗羅が驚きの声を上げた。

 しかし、流緒はやめなかった。むしろ、その紗羅の反応がますます流緒を喜ばせた。

 肩をもんでいた手を、胸元にゆるりとおろしてゆく。


「紗羅。民の願いを叶えられるような……古の竜巫女の力を、欲しいか?」


 いらぬ……とは言えぬはず。

 流緒は、切にそれを紗羅が願っていることを知っていた。

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